眩暈 
 優しい声を聞きながら、優しい腕が触れてくるのを感じながら、背中の向こう側から暗雲が立ち上がって来る予感がする。
 掛けられたその声が、切実な訴えを秘めたものであるのが判るのに。
 触れようと伸ばされるその腕が、おずおずとした震えを堪えたものであるのが判るのに。

 暗雲の名前を、オレは知っている。
 嘲りと残酷と卑劣と凶暴。
 嫉妬と妬みと抑圧と暴走。
 クダラナイモノの塊が、背後から忍び寄り、足を伝い登って来る予感がする。オレの一番弱い所に根を張り、押し潰そうと嘲笑っているのが聞こえる。

「三蔵…?」
 優しい声が、躊躇いがちに心の奥底まで届いて来る…。

◇   ◇   ◇
 強い雨足の嵐に、山の木々が悲鳴を上げていた。
 夜闇の中、急に連れ込まれた倉庫の中は更に暗く、湿度と幾人かの荒い吐息とが不快感を増す。捻り上げられたままの腕が千切れそうな痛みを伝え、殴られた腹にこみ上げそうになるが、口を塞がれて呼吸すらままならない。
「ただのガキじゃねえか」
 ひとりの男が吐き捨てるように言った。
「ちょっと位いおツムの出来がよかろうが、腕が立とうが、所詮光明様のお陰で生きてられるような、ちっぽけなガキじゃねえか」
 稲光が明かり取りから差し込む瞬間、暗闇に江流を抑え付けている男達が浮かび上がる。
      全員、顔見知りの僧徒達だった。
「その小綺麗な顔で光明様に取り入って、ナニやってやがるんだかな。特別扱いされてのぼせ上がった小生意気なガキが、人を見下した目しやがって…ナニサマなんだよ」
 自分のことよりも師を愚弄され、江流は怒りに眼が眩む思いだった。
「…ホラその目付き…気にいらねえんだよ!生まれも素性も判らない川流れの分際で、光明様にもその顔と躯で取り入ってんだろ!?それを、人を小馬鹿にしたような目つきで見やがって…!」
 襟元を掴まれ、頭を床に打ち付けられた。苦痛と息苦しさに、江流の眉が歪む。

 江流は、自分が周囲から浮き上がっていることを知っていた。
 三蔵法師の庇護の下にある、それだけで嫉視の対象になる。師である光明に恥をかかせぬように、勉学も武術も努力を怠ったことはない。それすらも、結果しか見ようとせぬ輩は「依怙贔屓の挙げ句のことさ」と、江流の実力を認めようとしない。髪や瞳の色が違うことも、無遠慮な視線の元だった。
 しかしそれ以上に、透けるような肌や染め上げたような紅の唇が、劣情の対象になると知るには江流は幼な過ぎた。
 閉鎖的な空間で同時に嫉視と劣情の対象になることが、卑しい暴力の衝動を起こすとはまだ理解出来なかった。

「泣いて許してって言ってみろよ」
 立て続けに頬を叩く手が横から止められ、一瞬、救われたのかと期待する。
「おい、顔にあんまり傷を付けると後がやっかいだ。     このキレイな顔で、こいつにもっと似合いのコトして貰おうぜ」
 続く下卑た笑い声に、江流は自覚無く絶望の呻きを上げた。

◇   ◇   ◇
 優しい掌が触れた瞬間のこの身の怯えを、どこかへ葬ってしまえればと。
 優しい掌が触れた瞬間のこの身の怯えが、どうしようもなく伝わってしまったのだと。
 暗雲に押し潰されそうなまま必死に立っていることを、気付かれてしまったのだと。
 躊躇いがちな声が、許しを請うような声が、離れて行ってしまうのではないかと。
 どうか謝らないで欲しいという願いを。
 届けたくて。
◇   ◇   ◇
 ねじ伏せられた躯が、床に押し付けられた頬が、痛みよりも冷たさに震えた。執拗に躯を這い回る冷ややかな手が、屈辱とそれを上回る恐怖を呼び起こす。
 押さえつけてはだけた背中が夜目にも白く浮かび上がり、捲れ上がった裾から伸びる子供の細い足を抑え付ける腕に、更に力が加わる。
 生理的な恐怖感に暴れる江流の髪が、急に勢い良く引かれた。
「!!」
「ほら、大人しくしろよ。お前の大事な顔に傷が付くぜ」
 作業用の小刀が、江流の頬に当てられる。
「……判ったら、言うこと聞くんだよ」
 金属がなで回す冷たい感触に、江流は全身の動きを止める。口元からねじ込まれた布地が外され、急に自由に入ってくるようになった空気に思わず咳き込むが、すぐに両手首を躯の前で戒められた。
「不用意に動くと、本当にその顔に傷がつくぜ」
 肩を強く押されて床に腕を突くと、ひとりの僧徒の前に跪かされた。僧徒は自分の衣服の前を開くと、江流の髪を掴んで引き寄せる。
「お前の一番得意なコトだろうよ。     舐めろよ」
 小刀が頬に冷たい軌跡を残す。

 鼻先に突き付けられたものの異臭が、江流の顔を歪ませる。
 低い嗤い声にふと気付いて視線を巡らせると、僧徒達は全員江流の顔を食い入るように見つめていた。嘲笑いながら。
「…ナニが可笑しい?」
 震えを抑えた声に、また嗤い声が高くなる。
「その高慢そうなオキレイな顔がな、お似合いなコトするところが見たいんだよ。光明様にもしてさし上げてんだろ?ホラ、俺達とも仲良くしろよ。して見せろよ」
 食いしばった口元に押し付けられながら、江流は自分の血がすっと冷えるのを感じた。
 余りにも事実無根の言い分に、一瞬にして冷静になる。

      こいつらは、オレを貶めたいだけだ    
 そして、その為にお師匠様までを貶めて。
 冷静な一方で、恐怖感を越えた怒りがわき上がった。止められない程の。

 のろのろと。
 全員に見えるように顔を上げる。
 諦め切ったような、伏せた目蓋。ことさらゆっくりと、突き付けられたものに唇を寄せ、薄く開いて舌を覗かせた。
 唾を飲む音が聞こえた。

◇   ◇   ◇
 過去から蘇る化け物の名前。
 嘲りと残酷と卑劣と凶暴。
 嫉妬と妬みと抑圧と暴走。 
 暗雲に押し潰されそうな心を、声を、腕を、足を。
 恐怖に負けそうな心を、声を、腕を、足を。

 「失いたくない」

◇   ◇   ◇
 舌が触れた瞬間に、嗤い声が上がる。
「やっぱりこういうことをするヤツだったんだよ」
 轟く雷鳴よりも、ヒステリックな嗤い声が暗い室内を満たす。雷光が従順に伏した江流の肢体を暴き、僧徒達の下卑た喜びをも暴く。
 先端から滑らせる舌が、僧徒にくぐもった声を上げさせた。
「くわえろよ」
 掴まれた髪に乱暴な力が加わり、尚強く押し付けられる。頬に当てられた小刀が、鼻梁や頬に沿うように這う。つ…と刃が滑り、頬にひと筋薄く血が滲む。
 がくりと力の抜けかけた江流は、戒められたままの手で僧徒の衣服にしがみついて躯を支えた。その鈍い動きが、自分達の力の前に打ちひしがれた江流に相応しいと、周囲の男達に思わせた。

 ゆっくり、力無くひらかれる唇。
 迎え入れるように、垣間見える薄い舌。
 柔らかそうな頬に這う、鋼の光と刃の軌跡に滲んだ血。

 グロテスクに膨れ上がったものを含んで行く唇に、僧徒達の視線が吸い寄せられる。
 美しいだけの、実力もない癖に妙に存在感のある子供を懲らしめたのだ。身の程をわきまえさせてやったのだ。この高慢そうな顔が刃の脅しに屈服し、柔らかそうな唇が、今、男のものを全て飲み込もうと    

 死んだように閉じられていた江流の目蓋が開いた瞬間、稲妻に室内が明るむ。
 猛虎の瞳が、そこに浮かび上がった。

 一際高い杉の木が落雷を受ける。
 雷の一撃が、何百年もの樹齢の大木を引き裂き、なぎ倒した。樹脂の燃える強い匂いが周囲に拡がり、倒れ込む大木が他の木々との摩擦熱に煙る。
 炸裂音と、めきめきと生木の裂ける音。
 若枝の折れ飛ぶ瞬間の、弾けるような音。
 何百年もの時を経た大木が、周囲を巻き込みながら大地に崩れ落ちる音。

 轟音と猛虎の逆襲は時を同じくした。

 肉で口中が占められた瞬間、江流の瞳孔が引き絞られた。
 刃に両の掌で掴みかかり、口の中の不快なものを一気に食い千切る。
 絶叫と、生臭い血の味と臭い。歯が、皮膚を食い破り、肉と血管を断って行く感触。
 逃げようとする肉を逃さぬように、顎に渾身の力を込めた。
 瓜を切り分けるような呆気なさで、引かれる刃が自分の掌を割いて行くのが判ったが、鋭い痛みを感じた時には小刀は僧徒の手から離れていた。
 絶叫が後を引き、江流の頭を幾つもの拳が襲う。そのうちのひとつが耳に辺り、体内雑音が妙に大きく感じられた。
 肉を、完全に引き千切ったと思った瞬間、熱い血液が口から鼻腔から大量に溢れ込んだ。

 音階の狂った叫び声が続き、一斉に分泌された怒りと恐怖の匂いが室内に漲る。ひとりの僧徒が喚きながら江流に掴みかかった。
 両肩をわし掴み、躯を揺さぶる。
 がくがくと揺れる江流の顔が、僧徒の目の前に現れた。     流血に染められた顔に、紫玉の瞳だけがらんらんと輝く     その唇がすぼめられた。
「うわあアァぁアアッ!?」
 大量の血液と共に肉片を顔面に吹き付けされ、悲鳴を上げて仰け反る。それを見た僧徒達が怒り狂った瞳で江流に向かって腕を伸ばした。
 一番手近にいた男の顔に向かって江流は思いっきり頭を叩き付け、鼻の軟骨を砕くとまた血を飛沫かせた。次に腹に向かって蹴り出された足を避けると同時に、小刀を投げ捨て、戒められたままの掌をまっすぐに突き出す。
 自分よりも弱い者を集団で虐げる快感が、逆襲によって中断されるという理不尽に、その僧徒は逆上していた。一旦は刃に屈した幼い子供を殴りつけようと。飛びかかるその顔の。
 眼球にまっすぐ掌が突き刺さった。
 悲鳴と共に、血煙が江流の周囲を彩る。
 倉庫に籠もった僧徒達は、ようやく違和感に気付く。落雷に燃えた大木が、辺りを真昼のように照らし出していた。
 江流が、濃い影を伴いゆらりと動いた。
 殴られ、顔中を自らの血と他人の血にまみれさせた江流が、焔明かりの中にひとり立つ。
 無表情な顔に、瞳だけが怒りに皓々と輝く。

「クソ!延焼だけは避けろ!周りの木を切り倒すんだ!」
「師範代、斧と鉈を持って来ました!」
「よしっ!一旦燃え拡がったら、寺どころか山ごと全部燃え尽くすぞ!死ぬ気でやれッ!!」
 落雷に炎上する大木に、叩き付ける雨の中を金山寺の僧徒が集まり出していた。夜着のままで号令を掛け合い、炎に立ち向かう。
「…風が強いが…これだけ雨が降った後だというのが幸いするか…?」
 天を仰ぐ朱泱の耳に、伽藍の向こうから切れ切れの叫びが届いた。
 いぶかしみつつ近寄る朱泱の目の前に、炎に照らされながら、狂ったように手を振り回す僧が飛び出して来る。
 どん。と、誰かが喚きながらぶつかったが、朱泱の目は吸い寄せられたように倉庫の入り口に向けられた。
 小さな人影が表れる。
 全身を朱に染め、ただ機械的な動きで足を進めている。
 乱れた着衣と縄を巻き付けられたままの両腕、血に染まった姿が朱泱の目に焼き付いた。
 壮絶に美しく、壮絶に忌まわしく、壮絶に淫らな姿。
 雨が降っていることにすら気付かぬ様子で、無表情にぎこちなく歩を進める。
「…おい!?一体何が…」
 答えの判り切った質問が口から漏れだし、途中で止める。
「…怪我は、あるのか?酷く痛むところは?」
「……オレより、倉庫の中のヤツが」
 掠れ声の返事に、 江流の肩を抱きかかえるように人目の無い所へ避けようとした朱泱が固まる。
「放って置いたら、失血死、すると思う……」

 倉庫の中でのたうち回る僧と、床に流れたおびただしい血液、棄てられた肉片に朱泱は暫し茫然とし、手当と始末を受け持った。
 落雷による火災は延焼を免れ、燻る空気と闇に紛れて、無表情なままの江流を抱えるように光明が連れ去る。
 全てをはねつけるような後ろ姿を見送る朱泱の脳裏に、血塗れで立ち尽くす江流のか細い姿が蘇った。忌まわしく、美しい姿が。

 裸身の江流に、光明がそっと湯を掛けては血を洗い流す。
 何度も何度も湯を掛けては、洗い流す。
 江流は、歯を食いしばったままだった。滴が薄赤い色を無くし、清らな透明を取り戻しても、歯を食いしばったままだった。
「…あなたには何の咎もありません」
 柔らかな湯が、江流の躯を流れ落ちる。
「…何者をも、あなたを撓めることなど出来はしないのですよ」
 立ちこめる湯気の中、自分の養い子の華奢な背中を見つめつつ、光明はそっと湯を掛け続ける。
「…誰もあなたを穢すことなど、出来はしないのですよ…」
「…オレは、大丈夫です」
 掠れがちな声が応える。
「…明日になれば、いつも通りのオレに戻ります」
「……こんな時にでも、甘えて泣いてはくれないのですね。怒り狂って、泣いてもいいのですよ」
「オレは大丈夫です。オレは…オレはお師匠様を悪く言う奴だけは許せなかったから。オレならもう大丈夫ですから」
「………」
「……何故お師匠様が泣くんです……?」
 湯の流される音が、いつ迄も続いた。
 その夜。
 江流は途切れ途切れの眠りに夢を見た。

 オレを貶めようとする、醜い顔。冷たい手。
 痛む躯。全身を襲った恐怖感。
 我が身を護り、光明の庇護者であることの誇りを護る為に流した血液。
 朱泱の茫然とした目、強張る手。
 お師匠様の     涙。
「……あなたを穢そうとする者こそを…わたしは許しません……」
 悲しく、厳しい声が、聞こえる。

 残酷な冷たい手が這い回り、恐怖を躯に刻み込んだ。
「…誰もあなたを穢すことなど、出来はしないのですよ…」
「…明日になれば、いつも通りのオレに戻ります」
 戻らねば。戻らねば。
 お師匠様と自分を護る為ならば、あんなことは何度でも繰り返してやる。
 朱泱の、茫然とした目は何を物語っていたのか。
 奴はオレに何を見たのか。

      お師匠様の姿が見える。
「……あの子を穢そうとする者こそを…わたしは許しません……」
 悲しく厳しい声が。口元だけはいつもの微笑みで。
 薄らと開いたその瞳は    
「……わたしは許しません……」
 傍らに立つ朱泱が、目蓋を閉ざした。誰かの恐怖に歪む顔が見える。経文を手に、お師匠様が真言を唱えるのが聞こえる。お師匠様の、悲しく厳しい     酷薄な微笑みが    

 途切れ途切れの眠りの合間に、何か大きな力が動いたのを感じ、同時に幾つかの生命が消えるのを感じた。
 聖なる力が、本当に全てを消し去ってくれればと。
 禍々しい記憶ごと、全てを封印してくれればと。
 全てを忘れ去ってしまわねばと    

◇   ◇   ◇
 やさしい掌がゆっくりと離れて行くのを、心が引き裂かれそうになりながら感じる。
 その唇が、淋しく微笑んで冗談に紛らわせようとするのが判る。
 自分を捉える暗雲が、いつ迄もこの躯を凍り付かせるのか。
 このまま押し潰されてしまうのかと、心が叫んでいるのが。

「……くな」

 叫びだしそうな心が、途切れそうな小さな声になる。 
 遠くに行きかけてしまった掌に、もう一度触れようとぎこちなくこの頬を傾ける。
 過ぎ去った時間の恐怖に怯えるよりも、失いたくない思いが伝わって欲しいと。
 願い、願い、願い、願い。

「……離れるな……」

 頬を伝う熱が、掌に受け止められる。
 優しい掌が、全てを受け止め、くるみ込む。

◇   ◇   ◇
 八戒は三蔵の頬に触れる自分の手を見た。自分の手を濡らす涙を見た。
「……離れるな……」
 強張ったまま、それでも必死に言葉を紡ごうとする三蔵を見た。
 自然にもう片方の手が伸び、目の前の人の顔にそっと触れた。掌に収まる三蔵の顔は、儚く強い思いを眼に浮かべている。
「……あなたが、好きなんです」
 繰り返す言葉にまた新しく涙が落ち、三蔵の腕がゆっくりと上がると八戒の掌に重ねられた。
「お前の掌は…暖かいな」
 八戒の瞳からも涙が溢れかけ、三蔵の指がそれに触れる。
「……お前も、何故泣く……?」
 自分の指を伝い落ちる滴の熱さに、三蔵は不思議そうに、微かに微笑む。

 きれいで優しい熱が、凍り付いた躯を溶かして行く。
 きれいで優しい掌が、暗雲を霧散させ、彼方へと追いやる。

 三蔵はゆっくりと両腕を八戒の背に回した。
 暖かな躯に、自分から触れて行った。
 自分をくるみ込んで行く熱が、とても強く美しいものであると感じた。

「…いつまでお前泣いてるんだ…?」
「あなたが泣きやむまで」
◇   ◇   ◇
背に回るこの腕の熱さの為に

きっと生まれてきた















 終 







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◆ note ◆
theme: 『眩暈』from video『ME AND MY DEVIL』 by ONITSUKA Chihiro
いつもいろいろありがとうなnalaさんに
このクリップ集を見た時に、性的虐待のイメージを持ってしまって
どうしてもそれが抜けなくて
心の傷を乗り越える三蔵様を書いてみました

nalaさん、ありがとう。心より



引用部分削除改訂: 010827