花曇りの午後 

 暖かな日が続いていた。
 その少し前から、風には爽やかな成分が、多分に混じり込むようになっていた。
 待ち兼ねたように零れ咲く桜は、通り過ぎる街を、あっと言う間に染めて行った。
 散って消えて行くのもあっと言う間だというのに、それでも人々が、春の盛りの喜びに浮き立って行くのが、目に見えて判った。
 何が嬉しいのか、
 微風に揺れる花枝の、淡い色合いを眺めるだけで。
 髪に絡む花びらを摘んでは、掌に載せて息吹で飛ばす、
 それだけのことで、何故あんなにも幸福になれたのか。
「俺も好きだよ、桜」
「へえ?食えないモンに、珍しいな、サルが。あ、食うのか。『美味そうな匂いするー』とか言って、木に登って、花をむしゃむしゃ食っちまうのか」
「バカッパ!木登りして食わねえよ!……塩漬けの桜は食うけど。桜の葉っぱは美味そうな匂いだと思うけど」
「あーらまー。じゃ、オリコウちゃんに、お椅子に座って桜食うんだな?結局花も葉も、両方食うんだな?」
「悟浄?その位にしませんか?ここに、桜の塩漬けの入ったあんパンが、大好きそうな方がいらっしゃいますよ?」
 騒々しくなって来た後部座席に、運転席から笑い交じりの声が掛けられた。
「見て楽しく、食べて尚楽しい。いいことじゃないですか」
 憮然と前方を眺めていた助手席の人物が、不機嫌そうに呟く。
「俺に言うな。後ろのヤツ等に言え」
 街を繋ぐ街道の、そこかしこにも桜が咲く。
 風が吹く度、舞い吹雪く。
 ジープで疾走するその後ろにも、巻き上げられた桜が、くるくる、ひらひらと舞い上がっては、黒い轍を隠して行く。

「たまにさ、一緒に見に行ったよな、桜。説法サボって、後からお付きの人達が血相変えて探しに来たけどさ。山に向かう途中で食い物買って、飲み物なんか、その辺の湧き水汲んで」
 悟浄が、興味深げに悟空の表情を覗き込んだ。
 柔らかな、笑顔。
「こっそり抜け出して、ただ、ぼーっと桜見てるだけ。その辺に転がって、青空に桜の花びらがひらひら落ちるの見たり、風が強くなったらなったで、沢山舞い飛ぶのを見たり」
 三蔵が袂からマルボロを取り出し、箱から飛び出した煙草をくわえた。
「そうやって、煙草を一日中ふかしてたり、したよな?」
 掌で囲ったライターから、漸く煙草に火が移る。
「…悟空。いい加減に覚えろ。そういうのを『桜吹雪』と言うんだ」
「前にも聞いたんだっけ。三蔵の髪の毛に桜が沢山くっ付くのも、きれいだった」
「阿呆。髪についたら、もうただのゴミだ」
 悟浄と八戒は、つい吹き出した。

「ねェ、三蔵。俺も、好きだよ、桜」
 ジープの扉の枠に頬杖を突き、悟空が囁くように言った。
 三蔵は何も答えず、悟空もそれを求めない。
 悟浄は新しい煙草に火を着け、紫煙が細くたなびくのを眺めた。
 ミラー越しの、同行者達の三人三様の表情と、飛びすさって行く桜色の光景に、八戒の唇がほころんだ。

 季節は規則正しく巡り、人はその中で不規則な記憶を積み重ねて行く。
 長閑な日、そんな積み重ねのひとつひとつが、ふと蘇ることもあるだろう。

 柔らかな記憶が、蘇るといい。

 桜をただただ眺めながら、柔らかな記憶に、身を委ねるといい。

「もうすぐ街ですよ。今日は桜の見える宿をとりませんか」
「花見酒とでも、シャレこむか?」
「メシもね!美味いもん食って、桜見ようぜ」
 三蔵は、呆れた声を隠そうともしなかった。
「呑気なコト言ってんじゃねえよ。てめェらには緊張感ってもんがねえのか」
 後部座席から身を割り込ませた悟浄が、人差し指を立てて左右に振った。
「チッチッチ。余裕と言ってよ、三チャン。…で?ダメ?三蔵は一緒に桜見ねえの?」
 悟空が、反射の様にミラーに目を遣るのが、八戒から見えた。
「 ―――― 何処だろうが、飯を食うのには変わらんからな」
 否とも応ともはっきりしない返事に、悟浄は鼻白み、八戒は苦笑した。
 それでも悟空は、三蔵が共に桜を見ることを、疑いもせずに喜んだ。

『俺も好きだよ、桜』




桜の花枝が絡むように伸び、重なりあってました。






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