いつか見た夢が蘇ったかのような、瞬間の不安。
触レラレヌ
届カヌ
抱ケヌ
瞬間の混乱。
救エヌ
間ニ合ワヌ
マタ此度モ
「連れてってやるよ」
指先が触れた瞬間に、両腕を繋ぐ枷が弾け飛んだ。重たい鎖が、バラバラと地に落ちた。
「わ。どうして…?」
「錆びてんだよ」
悟空の目の前の人物は、胡散臭そうに岩牢に貼られた封印の札を眺めた。
「……抹香臭え」
視線をやる端から、力を失った札が剥がれ落ちて行った。
「……糊が古くなってんじゃねーのか。…おい」
言い終わらぬうちから、頑丈な岩が風化して砂と化して行く。
「おい!ぼさっとしてると、崩れて死ぬぞ。来る気があるなら早く来い」
言うなり、彼は踵を返してすたすたと歩き出すので、慌てて後を追おうとした。
岩の格子は触れるだけで塵になり、咳き込みながら走る悟空の背後で、風に飛び散った。
『連レテッテヤルヨ』
久々に浴びた日差しに戸惑いながら、後ろ姿に走って追い付いた。
無造作に垂れ下がる掌が嬉しくて、強く指を絡めた。
悟空は戦闘が好きだった。
躯の隅々にまで駆け巡る緊張感。
全身に行き渡る神経が、軽い興奮状態にある心地よさ。
自分の躯が、無駄なく機能しているという快感。
敵を翻弄させる自分の身軽さ。
楽しい。
「伸びろ、如意棒!」
愚鈍な妖怪の鳩尾目掛けて、得物を突き出す。
派手に血をまき散らす訳ではない。悟空の如意棒による攻撃は、躯の内側を駄目にする。
骨を、内臓を、叩き潰す。
悟空の渾身の力で振り下ろす如意棒が、妖怪の肉体に食い込み、力任せに吹き飛ばす。
それを、立ち塞がる敵に向かって繰り返して行くのは、純粋に楽しいのだ。
自分の戦闘能力が、遺憾なく発揮される喜び。
―――― 三蔵の役に立つ。
喜びは、いつまでも続くモノだと。
いつの間にか、自分でそう思い込もうとしているとも、気付かぬ。
若い獣が牙を剥きながら遊ぶような、刻(とき)。
「悟空!」
銃声と同時に、悟空の掴まる木目掛けて青龍刀を振りかざした妖怪が、倒れた。
「この馬鹿猿!ナニ遊んでやがる!?」
三蔵が叫び、悟空に向かって腕を伸ばした。
暗い森の中。
光すら射さぬのに、三蔵の髪と法衣は、いやに明るく悟空の目に映った。
三蔵は片手で手近な木の枝に掴まり、崖下の悟空の方へ反対の手を差し出した。
唇が、動いている。
「悟空!」
『連れてってやるよ』
悟空には、三蔵の法衣がハレイションを起こしたかのように、眩く見えた。
何も考えられずに、自分の手が三蔵に向かって伸びるのを、悟空は見た。
先程悟空が叩き伏せた妖怪が、笑いで醜悪に顔を歪ませながら、姿を現した。
指先が触れる間際に、自分の喉が叫び声を迸らせるのを、悟空は感じた。
ふらつきながら妖怪が、三蔵を崖下に突き落とそうとするのが判った。
三蔵はその気配に眉をぴくりと動かしただけで、気にした様子もなく悟空に手を伸ばし続ける。
悟空の喉から洩れる叫びが、咆吼に変わった。
「三蔵ぉぉ!」
崖を滑落して行くと、ねじくれて這う木の根や蔦が、悟空の躯を打った。
時折密生している竹が、へし折れ際に悟空の臑を割いた。
羊歯は頬を叩き、笹や、他の鋭利な縁を持つ葉が、剥き出しの腕を切り付けた。
「この馬鹿!俺まで巻き添え喰らわすな!」
怒鳴りながら、自力で受け身を取ろうと藻掻く躯を、腕の中に抱きしめた。
強く、抱きしめた。
「悟空?」
八戒が、大の字にに転ぶ悟空の顔を覗き込んだ。
悟空は、寝転びながら天を見上げていた。
「悟空、立てます?」
大きな瞳を開けたまま、悟空は八戒を見ずに肯いた。
「…先、行ってますよ」
悟空はもう一度、肯いた。
立ち去ろうとする八戒の名を、悟空が呼んだ。
「なあ。さっきの……」
「はい?」
にこやかに振り返る顔に、漸く悟空は目を向けた。
「さっきの妖怪は。三蔵は、」
自分に向かって手を差し伸べ続けた三蔵と、三蔵を傷付けさせなかった錫杖と気孔弾の輝きが、脳裏に蘇った。
悟空は口を閉ざした。
『連れてってやるよ』
違う。
次は、俺が。
俺が、三蔵に向かって。
今よりも、もっともっと。
もっともっと。
いつか。
「……悟空?」
「すぐに、行くから」
また天を向く悟空に、八戒はひとつ溜息をつき、ジープへと歩み去った。
「待てよ!今行くから!」
何時にも増して不機嫌そうな三蔵へ向かって、駆け出した。