「悟浄。お水飲みませんか?」
八戒はすっかり看護人の目になっている。
「水?水か?くれ」
八戒がさりげなく離れた場所に置いたグラスを、ふたつとも奪って酒を呷った。一気に空けた八戒のグラスを突き出す。
「…あーあ。僕の…」
「水くれよな?…ほんでさ。隣の三蔵にハナシ戻るんだけど」
八戒が何か言い出す前に、一息に続けた。
「三蔵のアンヨ、触りたくなることってあンの?」
八戒が空のグラスを握りしめたまま笑顔で固まった。
「法衣の下のムボウビなフト腿とか、撫でたくなることってあンの?」
八戒が笑顔のままで俺の方を向いた。
キチキチキチ…とでも音のしそうな、不自然な振り向き方だったが、今の俺は何せ天下御免なのだ。室内温度が下がったような気がしても、それも全部酔いの所為だ。
「そのまま法衣掻き分けて、手ェ突っ込みたくなることって、ねェの?俺、ずっとソレが疑問だったのよね?」
キチキチキチ…尚も音が続いているような気がする。
なああああに!シラフじゃどうせ、一生聞けねェんだ!それならやっぱり、口に出せる時に言ってしまえー!尽く々く酔っぱらいな思考だが、恐らくコレも人生の真実だろう。
「な、どーよ?助手席の三蔵。触りたくなんの?で、触りたくなったとして、後部座席からの視線を気にしてでも、ナンカシテエとか思うことって、あんの?…あ?そのヘンは、ちょっとマニアックな方面かア!俺も移動中はヒマだしさあ、疑問って、ちょっとした時に湧いてくんのよね……で、どう?」
八戒は、たっぷり一分間、笑ったままで固まっていた。俺も、最後の笑顔のままで、一分間待っていた。
だって、疑問だったんだよなー。
三蔵、けっこーーーー隙だらけじゃんか。バックとか簡単に取らせるしなあ。
後部座席から見ていると、三蔵ってかなり無防備に眠ったり、『カックン』なんて首を傾けたりしてるワケよ。真っ白な被布が後ろまではためいたり、垣間見える髪が風に乱されたりすると、一緒にいー匂いなんかもして来ちゃったりするし。
まあね。例えナンカしたとしたら、確実に三蔵に発砲されるだろうから、フツー手は出さねえよな。でもガードの固いお花こそ、摘んでみたくなるとかさ。
「……そうですね、色んなコト思うこともありますねえ」
八戒が笑顔のままで答えた。
「あ、やっぱ、そーなんだ」
「僕も健全な男子ですから…助手席に好きな人が座ってたら、色んなコト考えちゃいますよ。例えば…」
思わず八戒の顔を覗き込む。
「ふたりっきりで車に乗ってたんだったら、あーんなことも、こーんなこともしたいなあとか。悟浄達が完全にぐっすり眠り込んでたら、あーんなことも出来るのにあとか。いっそ後部座席のふたりには、薬でも盛っちゃったらいいんじゃないかとか。運転荒くしたら、振り落とされてくれないかなあとか。それとも、二日酔いで寝坊している間に、置いてきぼりにしちゃいましょうかとか。まあ、そういうコト考えることもありますねえ…」
覗き込んだ近距離で、八戒の笑顔がふかーく、ふかーーーくなって行くのを、俺は冷や汗を感じながら見ていた。
「…酒呑んだ翌日って、特に寝起きの悪いヒトがいますからねえ。ええ、とんでもない誘惑ですよね、置いてきぼりっていうのは。…悟空は特にお昼寝が深いから、ひとり後部にいるくらいなら隙探して三蔵にイロイロ出来るかなあ…?そうそう、やっぱりふたり分の目をかいくぐってナニカするっていうのが、難しいんですよね。ナンカする為には、その前の段階でナンカをどうにかしなくちゃいけないんですよ」
八戒が、ぐぐーっと俺の目を覗き込む。
「……置いてきぼり、したいなあ」
「は、八戒?」
うっとりとした笑顔で、更に俺の目を覗き込む。
「どーせ悟浄だったら、なんとかして追い付いたり出来そうですしねえ。一回くらい、やってみてもいいですか?置いてきぼり」
「八戒さん?」
「どーせあなた勝手に飛び出したこともあるじゃないですか。…まあ、あの時は急なことだったから、みんなも調子狂ったりしましたけど…。深酒だの、遊び過ぎだののお仕置きで置いてきぼりだったら、みんなも賛成しそうですしねえ。…悟浄が真剣に頑張って走ったら、ちゃんと追い付いてきそうだし」
酔いが、恐ろしい勢いで醒めて行くのを感じた。
やりかねない。
八戒は、一度口に出したら、本当にやりかねない。
好奇心で下世話なコトを聞き出そうとした俺を、本気で叩きつぶす気になったら、マジでやる。
置いてきぼり。
「ねえ、悟浄。一回くらい、試してもいいですか?……お・い・て・き・ぼ・り……」
夢見るような笑顔で、囁き声で。
「勘弁してくださあい…」
「…どうしても、駄目ですか…。残念ですねえ」
嬉しそうな、ため息。
何て嬉しそうなんだろう、八戒は。俺の敗北の涙が嬉しいのか、それとも真剣にお仕置きのひとつを可能性として考えて喜んでいるのか。
ひとつだけ確かなのは、やっぱり八戒も助手席幻想は好きだと言うこと。
…その為だったら…もしかしたら、そのうち一服盛るくらいならば、……あるかもしれないということ……。
今日の会話の記憶が八戒から遠くなるまで、暫く俺は深酒を控えた方が安全だろうということ。
………置いてきぼりと一服盛られるの、どっちがマシなんだろうなあ。
倒れ込むようにベッドに横たわる三蔵に、声を掛けた。
「おい。草履ぐらい、脱ぎな。動ける?」
枕に伏せてくぐもった声の返事はあるが、一向に自分から動く気配はない。しょうがないので草履と足袋を脱がしてやり、袈裟だの経文だのを外してやろうと、三蔵の躯を仰向けにひっくり返そうとした。
骨張った腰に手を掛けると、かなり軽い躯が、ころんと転がる。くしゃくしゃの金髪が、眠り込んだイタズラ小僧めいて見えて微笑ましかった。
ほんの少しだけ優しい気分で袈裟を外してやり、息苦しそうな襟元を緩めようと三蔵の衣服に手を掛けた。
その瞬間だった。
「ん…。八戒、今日はヤだ…」
爆弾。
固まったままで見る三蔵は、目を瞑ったまま酔いに頬を染めていた。薄く開いた唇が、喉が乾いたせいか数度閉じたり開いたりを繰り返す。赤い舌が、ちらり、と見えた。
先程は子供のように感じた三蔵が、意識した途端にとんでもない色っぽさに見えてくるから不思議だ。なるほど。八戒もハマるわ、こりゃ。
つんつん、と。三蔵の頬をつついてみた。
「ん〜〜。だ…からぁ、きょう…は、ヤァだ…」
いやいやをするように、首を振る。枕の上にしどけなく金糸の髪が拡がった。
「さーんぞ?」
ついつい、引き込まれるように三蔵の顔の両脇に腕を突いて、顔を覗き込んでしまった。
沈む枕に、三蔵はぼんやりと瞳を開けた。
潤む、紫玉の瞳。
目の前にいるのが誰だか、判っていないまま、眠たげな瞳で見上げてくる。
「ねむい…」
乾いた唇を、舌が濡らしながらそう言った。
ひとつだけ断って置くが、八戒と間違われたままで、俺が三蔵に何かしようとしたとは思わないでくれ。この三蔵に何にも感じなかったという訳でもないが、俺だってそんな悪辣なことはしたくない。
…ただ、ちょーーーーっと、イタズラ心が。
先日八戒にやりこめられたままだった自分に、ちょっくら意趣返しのチャンスかもなんて、軽い気持ちが湧いてしまったことは否めない。
俺は出来るだけ優しい声を出した。
「三蔵、眠いの?今日はさしてくんないの?じゃ、俺も大人しく寝るから、替わりにキスして」
だから、試しに言ってみただけなんだって!
俺だってホントーに三蔵がキスしてくるだなんて、思いもしなかったんだから!
三蔵の躯の上に乗り上げる形だった俺に、腕が伸びてきた。
純白の袖が、俺の剥き出しの肩や腕を滑る。拳銃を握りっぱなしの癖に華奢さの抜けない手首が、俺の髪に絡みながら首に回された。
力を込められたワケじゃない。
なのに吸い寄せられるように、俺は三蔵に近付いていった。
俺が誰だか判っていない瞳が、紅い髪が頬に触れた瞬間だけ少し不思議そうな色を浮かべたが、そっと名前を呼んでやると従順に閉じられた。
三蔵の触れる肩が、首が、なんだかとても熱かった。
『パシッ』
何か弾けるような物音に、咄嗟に振り向く。
『パシッ!パンッ!』
音が響き、急に備え付けのライトが揺れだした。壁に掛けた鏡が震え、開いてもいない窓のカーテンが大きくはためく。
『バン!』
壁が叩かれるような大きな音に続き、家具が一斉にごとごとと音を立てて揺れ動いた。
「…な!?」
鏡が壁から落ち、砕ける音が響いた。今や部屋の四方八方から、何かが叩き付けるような音がしていた。壁全体が震えるようだった。
室内の空気が異様に冷たく重い。背筋に何かが走る。
騒霊現象…ポルターガイスト!?
その時一際大きな物音が響いた。扉が外から叩かれている。
「三蔵!悟浄!!どうしました!?大丈夫ですか!!」
扉に体当たりした八戒が、室内に飛び込んできた。それと同時に騒音がぴたりと止まる。
「一体何が…」
「俺にも判んねえ…。妖怪とも違う…なんか尋常でない気配がした」
「心霊現象ですか…?」
八戒は三蔵が無事眠っていることを確認して、安堵の吐息を吐いた。
「…うとうとしていたら、物凄く夢見が悪かったんです。三蔵が害される夢だったんですけど…それで飛び起きたら、胸騒ぎがして止まらなかったんです」
俺はなんとなく、嫌なカンジがした。
「三蔵に、なにかよくないモノが近付く夢で…僕は必死にそれをくい止めようと…。目覚めても、こうやって三蔵の無事な姿を確認するまでは、胸が騒いでどうしようもなかったくらい。…ああ、でも怪しげな気配って…僕には何も感じられないみたいですね。悟浄、何か他に異変はありませんか?」
三蔵の身を護ろうと必死な八戒を見て、俺は何も言えなくなってしまった。
この旅、いつまで続くんだろーなー………(涙)。