僕の全てを見遥かす
何もかもが、僕にとっては罪悪だった。
僕から花喃を奪った者は、全て等しく罪人だった。
泣き叫ぶ子供に切りつけ、子を庇う母を縊った。
庇い合う恋人達を切り裂き、その喉笛が互いの名を呼ぶことも出来ずに鳴るのを聞いた。
眉ひとつ動かさずに、僕はそれをした。
全てを滅ぼせば、花喃は元通り僕のものに戻るのだと思った。
花喃と僕を弾き出した村を、壊した。
女狩りの一族を、消し去った。
花喃を襲った、ありとあらゆる出来事を、僕は全て抹消しようとした。
―――― 百眼魔王を、そして僕は、覚えていない。
恐らく、原型を留めない肉片にでもしてしまったのだろう。
花喃を汚した目を、唇を、耳を、腕を、掌を、指を、汚らわしい器官を。
百眼魔王を覚えていなくても、自分が為すべきと思うであろう事は、共感を持って想像出来る。
消去だ。
花喃さえいれば、僕たちは元通りの生活に戻れたのだ。
全てをなかったことにして、僕たちは幸福な生活に戻れたのだ。
「てめェの手を怖がってるのは、てめェの方だろ」
嘲るような声に、夢から引き戻された。
「狂ってもいないのに、これから狂う自分を恐れて、一人で袋小路に詰まってやがる。迷いがあるなら、てめェひとりで惑ってろ。俺は機嫌が悪い。てめェの鬱に、オレを巻き込むな」
全てを消し去ろうとしたのに、それでも死んで行った彼女の微笑みが蘇る。
『手遅れなの。
このお腹の中にはね、あの化け物の子が ―――― 』
抹消しようもない、小さな生命が。
僕には手を下すことは出来ず。
それを理解している花喃は、自ら刃を振り下ろした。
『悟能。
もう遅いわ』
『悟能』
『悟能』……
「『悟能』、だったな」
思索が直接鼓膜を震わせたのかと思った。
「『悟能』ならば、オレを縊り殺したかもしれん。だがお前は『八戒』だ。猪八戒だ」
「……どう呼び替えた所で、僕の過去は変わりません。僕は死ぬまで『人殺しの猪悟能』と同一人物です」
清一色に言われたことは、真実だったから。
窓辺に立つ三蔵が、僕の視界に映る。
妙に薄っぺらく、存在感が薄い。
いや。
僕自身が、この世に存在しているという意識が希薄だ。
人形のような。
自分自身を遠くから見ているような、この現実感の無さ。
役者がシナリオを読み上げるように、自分の声が聞こえてくる。
苦しそうな声を、苦しみに満ちた声を、僕は出している。
それを突き放して見る、自分の心を感じている。
「だって僕は、人殺しなんですよ」
呻く自白が、なんて偽善的なんだろう。
なんて汚らわしい自分。
「じゃあ、殺せよ」
三蔵が嗤った。
「 ―――― 何故、オレが死にたがってないと思ってるんだ?」
「殺してみせろよ。オレは生きてる限りは動き続ける。血みどろで這ってでも、西に向かい続ける。生きてる限りはな」
滑らかで暖かな首に、僕の指が巻き付いた。
「生きることは、苦痛だ。この世は苦痛に満ちている。生き物の理は全て、五感に訴える労苦だ。オレは苦痛に耐えて生きるだけだ」
首に巻いて揃えた指が、鼓動と血脈を感じ取る。
「別に、長生きしたくて生きてる訳じゃねえ」
覗き込む、濡れた瞳。
指先に力を込めて動脈を押さえると、血管が膨らみ主張を始める。
三蔵が、微かに眉を顰めた。
「妖怪なら撃ち殺すんだがな。貴様なんぞは、手を上げる価値もねえんだよ」
どくん。
「てめェのオンナは、疾うに土に還ったんだ。それも理解してねえんだからな」
どくん。
どくん。
「色に狂ったままで、てめェに新しい名の付いた意味も、判ってねえだろ」
額に血管が浮き出しているのは三蔵だというのに、僕の鼓動、脈動の方が、強く感じられる。
「……そのくせ、オマエにはもう、出来ないんだよ。無意味な殺戮は。意味のあると教えられた殺戮に満ちた生活の中、オマエが今一番恐れているのは喪失なんだからな」
三蔵の頸に手を掛けたまま、僕は彼をベッドに引き倒した。
無理矢理に唇を合わると、乱れた髪で、苦しげに眉間にしわを刻み込んだ。
唇が離れた瞬間、吐息の触れ合う距離で、三蔵は明瞭な声で言った。
「互いの為だけに存在していた相手を永久に喪って、オマエは初めて孤独を知った」
「世界中でたったひとり」
「誰もがそうなんだ。オマエは漸く、本当にこの世に生を受けたんだ」
「僕には、あなたを喪うことは出来ない」
「当たり前だ。下僕の分際で、そんなことは考えるだけでも不遜なんだよ」
不機嫌そうに僕の躯を押し、三蔵はベッドに起き上がると袂から煙草を取り出した。
「…が。安心したがな。オレも長生きはしたくはないが、早死にする予定も暫くはない」
不貞不貞しそうに、僕を見る。
「手を上げる価値もねえが、元々坊主が得意とするのは、舌先三寸、丸め込みなんでな」
「……さんぞ?」
「てめェが物騒なことをしねえと判って、摂理を尽くした甲斐があったと言うものだ」
高く紫煙を吹き上げながら、三蔵が横目で僕を見た。
「……雨。まだ降ってやがるな」
「ああ。そうですね。でも、朝には上がるんじゃないですか?」
「何故判る」
「当てずっぽうです」
三蔵は、とても嫌そうに片目を眇めた。
僕は、急に笑いがこみ上げ出した。
「ええ、でも。随分降ってますし、そろそろ雨の方でも打ち止めでしょう。何だか本当に、そんな気がするんですってば!」
ひとしきり笑い、僕は、自分の名を呼ばれるのを待つ。