■■■ 花曇りの午後
暖かな日が続いていた。
その少し前から、風には爽やかな成分が、多分に混じり込むようになっていた。 待ち兼ねたように零れ咲く桜は、通り過ぎる街を、あっと言う間に染めて行った。 散って消えて行くのもあっと言う間だというのに、それでも人々が、春の盛りの喜びに浮き立って行くのが、目に見えて判った。 何が嬉しいのか、
微風に揺れる花枝の、淡い色合いを眺めるだけで。 髪に絡む花びらを摘んでは、掌に載せて息吹で飛ばす、 それだけのことで、何故あんなにも幸福になれたのか。 「俺も好きだよ、桜」
「へえ?食えないモンに、珍しいな、サルが。あ、食うのか。『美味そうな匂いするー』とか言って、木に登って、花をむしゃむしゃ食っちまうのか」
「バカッパ!木登りして食わねえよ!……塩漬けの桜は食うけど。桜の葉っぱは美味そうな匂いだと思うけど」 「あーらまー。じゃ、オリコウちゃんに、お椅子に座って桜食うんだな?結局花も葉も、両方食うんだな?」 「悟浄?その位にしませんか?ここに、桜の塩漬けの入ったあんパンが、大好きそうな方がいらっしゃいますよ?」 騒々しくなって来た後部座席に、運転席から笑い交じりの声が掛けられた。 「見て楽しく、食べて尚楽しい。いいことじゃないですか」 憮然と前方を眺めていた助手席の人物が、不機嫌そうに呟く。 「俺に言うな。後ろのヤツ等に言え」 街を繋ぐ街道の、そこかしこにも桜が咲く。
風が吹く度、舞い吹雪く。 ジープで疾走するその後ろにも、巻き上げられた桜が、くるくる、ひらひらと舞い上がっては、黒い轍を隠して行く。 「たまにさ、一緒に見に行ったよな、桜。説法サボって、後からお付きの人達が血相変えて探しに来たけどさ。山に向かう途中で食い物買って、飲み物なんか、その辺の湧き水汲んで」 悟浄が、興味深げに悟空の表情を覗き込んだ。 柔らかな、笑顔。 「こっそり抜け出して、ただ、ぼーっと桜見てるだけ。その辺に転がって、青空に桜の花びらがひらひら落ちるの見たり、風が強くなったらなったで、沢山舞い飛ぶのを見たり」 三蔵が袂からマルボロを取り出し、箱から飛び出した煙草をくわえた。 「そうやって、煙草を一日中ふかしてたり、したよな?」 掌で囲ったライターから、漸く煙草に火が移る。 「…悟空。いい加減に覚えろ。そういうのを『桜吹雪』と言うんだ」 「前にも聞いたんだっけ。三蔵の髪の毛に桜が沢山くっ付くのも、きれいだった」 「阿呆。髪についたら、もうただのゴミだ」 悟浄と八戒は、つい吹き出した。 「ねェ、三蔵。俺も、好きだよ、桜」 ジープの扉の枠に頬杖を突き、悟空が囁くように言った。 三蔵は何も答えず、悟空もそれを求めない。 悟浄は新しい煙草に火を着け、紫煙が細くたなびくのを眺めた。 ミラー越しの、同行者達の三人三様の表情と、飛びすさって行く桜色の光景に、八戒の唇がほころんだ。 季節は規則正しく巡り、人はその中で不規則な記憶を積み重ねて行く。 長閑な日、そんな積み重ねのひとつひとつが、ふと蘇ることもあるだろう。 柔らかな記憶が、蘇るといい。 桜をただただ眺めながら、柔らかな記憶に、身を委ねるといい。 「もうすぐ街ですよ。今日は桜の見える宿をとりませんか」
『俺も好きだよ、桜』
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