「…やっと」
急に発せられた声に、室内の空気が震えた。江流には、その空気の振動が湿度の所為か、幾分響くように感じられた。
「やっと雨が降り止みましたね。大銀杏もこれで全て落葉してしまったでしょう。…お掃除のし甲斐が無くなって、淋しくなるかもしれませんね」
ありふれた、情愛のこめられた、意味のない言葉。それすらも、音が感触として肌に触れるようだった。
「お師匠様、法名のことでおれを呼ばれたのではないのですか?」
緊張に堪えきれず、江流は口に出した。また空気が震え、今度は光明がそれに反応した。
ぴく。
ほんの僅かに顎が持ち上がり、肩から髪が揺れ落ちた。光明の瞳が、江流をまっすぐに捉える。目線が合って始めて、光明の視線が自分の眼ではなく全体を向いていたことに気付いた。
光明は、どのような高位僧へも、みすぼらしい形の農夫へも、近辺に住む子供らへさえも、必ず瞳をまっすぐに据えて対する。余りに和やかで、見つめられても全く違和感を感じず、誰もが気付かぬうちに胸襟を開いてしまう…。それが常の光明の視線だった。
ふ…と、吐息が漏れ、光明は諦めたように微笑んだ。
「ええ。あなたに授けるものについての話ですよ。…江流、今まで私が育て、見守っていた子供を、何者にしてしまうかというお話ですよ」
すきま風が、微かに淋しげな音を引いた。
「江流。天地開元経文の守りの主には、…人間性は全く必要とされません」
江流の足下で、大地が割れたような気が、した。
「どちらも、諸刃の剣と言うにも危険過ぎるシロモノです」
ひと息つける。
「一定の知識があれば、経文を利用し、活用することは容易です。しかし濫用すれば、世の理を乱すのは必至。桃源郷全体に乱れが及べば、守り人は経文の破滅の力を行使して自分もろともこの世を消滅させねばならなくなります」
江流は自分のこめかみにひと筋、汗が流れたことに気付いた。冷たい汗だった。
「故に、三蔵に選ばれる決定的な条件は、欲心に欠けること。どのような人格の持ち主であろうとも、利己・利他問わず制覇欲や物欲や破壊欲などに、経文を利用しようとも思わない思考の持ち主であればよいのです。その点では、凡庸な人格であればあるほど望ましい」
江流の視界が、歪んだ様な気がした。
「経文の守り人であるという影響力を行使することは禁じられていません。三蔵の名の影響力を駆使して栄達を求めても、人間業の範囲内であれば、せいぜい長安というサル山のボスになる程度のことしか出来ませんから。他には、この経文を守り切るだけの時間、病に倒れぬ強い肉体も求められますね」
「おししょうさま…」
「長生きであれば、ころころ代替わりして、他の三蔵が神経を使う羽目にならずに済むからもっといいんでしょうね…。いざとなれば、暴走した三蔵を他の三蔵が粛正せねばならない、という可能性もあるのですから」
「お師匠様…っ」
「ええ。そうです。私はあなたに、強大な力を持った墓守人になれと言っているのですよ、江流」
「 江流。それ以外には三蔵に選ばれる基準など元々何もないのですよ。本来は使ってはならぬ破壊と混乱の力を、制御するだけの体力と、力に酔って経文に使われないだけの分別。単なる器であること以外には、私には何も求められませんでしたよ、長安でも、この金山寺でも」
「いいえ!」
江流の叫びは、悲鳴に近かった。
光明の語る全てが真実であるならば、人間性を求められぬ三蔵という任は、光明という人には悲し過ぎると思った。同時に、穏やかに語り続ける光明がその事実を受け入れていることが、無性に悲しかった。
「お師匠様は経文を守るだけの単なる器なんかじゃありません。人々の心の拠り所です。衆生の助けを求める小さな声を、ひとつ残さず聞き取って……おれの、おれの声を聞き取って、探し出してくれた…おれにはお師匠様は誰よりも必要な人です…!」
「…ありがとう、江流」
光明の柔らかな微笑みに、江流は胸が酷く痛む気がした。
「長安に在任していたころは、それなりに地位獲得ゲームみたいなこともしましたよ。ただ、私には決定的に欲が少ないんです。権勢欲に取り憑かれるということもありませんでした。…だから、ある日ふっと、長安から出たくなったんです」
のんびりとした口調で過ぎた日々を語る光明の顔を、江流はただ見つめていた。
「地位と共に増える義務の間を縫って、私ばかりがしゃかりきになっても、飢えた人々はなくならない。財の分配に必死になっても、いつの間にか、富める者ばかりが肥え、貧しい者は貧しいまま…。助けを求める声は、何処へ行っても私を追いかけて来ました。昇進ゲームを面白がる以上に、高みに昇れば昇るほど、数多くの声が、澱むほどに集まり続けました。いつか逃げ出したいほどに」
光明は肩から胸に掛かる経文に、そっと掌を滑らせる。。
「重たかったんですよ、この薄っぺらい経文が。聖なる力で病を癒し、乾いた地に泉を生み出し、枯れかけた草木に生命を息吹かせる…。幾ら繰り返しても、それは新たなる欲を生み出すだけでした。だから私は長安から出たんです。逃げ出したんですよ。そして小さな世界で、経文の力を求める声を取捨選択して効率的に活かす道を選んだ。…切り捨て続ける道を…」
聖天経文を眺めながら、光明は静かに続けた。
「…聞こえるんですよ、声が。苦しげな声も、悲しみを堪えた声も。喜びの声も。産まれる者、死に行く者。眠りに就く草、芽生える木々、巡る水。生命に萌える動物も、ヒトも、等しく声が聞こえて来るんですよ。……聞こえたんですよ、私のことを呼ぶ、強く輝かしい声が。切り捨て続ける私に、どうしても活かしたいと願ってしまった声が」
光明は江流に向き直った。
「夕方、熊を山に帰しましたね?あなたには聞こえたのでしょう、飢えに狂った獣の声が。本来奥の山からヒトの世界まで越境するはずのない、山の主の叫びが通じたのでしょう」
夕刻、山の主たる巨熊が姿を現し人を襲った。
巨大な熊は、人界である金山寺の境内にあっては、異形だった。強大な力を持つ異形は、そこに存在するだけで畏怖心を呼び起こす。地を均し、天まで侵す塔すら建てる人間は、その爪を禍々しい恐怖と見た。自分達人間の脆弱さを露わにする、凶器としか見なかった。
冷たい雨の中、巨大な異形に怖じもせずに対峙した江流は、とても小さく、同時に本来の姿形よりも大きく見えた。獣の叫びにこめられた意味を察し、一歩もひけを取らずに互いの領域を守り合うことを誓っていた。
しかしその姿すらも、異質を恐れる僧達には熊と等しい恐怖の具現化だった。
熊の振り上げる前脚は、触れればずたずたに江流の躯を引き裂いた筈だった。山の主にとっては人間の子供など、目に入らぬような卑小な存在の筈だった。
しかし、駆け付けようと焦る光明の前で、江流は言い放った。
「無礼者」
山の主も、光明も、一瞬固まった。
傲岸不遜な一言のようでいて、それは自分と対峙する獣とが、完全に同じステージに立つと思わなければ出ない言葉だった。生けとし生けるもの同士で、同等に対しているからこそ出た言葉だった。
山の主に対して、誓約する。
人間だからといって、侮られる必要もない。
それ理解した山の主は、江流の誓約を聞き容れ帰って行った。そして光明は、江流の小さな躯の中にあるとは信じ難い程の、柔軟な感受性と、高みから大局を見る能力を感じ取った。
「…はい。ヤツは怒りに目が眩んでいました。奴らのテリトリーが人間に侵されていることを。ここ数年の天候不順で人間は作物を耕す場を探し求め、欲望のまま狩り尽くす為に山を侵す。山の動物はただでさえ飢えている。…食物連鎖が崩れています」
「…ええ。ここ数年のことです。桃源郷のどこかで、何かが狂い始めているような気がします。これから何か大きな変化が起こる兆しが、見えてきているのだと思いますよ」
「…ヤツの怒りを収めなければ、ヤツを殺しても次が来るだけです。だからこの地に生きる者同士の誓約を、おれは誓い直しました。共存する者どうしの、不可侵の契約を…」
江流は、光明を素通りして別の場所を見ている。それに気付いて光明は微かに笑った。
「…この世の理として、その誓約を知る智慧を持ち、人も獣も隔てず声を聞き取れる人間を、私は自分の後継の三蔵に望みます。私が見定めた…十三年の時をかけて見定めた、江流、あなたを」
「ここへ来る前に、朱泱におれの数珠をやりました」
「数珠って、江流が最初から身に付けていた…?あれしか身の証を立てる品はないんですよ…?」
「はい。お師匠様がそう言ってくださったから、今まで大事に身に付けてきました。でももういいんです。おれはどこから来た何者でもいい。揚子江で拾われた子供の江流は、お師匠様に名前を…玄奘という名前を頂いていなくなりました。おれの、子供の時間は終わりました」
「では、幼名江流。あなたに玄奘の法名を授けます」
江流は…玄奘は一礼を拝した。
「あなたを第三十一代唐亜玄奘三蔵法師と任じ、聖天経文、魔天経文の継承者とします」
光明が印を結んだ。
「…阿 阿 阿 …」
光明の声が韻々と響いた。
「 …オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ナゥ、マ カ ボ ダラ マ ニ ハン ドマ ジンバ ラ ハラ バ リタ ヤ…ウン!」
揺らぐような光が現れ、光明の背後に円を描くように拡がった。そのまま、印を結んだ指を玄奘の額に近付ける。
印が輝いた。
玄奘の額に輝きが触れ、それは光明の躯を包む光が収まると共に収束した。そして玄奘は自分の額のチャクラとしての、新たな脈動する輝きを感じた。
「玄奘三蔵法師。これが今からあなたの名です」
光明の額から、チャクラが消えていた。
「天地の理を知り、生ける者と大地との誓約を知るあなたは、経文の守り人として相応しい。玄奘三蔵、私の持てる全てのものと、全ての時間をあなたに。かつて私に届いた声が私を孤独にしなかったように、いつかあなたの元へ届く声が、あなたを孤独にしないでしょう」
「それはきっと、あなたを強くする。」
「強くおありなさい。 玄奘三蔵法師 」
その笑顔は玄奘の脳裏に永久に焼き付いた。
光明が肩から聖天経文を外すと、それは不可思議の力によって巻物へと姿を変えた。
「玄奘三蔵になら、混沌の中から、希望を生み出す力を…」
言葉が遮られた。
暴力的に戸の開かれる音が響いた。
「光明三蔵法師か!?」
夜盗の一群が、室内に入り込んだ。光明は座ったまま玄奘ににじり寄り、静かに問う。
「…この夜更けに、一体どなたが何のご用でしょう。明日ではいけませんか」
粗暴な匂いを漂わせた男がひとり、前に出た。
「悪ィが急ぎの用事なんだよ。光明三蔵、アンタの持つ経文を貰いに来た」
灯火に暴かれた顔に、文様状の痣が浮かび上がる。
「…妖怪の方々が経文を持たれても、何の価値もありませんよ?」
「そんなことは、こっちで決めんだよ。経文を大人しく寄越す気がねえんなら……」
夜盗達の抜いた青龍刀が、殺気にぎらつく。
動きかけた玄奘の膝に光明が手を置いた。
「…あなた方だけでは経文の力は使えないでしょう。この子を安全な場所に移すと約束してくれるんでしたら、私がご一緒に参りますが…?」
「お師匠様!?」
夜盗が猛々しく嗤った。
「…時間稼ぎかい?残念ながら、殺して奪うのが俺達の流儀でな…。とはいえ、三蔵法師の肉体は妖怪には不老不死の効果があると聞くな…」
男の後ろで、妖怪達が舌舐めずりをした。
「…肉体ごと、殺して奪う!!」
青龍刀の凶暴な切っ先が光明に向いた。
玄奘が立ち上がり叫ぶ。
「よせ!今代三蔵法師はおれだ!」
「江流!?」
玄奘を突き飛ばした光明が、そのまま両腕を開いて妖怪の前に躯を晒した。
凶刃が右腕を叩き落とし、胴を薙いだ。血液をまき散らしながら光明の腕が転がり、残った腕の切断面から、血が飛沫いた。
玄奘の目の前で、光明がゆっくりと倒れる。玄奘の腕に、倒れ込む。
倒れながら噴き出す鮮血が、顔や躯に音を立てて降り注ぐのが判ったが、玄奘は目を閉じることが出来なかった。
視界が深紅に染まる 。
「ひゃひゃひゃあっ」
血の滴る青龍刀を下げた男が、光明の傍に転がる聖天経文を拾い上げた。
「天地開元経文だあ!…そしてこっちには、柔らかくて美味そうな三蔵法師だあああ!」
玄奘の頭がずきずきと痛んだ。血管がどうにかなったようだった。
「…こ…りゅ…」
失血に色を失った光明の唇から、喘鳴混じりの細い声が聞こえる。
左手が動き、玄奘はそれに触れようとして反対に腕を掴まれた。懐に押し付けられる。
もうひとつの経文が、そこには仕舞われていた。
「…ごめ…」
光明の言葉は、永遠に途切れた。
「ひゃあっ」
狂喜の嗤い声が余りに煩く感じられ、玄奘は酷く痛む頭を無理矢理そちらに向けた。深紅の視界が、更に暗く狭くなり、下卑た顔と再び振り上げられる青龍刀だけが目に入った。
「…オン…」
ざわり、と玄奘の中の何かが蠢いた。
光明は何と言っていたか?魔天経文を、破滅の力と言っていたのか?邪悪を浄化するのか?世界中を抹消すると?
掌の下の魔天経文が舞い拡がって自分を取り囲み、目の前の妖怪が驚愕に口を開くのが玄奘の眼に映った。
…チャクラが熱かった。頭痛も酷くなる一方だった。
「オン、マ、ニ、ハツ、メイ、…ウン!」
爆発的な光が拡がった。
「ぎゃああああ…!」
室内の妖怪達の半分が消滅した。
浮き足立ちながらも、生き残った妖怪のひとりが吹き飛ばされた聖天経文を素早く拾った。
玄奘は、ゆらり、とそちらを向く。
「…ひッ!」
「…かえ…せ。おれ・の、だ…」
血塗れの手を伸ばし、進もうとした、その足の下にぐにゃりとした感触があった。
光明の、右腕だった。
「あ・あ・あ。おししょうさま。うでが、こんなところにうでが。」
持ち上げた右腕は、玄奘には異様に重たく感じられた。血液をたっぷりと吸い込んだ手甲から、深紅が滴った。
妖怪達が、走り去って行く。
「お・ししょうさ・ま。うでが。ちが。あ。あ。あ…。」
事切れた光明の顔は、血の気が引いて青白く、べったりと血に濡れていた。
「…ち・が。」
少しでも、こぼれた血液を光明の躯の中に戻したくて、血だまりの中に掌を突っ込む。すくい上げて、割かれた腹部に押し戻す。
すくってもすくっても掌から深紅はこぼれ、注いでも注いでも割かれた傷に血は留まらなかった。
「…あああああアアアアアアアアア!」
呼吸が苦しく、自分の喉から溢れる音が悲鳴のようだと思う。
「アアアアアアアア・ア・ア・ア・ア・ア!」
開け放たれた戸の向こうに、空が白々と明けて行く。徐々に明るくなる室内の惨状がはっきりと目に入って来る。
守れなかった。
何よりも大切なものを、守れなかった。
喪ってしまった
異変に気付いた僧達が、集まりだした。
「…江流? おい、しっかりしろ!!一体何があったんだ!?おい、江流…!!」
聞き慣れた声が、聞き慣れた名前を呼ぶ。
喪ったものと同時に葬った、もう自分のものではない名前を呼び続ける………。
朱泱は防衛の指示を出しに僧徒達の間を駆け巡りながらも、考えていた。
「…ま。じじィの思惑は知ったこっちゃねえけどな。…ここで頑張ンねえと、アイツが帰って来た時に困っちまうからな。寺が無くなってたら、アイツの居場所が無くなっちまうからな」
境内中に松明を掲げる為に走った。明々とした炎に、ふと、光明三蔵の純白の法衣を、江流が纏っている姿を思い浮かべる。
「…無事、経文取り返して戻って来いや。お前さんなら、さぞ柄が悪くてご立派な三蔵法師になるだろうぜ」
前夜受けとったばかりの、赤ん坊だった江流が身に付けていたという守りの数珠を、朱泱は首に掛けた。松明が、数珠の紅をゆらりと照らした。
「俺は長い放浪を続けて、この金山寺に辿り着いた。お前は光明様に拾われて、成り行きでここで育った。光明様亡き今となっては、お前さんにゃ大した義理もねェだろうがな。…帰って来る場所ぐらいは、守っててやるよ。…無事帰って…あの口の悪さを聞かせろや…」
にっ、と唇を歪めて見上げた夜空に、低く赤い月が出ていた。
別室の床に、拘束具で身動き出来ないまま転がされていた少年が呻いた。
五百年の封印を解かれ、現状を理解できないまま、ただ母親を救うことだけを望んでいた。屈辱の嗚咽が、猿ぐつわに押し戻されて吐き気を催す。
「母上…。母上を泣かせたあの女狐が、俺を自由にした。どんな思惑があるのか、俺にはまだ判らない。…でも、必ず救い出しますから。何をやってもいいから、母上だけは救い出しますから…!」
吠登城のシルエットが、赤い月に黒々と浮かび上がった。
「声が、聞こえたからですよ」
「いつかあなたにも聞こえるかもしれませんよ?誰かの声が…」
今は師、光明三蔵の声しか聞こえて来ない。
「強くおありなさい。 玄奘三蔵法師 」
どうしようもなく、振り返りたくなった。その衝動を抑え切れなかった。
木々の切れ間から覗く、大きく赤い月だけが、江流を…三蔵を見守っていた。