暗雲の名前を、オレは知っている。
嘲りと残酷と卑劣と凶暴。
嫉妬と妬みと抑圧と暴走。
クダラナイモノの塊が、背後から忍び寄り、足を伝い登って来る予感がする。オレの一番弱い所に根を張り、押し潰そうと嘲笑っているのが聞こえる。
「三蔵…?」
優しい声が、躊躇いがちに心の奥底まで届いて来る…。
江流は、自分が周囲から浮き上がっていることを知っていた。
三蔵法師の庇護の下にある、それだけで嫉視の対象になる。師である光明に恥をかかせぬように、勉学も武術も努力を怠ったことはない。それすらも、結果しか見ようとせぬ輩は「依怙贔屓の挙げ句のことさ」と、江流の実力を認めようとしない。髪や瞳の色が違うことも、無遠慮な視線の元だった。
しかしそれ以上に、透けるような肌や染め上げたような紅の唇が、劣情の対象になると知るには江流は幼な過ぎた。
閉鎖的な空間で同時に嫉視と劣情の対象になることが、卑しい暴力の衝動を起こすとはまだ理解出来なかった。
「泣いて許してって言ってみろよ」
立て続けに頬を叩く手が横から止められ、一瞬、救われたのかと期待する。
「おい、顔にあんまり傷を付けると後がやっかいだ。 このキレイな顔で、こいつにもっと似合いのコトして貰おうぜ」
続く下卑た笑い声に、江流は自覚無く絶望の呻きを上げた。
鼻先に突き付けられたものの異臭が、江流の顔を歪ませる。
低い嗤い声にふと気付いて視線を巡らせると、僧徒達は全員江流の顔を食い入るように見つめていた。嘲笑いながら。
「…ナニが可笑しい?」
震えを抑えた声に、また嗤い声が高くなる。
「その高慢そうなオキレイな顔がな、お似合いなコトするところが見たいんだよ。光明様にもしてさし上げてんだろ?ホラ、俺達とも仲良くしろよ。して見せろよ」
食いしばった口元に押し付けられながら、江流は自分の血がすっと冷えるのを感じた。
余りにも事実無根の言い分に、一瞬にして冷静になる。
こいつらは、オレを貶めたいだけだ
そして、その為にお師匠様までを貶めて。
冷静な一方で、恐怖感を越えた怒りがわき上がった。止められない程の。
のろのろと。
全員に見えるように顔を上げる。
諦め切ったような、伏せた目蓋。ことさらゆっくりと、突き付けられたものに唇を寄せ、薄く開いて舌を覗かせた。
唾を飲む音が聞こえた。
「失いたくない」
ゆっくり、力無くひらかれる唇。
迎え入れるように、垣間見える薄い舌。
柔らかそうな頬に這う、鋼の光と刃の軌跡に滲んだ血。
グロテスクに膨れ上がったものを含んで行く唇に、僧徒達の視線が吸い寄せられる。
美しいだけの、実力もない癖に妙に存在感のある子供を懲らしめたのだ。身の程をわきまえさせてやったのだ。この高慢そうな顔が刃の脅しに屈服し、柔らかそうな唇が、今、男のものを全て飲み込もうと
死んだように閉じられていた江流の目蓋が開いた瞬間、稲妻に室内が明るむ。
猛虎の瞳が、そこに浮かび上がった。
轟音と猛虎の逆襲は時を同じくした。
肉で口中が占められた瞬間、江流の瞳孔が引き絞られた。
刃に両の掌で掴みかかり、口の中の不快なものを一気に食い千切る。
絶叫と、生臭い血の味と臭い。歯が、皮膚を食い破り、肉と血管を断って行く感触。
逃げようとする肉を逃さぬように、顎に渾身の力を込めた。
瓜を切り分けるような呆気なさで、引かれる刃が自分の掌を割いて行くのが判ったが、鋭い痛みを感じた時には小刀は僧徒の手から離れていた。
絶叫が後を引き、江流の頭を幾つもの拳が襲う。そのうちのひとつが耳に辺り、体内雑音が妙に大きく感じられた。
肉を、完全に引き千切ったと思った瞬間、熱い血液が口から鼻腔から大量に溢れ込んだ。
音階の狂った叫び声が続き、一斉に分泌された怒りと恐怖の匂いが室内に漲る。ひとりの僧徒が喚きながら江流に掴みかかった。
両肩をわし掴み、躯を揺さぶる。
がくがくと揺れる江流の顔が、僧徒の目の前に現れた。 流血に染められた顔に、紫玉の瞳だけがらんらんと輝く その唇がすぼめられた。
「うわあアァぁアアッ!?」
大量の血液と共に肉片を顔面に吹き付けされ、悲鳴を上げて仰け反る。それを見た僧徒達が怒り狂った瞳で江流に向かって腕を伸ばした。
一番手近にいた男の顔に向かって江流は思いっきり頭を叩き付け、鼻の軟骨を砕くとまた血を飛沫かせた。次に腹に向かって蹴り出された足を避けると同時に、小刀を投げ捨て、戒められたままの掌をまっすぐに突き出す。
自分よりも弱い者を集団で虐げる快感が、逆襲によって中断されるという理不尽に、その僧徒は逆上していた。一旦は刃に屈した幼い子供を殴りつけようと。飛びかかるその顔の。
眼球にまっすぐ掌が突き刺さった。
悲鳴と共に、血煙が江流の周囲を彩る。
倉庫に籠もった僧徒達は、ようやく違和感に気付く。落雷に燃えた大木が、辺りを真昼のように照らし出していた。
江流が、濃い影を伴いゆらりと動いた。
殴られ、顔中を自らの血と他人の血にまみれさせた江流が、焔明かりの中にひとり立つ。
無表情な顔に、瞳だけが怒りに皓々と輝く。
倉庫の中でのたうち回る僧と、床に流れたおびただしい血液、棄てられた肉片に朱泱は暫し茫然とし、手当と始末を受け持った。
落雷による火災は延焼を免れ、燻る空気と闇に紛れて、無表情なままの江流を抱えるように光明が連れ去る。
全てをはねつけるような後ろ姿を見送る朱泱の脳裏に、血塗れで立ち尽くす江流のか細い姿が蘇った。忌まわしく、美しい姿が。
オレを貶めようとする、醜い顔。冷たい手。
痛む躯。全身を襲った恐怖感。
我が身を護り、光明の庇護者であることの誇りを護る為に流した血液。
朱泱の茫然とした目、強張る手。
お師匠様の 涙。
「……あなたを穢そうとする者こそを…わたしは許しません……」
悲しく、厳しい声が、聞こえる。
残酷な冷たい手が這い回り、恐怖を躯に刻み込んだ。
「…誰もあなたを穢すことなど、出来はしないのですよ…」
「…明日になれば、いつも通りのオレに戻ります」
戻らねば。戻らねば。
お師匠様と自分を護る為ならば、あんなことは何度でも繰り返してやる。
朱泱の、茫然とした目は何を物語っていたのか。
奴はオレに何を見たのか。
お師匠様の姿が見える。
「……あの子を穢そうとする者こそを…わたしは許しません……」
悲しく厳しい声が。口元だけはいつもの微笑みで。
薄らと開いたその瞳は
「……わたしは許しません……」
傍らに立つ朱泱が、目蓋を閉ざした。誰かの恐怖に歪む顔が見える。経文を手に、お師匠様が真言を唱えるのが聞こえる。お師匠様の、悲しく厳しい 酷薄な微笑みが
途切れ途切れの眠りの合間に、何か大きな力が動いたのを感じ、同時に幾つかの生命が消えるのを感じた。
聖なる力が、本当に全てを消し去ってくれればと。
禍々しい記憶ごと、全てを封印してくれればと。
全てを忘れ去ってしまわねばと
「……くな」
叫びだしそうな心が、途切れそうな小さな声になる。
遠くに行きかけてしまった掌に、もう一度触れようとぎこちなくこの頬を傾ける。
過ぎ去った時間の恐怖に怯えるよりも、失いたくない思いが伝わって欲しいと。
願い、願い、願い、願い。
「……離れるな……」
頬を伝う熱が、掌に受け止められる。
優しい掌が、全てを受け止め、くるみ込む。
きれいで優しい熱が、凍り付いた躯を溶かして行く。
きれいで優しい掌が、暗雲を霧散させ、彼方へと追いやる。
三蔵はゆっくりと両腕を八戒の背に回した。
暖かな躯に、自分から触れて行った。
自分をくるみ込んで行く熱が、とても強く美しいものであると感じた。
きっと生まれてきた