月に一度義務づけられている面談に、僕は紅い椿を持って行った。
「ご近所の方が、枝を切ってくれたんです。艶やかな葉に、きりっとした紅。きれいでしょう?」
悟空の持って来てくれた花瓶に活けた椿は、雪景色の窓辺に映えた。
「きっと三蔵も喜ぶよ」
「そうだといいんですけどね。……気付いてくれるかどうか、って辺りかもしれません」
それにしても三蔵は遅いなあ、と、悟空は開かれぬ扉の向こうを窺った。
「三蔵は忙しいですから。それでも毎月僕の面談には直接顔を出してくれるんですから、ありがたいことだと思ってますよ」
悟空は頬をぷうっと膨らませた。
「ヘンな言い方!三蔵も八戒に会えるの、楽しみにしてるに決まってるじゃん。八戒も面談の時だけじゃなく、もっと遊びに来てよ!俺もっと八戒と会いたいよ!」
「あはは。嬉しいですね。ありがとうございます、悟空。三蔵が楽しみにしてくれてるかどうかは判りませんが……、悟空には今度、美味しいものをお土産に持って来ますよ」
「やったあ。俺、楽しみにしてるからね」
「はい」
静かに扉が開き、不機嫌そうな三蔵が顔を出した。
「悟空、騒々しい。場を弁えられんのなら、出てろ」
あかんべえをしながら悟空が部屋を出て行き、三蔵は僕に、体調や近況を報告させた。最近庭いじりが楽しいと言うと、三蔵は「フン」とひとつ、鼻を鳴らした。
「園芸とは随分と枯れた趣味だが、くだらんことを考える暇がなくなったのは、めでたいことだな。顔色いいじゃねえか」
短い面談時間を終え、僕は長安の街を歩いた。
流石大都市は園芸用品の品揃えがよく、門の横に置く為に、可愛らしいくまの形のトピアリーをふたつと、素焼きの苺のポッドを買うことにした。
溢れるように実る苺を、悟空は喜んでくれるだろう。
「……ドラえもん?」
帰宅した僕に、開口一番、悟浄が言った。苺のポッドは、丸い壷の周囲にぐるりと膨らんだポケット状の口が開いている。確かに猫型ロボットのお腹によく似ている。
「悟浄。こんなにポケットだらけのドラえもんなんて、気持ち悪いじゃないですか。苺、あげませんよ? ……あっ!」
「な、何!?」
窓の外を見て叫ぶ僕に、悟浄がびくびくと躯を怯えさせた。
悟浄は以前、酔っぱらって帰宅した時にサフランの新芽を踏み付け、僕が執念深くそれを怒っているのを知っているので、最近低姿勢だ。
「ヘレボラスがっ!!」
「ヘレボラスがどうかした!?」
僕のお気に入りの、可憐なヘレボラスが。
「……開花してますっ」
脱力してソファに沈み込んだ悟浄を後目に、僕は庭に出た。ヘレボラスは、透き通るようなグリーンの萼を、雪の下で精一杯に開いていた。
「なんて意地らしい風情」
悟浄が傘を差し掛けてくれるまで、僕は小雪にまみれながら、ヘレボラスを眺め続けた。
チューリップの芽が伸び出している。今芽が折れると、中に隠れる花芽まで折れて開花しなくなるとのことなので、大雪が降りはしないかと、時折心配になる。
というか、悟浄が踏んだら、僕絶叫します。
レンガで囲った花壇に、雑草の小さな芽が見える。淡くてきれいなグリーンだけど、心を鬼にして摘んで抜く。糸のような根を見て、除草作業は早目にやるのが一番だと、改めて思う。
僕の最愛の紫のばら、『三蔵』の芽がはっきりと判るようになった。小さな、まるで米粒のような、でも活き活きとした、芽吹き。
「『ここから伸び出すので、株の外側を向いた良い芽の上で、斜めに剪定する。』……良い芽と悪い芽の区別が付きませんが……」
剪定作業でしゃがみ込む僕を、悟浄が後ろから覗き込んだ。
「何? やっぱり枯れちゃったの? 抜くの?」
「枯れてませんよっ!! 縁起の悪いこと言う口は、縫っちゃいますよっ!?」
あ。思わず目を三角にして怒ってしまった。でも今のは悟浄が悪いんですよ。
「ほら、ここに芽があるでしょう?それを伸ばしてやるのに、上の余分な枝は切り落としてあげるんです。でも今ひとつ、踏ん切りがつかなくって」
「踏ん切り、本当についてなさそうね」
僕の手許にちらりと目線をくれた悟浄が、そう言った。『春の剪定の仕方』を開いたばらの栽培書を、僕は5冊も膝に抱えたままだった。
しょうがないじゃないですか。だって『三蔵』にハサミを入れるんですよ?取り返しの付かないことになったら、大変じゃないですか。
「所で八戒さん。小腹が減ったんだけど、なんか食うモンある?」
「食パン」
「……トーストして食います」
ちょっと可哀想な後ろ姿だった。剪定と消毒が済んだら、何かまともなものを作って上げましょうね。あと小一時間はかかっちゃうと思いますけど。
ほっそり端正な形の双葉が生えてくるが、雑草と判っているので少々困惑。
抜いても抜いてもどこかからまとめて生えて来る。以前ここにあった雑草のこぼれ種かと思っていたが、正体は不明。
家の北側の湿った土からも、小さな芽が沢山。こちらは種からではなく、どこかから伸びて来た地下茎からの芽と言った感じ?どことなく水芭蕉を思わせる、くるりと丸まった芽が可愛らしく、それは暫く様子を見てみる事に。
『三蔵』の芽も伸びて、小さな葉が出て来た。若葉がとてつもない芳香を持っている。流石『三蔵』。まさしく『三蔵』。
近所でも様々な木々が芽吹き、若草がけぶるよう。春が近いんですね。
「八戒? ……今度はどーしたん?」
呼ばれて悟浄に振り向いた僕は、ヘラっとした笑顔をしていたのだと思う。
「……雑草。」
「あ?」
「前々からおかしいとは思ってたんですけど。判ったんですよ。近所に雑草だらけの空き地があったんですよ。そこから種が、いっくらでも飛んで来るんですよ。抜いても抜いても、生えてくる筈なんですよ。元から絶たなきゃダメに決まってるんですよ……!」
怒りと悲しみがこみ上げ、何故か口元が笑みの形につり上がる。
「………アメリカセンダングサ」
「は?」
「俗に言う、ひっつき虫です。あの、菊科の、細長い種にカギがふたつついてる、歩くと洋服にくっついて取れない、アレだったんです。寄りにも依ってです。この庭に、あの、ぶわーっと伸びて、ごわーーっと増えて、しかもちっくちくで、一々取るのにエライ目に遭うアレが生えてくるなんて、とんでもないです」
「あーあ……」
「イヤです。イヤです。イヤなんです!!」
僕は泣きながら、雑草を抜きに庭に戻った。
ドワーフチューリップの蕾に励まされながら、広がるひっつき虫を抜いて行った。
『三蔵』がすんなりとした芽を伸ばす。いや、もう『芽』ではない。透明な瑞々しさの若枝がしなやかに伸び出し、萌葱の小さな葉はブルーグリーンへと色合いを変えて行く。
そして蕾が。
「蕾ですよ、蕾! 僕の『三蔵』に蕾が付いたんですよ!!」
朝帰りの悟浄を掴まえて、喜びを分かち合う。
「ねえ、もう枯れ枝なんて、悟浄も思わないでしょう?」
「ああ。もう言わねーよ」
悟浄が庭をぐるりと眺めた。
早咲きのチューリップ、元気なパンジー、可愛らしいビオラ、明るい色合いのプリムラ、清楚なアリッサム、ノースポールにムスカリ、クリサンセマム、マーガレット……
「ふうん。なんかすげーじゃん。これが俺んちかって気もするケドな」
「どうです?庭にテーブル出して、軽い朝食でも?」
「俺これから寝るところよ? ま、偶にはいっか」
「ワイン付けますから。偶にはね」
「朝っぱらから優雅だねえ」
笑いながら悟浄は、テーブルを出す手伝いをしてくれた。
怠惰で優雅な朝食メニュー:
松の実のペーストとバジルのオリーブオイル和えパスタ
スウィート・マジョラムとクリームチーズのオムレツ
緑や紫色の、ベビーレタスのサラダ
白ワイン
『町内会便り
○町内グリーンボランティア発足○
あなたも町内を美しく保つボランティアに参加しませんか?
街路樹や花の植樹や除虫、除草剤の散布等。
花の溢れるハンギングバスケット作りの講習会も予定しています。
《連絡先 tel.××-×××× 猪 八戒》』
『三蔵』の蕾が大きくなり、飾りの付いた萼が益々美しい。
庭の囲いに沿って置いたプランターのチューリップが、通りすがりの幼稚園児に好評。
謎の若芽は、キュートなハート型に成長。ドクダミと判明。……まあ、花は白くて可愛らしいし。お茶にも出来るし。万能の薬草だし。少し複雑。
町内会の集まりで、僕が『チューリップの君』と呼ばれていることを知る。
……悟浄は一体、何と呼ばれているんでしょう。親指姫とか。嘘ですけど。
コンテナの苺、開花。ひとつひとつ花を筆で撫でて、受粉作業。
「三蔵ー。八戒まだ来ないのー?」
「奴は今日は来ない」
「ええーーーっ!?」
残念そうな声に、騒々しいとハリセンを叩き付けようとした三蔵の手が止まった。
「風邪で体調不良だそうだ。……お前、この間八戒の所に行って来たばかりだったな?」
「うん。苺食べた。その時は元気そうだったよ。悟浄もバカみたいに元気だった」
「それならお前が代理で面談したということで、今回は一回飛ばしだ」
「……そんなんでいいのかよ?」
「元気だったんだろうが?」
「うん。」
「ならよし」
書類に何やら書き付ける三蔵を残し、悟空は執務室を出ようとして振り返った。
「なあ、三蔵」
「ん」
「摘んだばっかりの苺って、すっげえ美味いんだぜ」
「そうか」
「そうだよ」
顔を上げようともしない三蔵を後に、悟空は扉を閉ざした。
「ご・じょ・う。ちょっと目を瞑って下さい」
何故か僕の笑顔を見てびくつきながら、悟浄は言う通りに目を瞑った。
「ほら、いい匂いでしょう?」
「あ。ホント。何?」
目を開けた悟浄の前に、僕は手を突き出した。
「何も持ってねえな…? ん? この緑色は何なワケ?」
緑色に染まった僕の指先を見て、悟浄は不審気な表情を浮かべた。
「『グリーン・サム』って知ってます? 緑の親指……外国の言葉で、園芸上手なこと人のことを言うんです。最近『グリーンフィンガーズ』って、映画でもやってたんですけど……まあ、悟浄の好みの映画じゃないかもですけど。刑務所の受刑者がね、園芸を始めるんです。所がそのうちのひとりが天才的な庭仕事の才能の持ち主だったっていう……」
「オイ、八戒! その緑色はナニ? 俺の嗅いだのはその緑色なんだな!? 何なんだよ!?」
「……『三蔵』です」
僕はまた、ヘラっとした笑顔を、悟浄に向けたみたいだった。
「今度は一体ナニよ?」
「『三蔵』は、葉っぱからも芳香がするって、前に言いましたよね」
「聞いたし嗅いだ。本当にいい匂いしてた」
悟浄は、とても嫌そうな顔をした。
「あんまりいい香りなもので、虫が寄ってくるみたいなんですよ。他の花よりも沢山」
悟浄の眉間にしわが寄った。
「アブラムシ……ゴキブリじゃない方の。アレがね、僕の『三蔵』に付くんです。僕の『三蔵』に虫が付くんですよ? 耐えられるワケが無いじゃないですか、僕はァ許しませんよ」
悟浄が僕の指先を凝視した。
「アブラムシが、展開したばかりの柔らかな葉や、まだ初々しい蕾や、ほっそりしたすわえに、たかるんです。たかってるんです! アブラムシ風情が僕の『三蔵』を襲って、樹液を、汁を、ちゅーちゅー吸ってるんですよ!!」
僕の声は、悲鳴に近かったに違いない。
「最初は筆で払って、踏んでにじってたんですけどね! そうすると、払った勢いでどっかに飛んでっちゃうアブラムシが出て来るんです! そいつがまたぼくの『三蔵』にたかると思うと、もお、いてもたってもいられなくって……!!」
「それでお前、どうしてるんだよ?」
悟浄の声が、僅かに上擦っている。
「ぷちっ。」
「………。」
「だから、ぷちっとね。」
親指と人差し指で何かを挟む真似をすると、悟浄の顔が、ムンクの叫びちゃんになった。
「見つけたら即ぷちっ! 蕾にたかってちゅーちゅーしてる奴をぷちっ! 葉裏に隠れてちゅーちゅーしてる奴をぷちっ! 固まってたらぷちぷちぷちっ! 葉っぱ全部ひっくり返して探して、発見次第全部ぷちぷちぷちいっ!!」
僕の中で、何かが音を立てて途切れた。
僕は緑色の親指と人差し指を、悟浄に押し付けようとした。
悟浄は、生意気なことに飛びすさって逃れた。
「八戒、えんがちょっ!」
「う、うわあああああああっ」
僕たちは、広くもない庭を数周、走った。
壁際に悟浄を追い詰め、緑の指先を掲げた。
「八戒、落ち着け! お前殺虫剤持ってたじゃねえかよ、沢山!? あれを使えよ、あれを!」
「あれは、駄目です。僕の『三蔵』にケミカル農薬を使う訳には行きません。」
「なんでだよっ!? 何のための農薬だよっ! 殺虫剤だよっ」
「悟浄、あなただって、レタスや苺に殺虫剤かけようとは思わないでしょう!? 口に入れる物に毒物使おうとは思わないでしょう!? 僕がおはようのキスをしてあげられなくなったら、『三蔵』が淋しがるじゃないですかあっ!?」
「絶対ェ思わねえよっ!!」
叫んだ後の静寂に、暫く荒い息だけが続いた。
「……庭仕事に戻ります。虫取りに戻ります」
「おい、八戒……」
「いいんです。判り切ってることなんですから。誰でもいい、適切な時期に適切な量の水や肥料をあげれば、それで『三蔵』はきれいに咲くんです。僕と『三蔵』の間にあるのはそれだけなんだって、本当は判ってるんです。でもばらは、薬害が出易くて……」
「八戒!」
悟浄が前に回り込み、僕の肩を掴んだ。
自分が酷い顔をしているのが判っているので、僕は悟浄に顔を見られたくなかった。
「待てって。落ち着け? いつかのひっつき虫と同じだろ? アブラムシだって、どっかから飛んで来てるんじゃねえの? 元から絶たなきゃって、お前、前言ってたじゃん」
「……。」
「『元』絶つんだったら、殺虫剤使ったっていいんだろ?」
肩を掴まれたままで、僕は掌をポンと叩いた。
「アブラムシショックで狼狽えて、それ、思い付きませんでした」
希望が見えて来た。
早速『元』探しに出掛けようとする僕に、悟浄が声をかけようとした。
『言い過ぎた』とか、謝られそうな気がして、慌てて指先を悟浄に押し付けた。
「!?」
悟浄は死にそうな顔をして、それでも逃げずに耐えていた。
「嘘です。緑色なのは反対の手です。……ありがとうございます」
微笑むと、悟浄は複雑そうな顔をした。
大の男ふたりが、叫んで走って照れるなんて。
酒場で夜明かしして連日朝帰りの悟浄よりも、僕の方が断然バカなんだろう。
そう思う。
『町内会便り
○町内グリーンボランティア強化月間開始!○
春の訪れと共に、雑草や害虫の発生が盛んになって来ました。
定例の除草、除虫も強化月間です。
皆さん、頑張りましょう。
今月の講習会、春から夏に開花するコンテナ寄せ植え作り。
参加者随時募集中!
《連絡先 tel.××-×××× 猪 八戒》』
農薬に耐性のある害虫についての覚え書き
薬を与えることにより、その昆虫・節足動物が強くなり耐性が出来て行く訳ではない。どのような薬でも100%の殺傷能力があるのではなく、その薬に生き残れる強い個体が繁殖を続け、結果、殺虫剤の効果のない個体が蔓延することになる。複数の殺虫剤の併用や、捕捉などが手段としては有効。
……やっぱりぷちぷち?
除草メモ
・オヒシバ(イネ科)・コニシキソウ(ドウダイグサ科)・スズメノカタビラ(イネ科)
発芽前に土壌処理剤
・オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)・カタバミ(カタバミ科)・スベリヒユ(スベリヒユ科)
広葉選択性除草剤
・オオバコ(オオバコ科)・タンポポ(タンポポ科)
移行性茎葉処理除草剤
※タンポポ、カタバミは横に根が張って残るので、見つけたら厳重に引き抜くこと
カラスノエンドウは、バカみたいにアブラムシがたかるので、絶対
『三蔵』の蕾が益々大きく膨らんできた。
萼から垣間見える花びらは、まだ純白の輝き。
ブルーグリーンの葉は益々芳しく美しく……
「? この点は?」
『三蔵』の葉に、小さな穴が開いているような気がした。
「まさかっ!?」
丁重に葉を裏返すがナニも見えず……いや。
「『三蔵』? また悪い虫が着いちゃったんですか? あなたも本当にそんなものばかり惹き付けて……しょうのないヒトですねv」
針の先で突いたような穴の縁に、薄い緑色の虫が張り付いていた。
0.3ミリ×2ミリ。
「アブラムシにちゅーちゅーされるだけじゃなくて今度はとうとう食われちゃったんですか。そーですかそーなんですか。全くもうあなたってヒトは……」
僕が微笑んで見ているのにも気付かずに、小さな小さなイモちゃんは、ただ無心に『三蔵』を貪っていた。
僕はほんの一瞬躊躇した。
でも、どうせ僕の両手は汚れているんです。
今更殺戮の汚名のひとつやふたつ増えた所で、何も変わりません。
そう、今日だって僕の親指は既に緑色。
「………えーいっ♪」
ぷちっ。
開き直れば、人間何でも出来るものなんですね。
アブラムシはエメラルドの色。
一体どこから飛んで来る虫が産卵して行くのか、何時の間にやら0.5ミリ×3ミリに成長した謎のイモちゃんはペリドット。
そして僕はグリーン・サム。
「これは、『三蔵』の色なんです。アブラムシの体液の色じゃ、決してありませんから」
自分に言い聞かせるように、今日もぷちぷち。
「それが証拠に、ほら、『三蔵』の香りがする」
「八戒。何ぶつぶつ言ってんだよ。なあ、今日って長安に行く日じゃねえの? この間もさぼったんじゃないのか?」
「悟浄! この僕に、今の『三蔵』を置いて行けとでも言うんですか!?」
震えを抑えながら訴える。
「それともあなたが代わりにぷちぷちを……?」
「やらねえ。どんなにいい匂いしても絶対やらねえ」
「じゃあ! ……じゃあ、黙っていて下さい。見逃して下さい」
語尾が小さくなる。
「お前さ。自分でもう判ってんだろ?」
逃げてるってことをさ。
悟浄は優しい声でそう言った。
「悟浄。僕はあなたが思うよりずっと、臆病で卑怯者なんです」
そうっと、掌で『三蔵』の蕾に触れた。
蕾は濃い紅に色付き、まん丸に膨らんで今にもはち切れそうだった。
「今はせめて、僕を必要としてくれる『三蔵』の傍に、いたいんです。水と肥料と。『三蔵』はそれを与えるのが誰でも構わないでしょう。除虫だって、『三蔵』は手で取ろうが殺虫剤をかけようが、気にしないで咲くでしょう。でも。でも、僕が一番、『三蔵』の為になることをしてあげられる。美しく咲かせてあげられる。僕はそんなものに縋り付いて、今生きてるんです」
それでも少し微笑んで、長安には面談を数日遅らせてくれるように、電話をかけますとだけ言った。悟浄は、口の端を上げて笑って見せた。
雨が降っているので、庭に出ない。
水を遣ることですら、『三蔵』に必要とされていない。
「『三蔵』……?」
声に出して、呼んでみた。
「三蔵。三蔵。三蔵……!」
一度呼んだら、止められなくなった。
何が怖いんだろう。躯が震えるので、僕は自分の肩を抱いた。
『三蔵』こと、カーディナル・ド・リシュリュー。
紫のオールドローズ。
その香りは甘く、重なる花びらは天鵞絨の艶やかさ。
「咲きそう……ですね」
明け方、まん丸に膨らんだ蕾から、一枚の花びらがほころびかけていることに気付き、僕は夢中になった。
はじけて、こぼれるんじゃないかと。
そんな風に『三蔵』は咲こうとしていた。
ほんの僅かな風に、濃密で甘い香りが漂った。
僕は水を遣り、飽かずに『三蔵』を眺めた。
帰宅した悟浄の為に紅茶を淹れ、呆れられる程にはしゃいでしゃべった。
「ああ。夜が明けて来ましたね。僕また見に行ってきます」
紅茶を詰めたポットを抱え、庭へと飛び出す。
朝日を浴びた『三蔵』は、また一枚花びらを広げていた。
『三蔵』
『三蔵』
怖々と唇を近付け、微かに触れて香りを聞いた。
ほころびかけの『三蔵』に、あの人が微笑む幻が見えた。
庭から離れられない。
他の草木に水を遣り、雑草を抜き、咲き終わった花がらを摘んでやる。バジルとローズマリーを刈り込み、料理に使うまではとグラスの水に挿してやる。
ひとつ作業をするごとに、また『三蔵』の元に戻る。
日差しと共に気温が上昇し、見る度花びらはほころんで行く。
「……我慢すること、ないですよね」
僕はとうとう庭に椅子を出し、『三蔵』の前に座り込んだ。
カップから立ち上る紅茶の湯気に鼻を突っ込み、ただ『三蔵』だけを見つめ続けた。
もうすぐ、開き切る。
顔を寄せた、その瞬間。
ぽん。
かさり。
茫然と見つめる僕の前で、『三蔵』が揺れた。
花が開くその時に、音がするだなんて思いもしなかった。
開花の揺れが収まる前に、心地よい風が、また『三蔵』を揺らした。
「三蔵……」
香りに包まれ、僕は眩暈に目を閉じた。
何を畏れていたのだろう。
何を求めていたのだろう。
エゴイスティックな僕の愛に、こんなにも喜びを与えてくれるのに。
ただ「そこにある」だけで、僕はこんなにも幸福なのに。
「顧みられる為だけに、僕は愛してたんじゃ、なかったんだ…」
これまで僕は、数多くのものを受け取って来ていたのに。
涙が頬を、ひと滴、伝った。
「三蔵……」
『三蔵』の深い紫色の花を、両手ですくい取るように囲んだ。
「三蔵、」
唇を寄せ、ただ、愛していると。
茫然と見上げる前に、金糸の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる三蔵がいた。
「さんぞう……」
「お前は来ない。悟空はお前の苺を食いに行けと言う。来てみれば面談にも来られないヤツが、ピンピンで庭に立って、狐の嫁入りみたいな顔してやがる」
ビオラとマーガレットの株を避けながら、三蔵は僕の目の前まで歩いて来た。
―――― 狐の嫁入りって?
「大の男が泣くな、見苦しい」
法衣の袖をぐしゃぐしゃと顔に押し付けられ、自分が微笑みながら涙を流していたことを思い出した。
「あなたのこと、考えてました」
「嘘付け。この花に呼びかけてたじゃねえか」
『三蔵』と呼びかけていたことを知りながら、三蔵はうんと不機嫌そうな顔をした。
「俺の名前の付いたものに、勝手に変なことするな! 顔も見えねえ場所で、気色のワルイことをするな! 名が呼びたければ、幾らでも直接言いに来い。」
名を呼ぼうとして、声が震えた。
「三蔵」
「何だ」
「三蔵」
「だから、何だ!?」
「あなたが、好きです」
『三蔵』の香りに後押しされて、僕は漸く、言葉に出来た。
三蔵はぐっと息を呑み、それから真っ赤な顔で言い切った。
「ならよし!」
くるりと振り向き、帰ろうとするのを慌てて留める。
「待って下さい! えー、朝食は? 三蔵、朝、ご飯召し上がってからここに来ました?」
メシなんざ食えるか、と、怒りながら言うのを宥める。
「サーモンとチャイブとロケットのサンドイッチは如何です? 取れたてのミニトマトのソテー付きで? デザートは自分で摘んだ苺ですよ?」
「食欲につられると、思うなよ」
言いながら、三蔵は僕に促されて家に入ろうとしてくれた。
「……あとな。オレの名前付けるのはヤメろ」
ドアの前で立ち止まって言い出す。
「それは嫌です。改名は自分だけで充分。……あなただって名前変わってるでしょう? 色々不便があるのって、承知の上でそう仰るんですか?」
「抜いてやる! あんな花、抜いてやる!」
「ちょっ……三蔵!? やめてくださいっ!!」
騒動を、通りすがりの人が覗き込んだ。
「会長さん、どうかしたんですか?」
「何でもありません」
引きつりながら笑顔で返すと、振り返りつつ、行き過ぎてくれた。
「八戒……。『会長』ってのは、何だ?」
「ああ、僕。町内会のボランティアの会長やってるんです」
「ほぉ」
三蔵は面白がり、そして真剣な顔になった。
「八戒。お前の面談は、お前の健康と精神の状態、生活態度の観察を目的としていた。コミュニティに溶け込めるか、異端が顔を出さないか……そう嫌な顔をするな。長安のジジィ共にしては、そのくらいのことで納得したのは奇跡みたいなもんだったんだからな」
話されている内容よりも、僕にはそれが、過去形で語られていることが気にかかった。
「集団に於けるお前の協調性というものが、観察の内でも特に重要視されていた。集団の長になるとはな。個々をまとめ上げ、実現可能な企画を立て、責任を持ってそれを実行する。それが出来るとなりゃ、観察期間も面談も、もう終わりだ。しかもボランティア? 何? 町内緑化だと? また牧歌的だな。ジジィ共も、文句はねェだろ」
僕は途方に暮れた気分になった。
そんな気持ちが、顔に出たらしい。
三蔵が笑い出した。
初めて見る、笑顔だった。
幻に見た笑顔より、更にきれいな、小気味よい笑顔だった。
「莫迦。ヘンな顔すんな。まさか顔見せなくなる気か? これからは、面談なんかじゃなく大手を振って顔を出せるんだと言っているんだ! なんなら、斜陽殿の緑化管理でも引き受けてみるか?」
あっと言う間に、いつもの意地悪そうな、片頬だけを引き上げる笑いになる。
戸惑いながらも僕も漸く笑顔を取り戻せた。
「いいですよ? 本当にやります? ……でも、取り敢えず、遅めの朝食を摂りながらの相談にしませんか? ビジネスブランチです」
「よし」
今度こそ、押した背は素直に家に入ってくれた。