cherish 
 執務中の金蝉は、ふと気付いて顔を上げた。
 いつも煩い子供の声が、何時の間にやら聞こえなくなった。

「…悟空?」
「呼んだ?金蝉」
 机の向こう側から、急に飛び出してきたいたずらそうな顔に、一瞬驚く。
「いや。特に用事はない。お前が静かにしてるなんて、珍しいこともあるもんだな」
 子供の躯は、金蝉の執務机の影に完全に隠れていた。机の端からひょっこりと現れた顔が、まるで玩具のびっくり箱めいていて感じられ、金蝉の唇が微かに緩む。
「なんだよ。金蝉が静かにしろって、言ったんじゃんか。だから俺一生懸命黙ってたんだぜー」
「寝てたんじゃねえのか?」
「違えよっ!」
 悟空は『心外だ』、とでも言わんばかりのふくれっ面を見せた。
「俺はねー、俺は一生懸命にねー…」
 小さな躯を精一杯反らせ、主張を始めようとして、急に黙る。
「何だ?」
「…何でもない」
「何なんだ?」
「何でもないったら!」
 椅子から腰を浮かせ、悟空の方を覗き込もうとした金蝉に、悟空は慌てた大声を返した。顔は金蝉に向けたまま、手許は忙しそうに何かをかき集めている。

 画用紙の束。
 散らばったクレヨン。

 ばらばらと、手当たり次第にクレヨンを、ケースに詰め込み抱え込む。
「本当に何でもないんだったら!秘密なんだからな!」
 …天蓬あたりが見れば、笑いながら「おやおや」とでも言ったかもしれない。
 小さな子供の、意志の強そうな瞳が、自分よりも随分と低い位置から睨み付けるのに、金蝉は呆れながら、そう思った。

 小猿の癖に生意気な。
 隠し事だと?
 『秘密』だと?
 睨む目つきがきらきらと、紅潮する頬が嬉しげに。

 悟空が背に回した掌から、画用紙が数枚こぼれ落ちる。それに気付いて見ぬ振りしながら、金蝉はまた、椅子に腰を落ち着けた。
「…昼飯まではまだ間がある。俺は書類があるから、暫く静かにしてろ」
「うんっ!」

 書類を捲る微かな音に、印を捺す音、筆を置く音。
 耳をすませば、執務机の影からの、小さな子供の息遣いの音。
 時折交じる、独り言。
「んーーー。また間違えた」
 紙を破っては、くしゃくしゃと。
 金蝉は、物音を立てぬように立ち上がり、机に腕を突き、伸び上がった。

 腹這いで、丸めた紙を放り投げ、真新しい画用紙に何か書き始める悟空。
 色とりどりのクレヨンが、画用紙の周りに散乱している。
 その一本を選んで手に取り、ひと文字書くと、また別のクレヨンを手に取る。
 次の一本を選びながら、楽しげに首を振り……

「なあ、金蝉」
 金蝉は慌てて席に戻った。
「何だ?」
「『きょう』って、どう書くんだっけ?」
「あ?」
「見ちゃ駄目っ!」
 今度は堂々と覗き込めば、悟空は画用紙の上に躯を伏せて、必死の形相で隠そうとする。
「見ないで教えてよ!」
「我が侭なヤツだな…」
 金蝉は軽く目を瞑り、こめかみに指を当てた。
「なあ、金蝉ー。『今日も』の『きょう』って、どう書くんだよ?」
「……。ひらがなの『き』は判るか?」
「うん。…『き』」
「小さい『ょ』」
「…小さい字で…『ょ』…と」
「普通の大きさの字で『う』」
「…『う』……。これで『きょう』?」
「そうだ」
「ありがと!」
 また暫く、静けさが続き。
「…なあ。金蝉?」
「何だ?」
「『いっしょに』って、どう書くんだ?」
「……『い』、小さい『っ』、『し』、小さい『ょ』」
「……『い』、『っ』、『し』、『ょ』……」
 真剣な声が、徐々に口の中に消えて行く。

 金蝉は、手許の書類束を見比べ、また違う書類を捲り、押印して行く。時折何か書き付けるが、その最中にもまた声が掛かる。
「…金蝉?」
「んーーー?」
「『ご飯』の『ご』って?」
「『こ』に点々」
「ありがと」
 また幾らもしないうちに、
「『食べましょう』の『しょう』は?」
「……『し』、小さい『ょ』、『う』。…先刻書いたろ?『きょう』と同じだ」
「あ!そっか!」

 以前天蓬は、平仮名の読み書きはひととおりこなせるようになったのだと、悟空のことを言ってはいたが。絵本はひとりで読めても、文章を書くのはまだ難しいらしい。
 拗音、撥音、濁音。この分だと、多分半濁音も苦手なのかもしれない。
 文章を書き終わるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
 そう思いながら、金蝉は自分でも気付かぬうちに微笑んだ。

「金蝉。『わ』は?」
「『わ』は『わ』だ。…字が思い出せないのか?」
「違う。『たまにわ』の『わ』は、『わ』で、いいんだっけ?」
「『偶には』、か。それは『は』。…助詞も難しいか…」
「何?」
「……いや。気にするな」
 熱中して来たのか、悟空の独り言の声が少しずつ大きくなって行く。
「……おれ、と。…遊んで…『あ』、『そ』、『ん』……『て』に点々……。『く』、『だ』、『さ』、…『い』、と。」

 先程見たばかりの、悟空の必死な顔を思い出し、金蝉は笑いの発作に肩が震え出しそうだった。
 躯全体で隠した所で、これだけ口に出せば、内容は丸判りになってしまう。遊びの誘いか、約束か。それに気付かず、真剣に手紙をしたためているらしい悟空の、生真面目な様子が可笑しかった。
 躯の震えを抑えながら、金蝉は、ふと、「可笑しい」のではなく「愛しい」のだと。そう思い付き、動きを止めた。




「……偶には、な。そんなこともあるのかもしれない」




「金蝉、ナンカ言った?」
「何でもねェよ。ホラ、真剣に続きに取り組め。のたのたしてると、明日になっちまうぞ」
「金蝉の意地悪!」
 口の悪い教師に、悟空は抗議の声を上げ、舌を突き出して見せた。
「ったく。それが教わる態度かよ」






「……ちぇー。何だよ、金蝉が静かにしろって言ったから、俺、ちゃんと静かにしてんのに!」
 悟空はまた、呟きながら画用紙とクレヨンに取り組み始めた。
「…ねえねえ!」
「…今度は何だ?」
「最後に付ける『え』は『え』でいいの!?」
「はァ!?」
「『は』じゃなくて、『え』!『金蝉え』の『え』!!」









 ある晴れた日の、小さな出来事。







 fin 




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◆ note ◆
ヴァレタインを明日に控え、あまあまなヒトタチのお話は間に合わなさそうなので、
せめて可愛らし目のお話を