presented by 綺兎里さん
 a narcissus 
―― A CASE OF HAKKAI ――

 蒼い月光に濡れて僕は立ち尽くしていた。
 そっと踏みしめた雪から立ち上ってくる冷たさが、いっそ心地いい。
 凄いほどの月の光を得て、雪面は冴え渡っていた。
 その吸い込まれそうな色に、それをもたらした月を思わず見上げる。
 遥かな高みにある、孤高のその姿。
 それが誰かを連想させて、そう思ったら眩しくてそっと目を伏せた。

 伏せた目をやった足元に。
「…………」
 僕はじっとそれを見つめた。
 何度かゆっくりと瞬きして、それでもそれが消えてしまわないので僕は膝をついた。
 それをもっとよく見るために。
 布越しに染みてくる雪の冷たさも気にはならなかった。  

 膝をついて目線を低くした僕の目の下に、
 一人の人が立っていた。
 白いほっそりとした姿。
 輝く金糸。
 小さくてよく見えないが、きっと強く輝いているだろう紫暗の瞳。
 掌に乗せてしまえそうなくらい小さな、しかし侵すことのできない気高さで立っているその姿は。
「………三蔵?」
 僕は呼びかけた。
 さして不思議にも思わずに。

 何故ならこの世にそんなふうにあるのは、彼しかいなかったから。
 だから僕は呼びかけた。
 彼が何故そこにいるのか、
 ただそれだけがわからないまま。

「………三蔵?」
 僕が呼びかけると、小さな三蔵が動いた。
 その小さな黄金の頭(こうべ)をゆっくりと左右に振る。
 まるで、自分を呼んでいる誰かを探してでもいるように。
「三蔵」
 もう一度、呼んでみる。
 小さな三蔵は辺りを見まわして、小さく首を傾げた。
 紫暗が目の前の僕の上を通り過ぎる。
 どうやら僕のことは見えていないようだった。
 少し寂しかったけれど、見えたら驚かせてしまうからしょうがないと思った。
「三蔵」
 そっと呼びかけて両手をゆっくりと差し出す。
 彼を掌に掬い上げるために。


「んなとこで何してんだ」
 不意に頭の上から呼びかけられて、僕は吃驚して振り返った。
「いい加減にしないと風邪を引くぞ」
「…三蔵」
 月明かりに冴え冴えと照らされたその姿に一瞬ぼんやりして。
 次の瞬間、慌てて視線を前方に戻した。  

 そこには小さな三蔵の姿は既になく。
 代わりに一本(ひともと)の水仙が咲いていた。
 蒼い月光の下。
 金色の副花冠と、それを取り巻くようにひらいたほんの僅かクリーム色がかった白い花を戴くその姿は、僕の後ろで少し不機嫌な顔をしているだろう人にあまりにも似ていて。
 僕はただぼんやりとそれを見つめ続けた。  

 不意に微かに甘い匂いが鼻先を掠めた。
 小さな花からとは思えない、豊かな、それでいて清らかなその匂い。
 その匂いさえ似ていると、僕は思った。

 僕はゆっくりと振り向いた。
 三蔵が少し目を細めるようにして立っている。
 立ちあがり、そんな三蔵の横に並ぶ。
 三蔵はちらりと僕の見つめていたものを見たが、何も言わなかった。
 代わりに、その白い面を仰のけた。
 小さな顔を取り巻くように、金糸の髪が緩く舞い上がる。
 それで、風が出てきているのが僕にも分かった。
 何時の間にか、どこからか雲が湧いてきて月を隠そうとしている。
 また雪になりそうだった。
 僕らは目を見交わし、どちらからともなく踵を返した。  


 少し軋む階段を上りきり、三蔵を部屋に入れて後ろ手で扉を閉める。
 ふと目をやった裏庭に面した窓の枠に、小さな灰皿が乗っていた。
 そこに捨てられた吸殻が山を作っているのをみて、僕はそっと三蔵の背中に囁いた。
「心配してくださってたんですね」
 そして三蔵が不機嫌な顔で振り返るのを待たずに部屋の明かりを消して、細い体を背中から抱きしめた。
 部屋に闇が落ちる。
 いきなり暗い中で抱きすくめられて、腕の中の三蔵の体が激しく身じろいだ。
 抗議のために振り向けられた顔に少し微笑んで、柔らかな唇をそっと奪う。
 触れたところから溶けてしまいそうな、甘やかなその感触を存分に味わった。
 驚きのあまり動きを止めてしまい貪られるままになっていた唇をようやく取り戻した三蔵の頬が熱いのを知って、思わず喉の奥で笑ってしまう。
 三蔵が怒りのあまり言葉をなくして紫暗の瞳だけをらんらんと輝かせているのが、夜目の効く僕には分かった。

「三蔵」
 心を込めてそっとその名を呼ぶ。
 腕の中の体がピクリと震えた。
「三蔵」
 何度も囁きを重ねる。
 唇をその薄い耳朶に触れそうなくらい近づけて、声と息を綯い交ぜにして送り込んだ。
 繰り返すうちに腕にかかる重みが増してくる。
 ぐったりと凭れ掛かってくる細い肢体を支えてやって再び口づけても、もう抵抗は返ってこなかった。
「……お前、これって………反則だぞ」
 途切れ途切れに言う三蔵をベッドに導きながら、僕は口答えをした。
「いいじゃありませんか。たまには僕が反則したって」
 僕の台詞に三蔵の足が一瞬止まる。
「…なんだ、その『たまには』ってのは」
「いいんですよ。分からなくても」
 貴方には一生分からないでしょうから。
 思わず笑みを零してから、あ、と僕は思った。
 微かに甘い匂いを漂わすほっそりとした白い花と、三蔵の違いを見つけたから。

 水仙は、水面に映った自分の姿に恋した美少年が変化(へんげ)した姿だという。
 それに引き比べて。
 自分のことに無関心で、何一つ分かってないこの魂。
 愛しさにまたキスを重ねて、カクリと膝を折った体をベッドに横たえた。
 僕を誘う微かに甘いその匂い。
 それが目の前の三蔵のものなのか記憶の中の花のものなのか、もう僕には分からなかった。  

 再び現われた月の光に照らされながら、僕は白い花を抱いた。






―― A CASE OF GOJYO ――

「水仙って、三蔵のような花だと思いませんか」
 二人で焚き木を拾いに出た俺に、八戒がいつもの笑みを浮かべながら言った。
 唐突なその言葉に思わず相手の顔を見て、それからその視線の先にあるものに自分のそれを合わせた。
 林の中、落ち葉の敷き詰められた足元に一群れの水仙が咲いている。
 他の花がもう咲き終わりあるいは春を待つこの季節に、冷たい空気も知らぬげに凛としてあり、甘い芳香を漂わせている。
 俺たちのような風変わりな旅人くらいしか通りかかることのない、人里離れたこんな場所で。
 見る人がいるかどうかなどまるきりお構いなしに。
 そんなところは確かに似ているかもしれない。
 妙なところで八戒の言葉に同意した。
 大体あいつは花にたとえるようなタマか?
 それでもどうしてもというなら、薔薇とか柊とか。
 それなら棘だらけなところが似ていなくもない。
 そこまで考えて、どちらの花も甘い匂いがすることに気づいた。
 まあ確かに、いい匂いはさせている。
 俺と同じヘビー・スモーカーのくせに、いつも微かに甘い匂いを纏わりつかせている。
 三蔵の七不思議のうちの一つだ。
「じゃあ、これ」
 いきなり腕に重みがかかったことに驚かされて、自分がらしくなく物思いに耽っていたことに気づいた。
 腕には俺の集めた焚き木の上に、八戒の集めたそれが積み重ねられている。
「僕はもう少し集めてから行きますから、悟浄は先に戻っていてください。それと申し訳ありませんけど焚き火の支度をお願いしますね」
 悟空は水汲みを言い付けられてもうしばらくは戻ってこないだろう。
 八戒が野営地に一人置いてきた三蔵を心配しているのが分かった。
 誰が襲うか、あんな生臭。
 冬眠前の熊だって避けて通るって。
 そんなに心配なら自分が先に戻ればいいのに、煩がられるのが嫌らしい。
 こいつらの考えてることはどうもよく分からない。
 いや、クソ坊主はあれで案外何も考えてないから、それは主に常に穏やかに微笑んでいるこの男の方だが。
 大体が考え過ぎじゃねーの?
 頭が良すぎるっていうのも、案外生きづらいのかもしれない。

 戻ってみると、三蔵は風除けのために確保した小さな洞から出て、すっかり葉を落とした木立に背中を預けて煙草を吸っていた。
「寒くねーのかよ」
 俺の問いに、ちらりとこちらに視線を走らせる。
 機嫌は悪くないらしい。
 どういうわけか知らないが、三蔵は俺の言葉に滅多に応えを返さない。
 はじめのうちはずいぶんむかついたが、近頃ではあまり気にならなくなってしまった。
 慣れと言ってしまえばそれまでだが、それだけでもない。
 俺のほうも応えが必要なような、大事なことを言ってるわけではないし。
 黙っていても三蔵が聞いているのは、肝心な時に必要な言葉をくれることで分かっているから。
 まあ、それでいいかといい加減に考えていた。

 他人がしているとしたくなることというものがある。
 煙草がそうだ。
 三蔵がマルボロを燻らすのを見て同じようにハイライトを咥えようとして、突然さっきの白い花が三蔵の姿に重なった。
 思わず口に持っていきかけた煙草をポケットに戻す。
「…何だ?」
 滅多にないその仕種に三蔵が目ざとく気づいた。
 こういうところは妙に敏感なんだよなぁ。
 七センチの身長差と、木に凭れかかっているせいで少し上目遣いになる紫暗と俺の目が一瞬絡まる。
 いつものきつい眼差しなら薄ら笑いで受け流すが、険のないこんな瞳はその深い紫色に吸い込まれてしまいそうでどうも苦手だ。
 だからそれを三蔵に気づかれないようにそっと視線を逸らせようとして。 
 それがもう遅かったことにようやく気づいた。

 紫暗の瞳を見つめながら、黙ったままゆっくりと近づく。
 相変わらず木立に凭れたまま動こうとしない三蔵を閉じ込めるように、その小さな顔の横に両手をついた。
 無表情に見上げてくる顔に覆い被さるようにすると、長い真紅の髪が幾筋も流れて柔らかな金糸と絡まりあった。
 その色彩に、以前にも同じことをしたのを思い出す。
 あの時俺は三蔵に何と言ったのだったか。
 そして三蔵は俺に何と言ったのだったか。

『母さん、母さん見てよほら。花屋のオジサンが母さんにって』
『まあそう。なんて綺麗な………血の色!』
 叩き落とされ、床の上で踏みにじられた紅い花。
 俺の目と、髪と、血と同じ色の花。

「あの時俺が差し出したのが白い花だったら、母さんは喜んでくれたんだろうか」
 今、目の前の俺をその紫暗の瞳で映している、
 清らかな、ほっそりとした姿の。
 穢れのない白い花なら。
 あの人はその手に取ってくれたのだろうか。

「紅い花を白くしたら、それはもう別の花だろうが」
 いきなり応えを返されて、俺は驚いて顔を上げた。
 独り言を口に出していたことにようやく気づく。
 木立ちについていた腕がだらりと両脇に垂れた。
 それでできた隙間から三蔵が滑り出て、何時の間にか消えてしまった煙草に再び火をつける。
 そんな様子をぼんやりと眺めた。
「花が紅いのも白いのも、その花のせいじゃねえ。花はただそうあるだけで、それが好きか嫌いかは相手の問題だろうが」  

『この世で紅い物は血だけだと本気で思っているのか』

 そう。
 あの時三蔵は今と同じその無表情で、俺にそう言ったのだ。
 俺がいつまでも見ているので、三蔵は煩そうに言葉を継いだ。
「俺は花が紅かろうが白かろうが、どうでもいいがな」
 口元を覆うようにして煙草をふかしながら、つまらなそうに呟く。
「まあ、サルなら食えるかどうか気にするかもしれんが」
 その言い草に思わず笑ってしまうと、三蔵の眉間に一本皺が寄った。
 その顔しなきゃ、美人なのに。
 いや、してても美人か。
 煙草を横咥えにして、ジッポを擦ると、乾いた音だけが虚しく響いた。
 横目で見やると、三蔵は嫌そうに、それでもライターを放ってくれた。
 ゆっくり吸いつけるとようやく気持ちが落ち着いてくる。
「お前さ…、自分が今のようでなかったらな、とか思ったことないっしょ」
 その台詞に三蔵がちらりと俺を見た。
 その瞳に浮かんだ光で、三蔵がそんなことを考えたこともないのが分かった。
「……だろうな」
 そういう奴だよ、こいつは。
 天上天下唯我独尊。
 他人がどう思ってようと、歯牙にもかけない。
 そんな三蔵を縛るものが何もないわけではないことは知っていたけど。
 愛情のお零れに預かろうなどということは微塵も考えない。
 ギリギリまで余分なものを削ぎ落とすその生き方こそが、あの花に似ているのかもしれないと不意に思った。

 二人で並んで煙草をふかしていると、途中で合流したらしい八戒と悟空が戻ってくるのが見えた。
「三蔵、中に入っていないと風邪を引きますよ。悟浄、焚き火の支度をお願いしませんでしたっけ?」
 にっこり笑いながら、八戒が言う。
 それでだいぶ空気が冷えてきているのに気づいた。
 おそるおそる窺うと完璧な笑顔で見返された。
 この、本心と表情の食い違いが怖い。
 こっそり横目で窺うと、三蔵も同じことを考えていることが分かった。
「中に入っていてください」
 お願いという名の命令。
「喫煙中だ」
「風邪を引かれたら迷惑です」
 あくまで笑みを浮かべたままきっぱりと言い放たれて、三蔵は煙草を投げ捨てた。
「悟浄は設営をお願いしますね」
 仏頂面で離れていく三蔵を見送っていると、すぐ近くから声をかけられた。
「僕は食事の支度をしてしまいますから」
「…ずいぶん待遇に差があるんじゃねえ?」
「何かおっしゃいましたか?」
「…いいえ、何も言ってません」
 小声で呟いて、見つからないようにこっそりとため息をついた。
 そしてもう一度薄暗い洞のほうを見やってから、俺は大人しく焚き火の準備にかかった。






――A CASE OF GOKU ――

 その街には早く着いたので、チェック・インの時間まであと少しあるといわれた。
 小さな宿なので、くつろぐようなロビーもない。
 八戒の話だと、この後また当分野宿になるから、
「このまま部屋が空くのを待つしかないですね」
 ってことだった。
「僕と悟浄は先に買い出しに行ってきてしまいますね」
 って言うから、俺もついて行くと言ったら、三蔵に却下された。
 なんだよ、三蔵のケチ、ハゲ。
 でも、
「三蔵一人残していくのは心配なんで、悪いんですけど悟空は一緒に留守番しておいてくれませんか」
 ちゃんとお土産買ってきますから。
 三蔵に聞こえないようにこっそりそう言われたから、俺はそうすることにした。
 三蔵は一人でも自分のことは自分でなんとでもするけど、八戒は心配でたまらないみたいだ。
 三蔵が怪我をしたり病気になったりした時に、それを治したり看病したりするのは八戒だから、いつも一番身近にいる分しょうがないのかもしれない。
 だから三蔵は面白くなさそうだったけど、横にくっついていることにする。
 機嫌の悪い顔をしているけど、それはいつものことだから別に気にならなかった。

 二人が帰ってくるまで玄関先で突っ立ってるのも馬鹿みたいだと三蔵が言うので、宿の裏手の雑木林に散歩に行くことにした。
 三蔵は珍しく文句を言わずについてきたけど、あれは通りすがりの人が全員三蔵のことを見ていくからだと思う。
 三蔵はじろじろ見られることを凄く嫌うけど、しょうがないんじゃないかと思う時もある。
 三蔵は綺麗だから。
 その本当の綺麗さは外からは見えないけど、見てるだけで分かる綺麗さも三蔵は持っていたから。
 太陽の光を月の光を受けて、惜しげもなく辺りに金の雫を零す柔らかな髪。
 幾ら色濃くなっても黒ずむことなく輝く紫暗の瞳。
 同じように長い旅をしてきているのに、陽に焼けることのない透き通るような白い肌。
 ほっそりしているけど強いバネを隠していて、いつでも動くことができるように軽く緊張している、それでいて余分な力を抜いたその姿も。
 何もかもが綺麗だと。
 はじめて逢ったときからそう思っていた。  

 冬の雑木林は寂しかった。
 秋には色づいていた葉も全て落とされ、セピア色の枝だけが北風に鳴っていた。
 俺と三蔵の足の下で枯葉がカサカサと音を立てる。
 俺たちは黙って歩いた。
 三蔵は無口だ。
 放っておけばいつまでも黙ったままでいることがよくあった。
 三蔵に話し掛けてもらえないのは寂しかったけど、黙っている三蔵も嫌いじゃなかった。
 何も言ってくれないけど、突き放されているわけではないことが分かっていたから。
 三蔵が黙っているのはここではないところを見つめているからだ。
 長安の寺院では窮屈な思いをしていたから、
 三蔵がしたいことはなんでもさせてやりたかったけど。
 あんまり見つめ過ぎて還ってこれなくなりそうな時は、わざと騒いで注意を引いた。
 おかげでずいぶん、怒鳴られたりハリセンで殴られたりしたけど。
 あの紫暗の瞳が二度と俺を映さなくなってしまうのは耐えられなかったから。
 そんなことを思いながら、ふと目を足元に落とした時、それを見つけた。

 小さな金色の輪を取り巻くように白い花びらが開いている房咲きの花。
 その花を守るように、細くすっきりと伸びた葉が何枚も取り囲んでいる。
 そして微かに漂う、甘い匂い。
 昔この花を三蔵の部屋の机に飾ったことがあった。
 三蔵の部屋はあまりにも殺風景だったから。
 ほんの少しの花を飾るだけで、部屋の空気までが変わるような気がしたことを覚えている。
 その時三蔵はこの花の名前を教えてくれた。
 水仙。
 確かそう言ったと思う。

 俺と三蔵が長安にいて、まだ悟浄と八戒とも出会っていなかった頃。
 俺の髪は背中を覆うくらい長くて、髪を洗ってくれるたびに三蔵は面倒くさがって文句を言った。
 今思うとあの頃の三蔵は今の俺より子どもだったのだ。
 でもその時は三蔵はもう立派な大人に見えた。
 誰に対しても毅然としていたから。
 自分が一つずつ年を取っても、その思いは変わらなかった。
 俺が一つ年を取れば三蔵も一つ年を取るのだから、それは当たり前だと思っていた。
 悟浄と八戒に逢ってからもそれは変わらなかった。
 旅に出た頃もそうだった。
 その思いが変わってきたのはいつからだったのか。
 三蔵も俺たちと同じ、本当に生きはじめてからいくらも経っていない人間なのだと。
 それどころかもしかしたら、まだ生きはじめてもいないのではないかと。
 そんなことを思うようになっていた。
 だから、離れてはいけないと。
 独りにしてはいけないと。
 そんなことも思うようになっていた。

「どうするつもりだ」
 しゃがみ込んでその白い花に手を伸ばそうとしたら、いきなり声を掛けられた。
 そのまま振り仰ぐと、太陽の光がその金糸の髪に反射して後光のように三蔵を取り囲んでいた。
「宿の部屋に飾ろうと思ってさ」
「やめとけ」
「えー、なんでだよっ」
 三蔵の部屋に花を飾っていた時、三蔵はなにも言わなかったけど花はどけられることはなかったから、少なくとも嫌がってはいないだろうと思っていたのに、そんなふうに言われて俺は少し膨れた。
「ここには一晩しか泊まらないし、花の面倒を見るための道具もないからな」
 三蔵の言うことが、俺には半分しか分からなかった。
 俺が黙っているので、三蔵はため息をついた。
「お前は花を摘んでくるのはいいが、いつもそれっきりだからな」
「花瓶を貰ってきてそれに挿したし、水だって入れてたぜ」
「最初の一回はな。花ってのは種類によっては水を吸わせるための処置をしなきゃならんし、水だって取り替えなくちゃならねえんだよ。暑い時期には氷を入れたり砂糖を入れたりして水が腐らないようにするし、吸い上げが悪くなれば切り戻しもしなけりゃならない」
 三蔵の言葉を俺は呆然と聞いていた。
「でも俺の持って帰った花は結構長持ちしてたぜ。…それってまさか」
「何がまさかだ。あの部屋を使ってた人間は二人で、お前はやんなかったんだから残りは一人しかいないだろうが」
 面白くもなさそうに呟く三蔵にあいた口が塞がらなかった。
「なんで三蔵はそんなこと知ってんだよ」
「金山寺でやらされた」
「でもなんで三蔵がそんなことするんだよ」
「あの頃のお前に言ってもまだ無理だったからな。仕込めそうになった頃にはもって帰ってこなくなってたし」
「そうじゃなくってっ!」
 俺は思わず大きな声を出した。三蔵が少し顔を顰める。
「俺が勝手に摘んで帰った花なんだから、三蔵が面倒見ることないじゃん」
「だけどお前は俺のために摘んできたんだろう。理由はどうあれ、一旦手元に置いちまったものは面倒見るしかねえだろうが」

 三蔵のその言葉が心に染みてから、俺はゆっくりと立ち上がった。
 そして黙ったまま三蔵に近づいた。
 そんな俺を、三蔵が訝しそうに見ている。
 三蔵。
 俺の太陽。
 俺、三蔵の手を握りっぱなしだったな。
 守るとか言いながら、いつも手を引かれてばかりだった。
 いい加減三蔵の手を放さなきゃならない。
 三蔵を自由にするために。
 そして今度はこっちから握り返す。
 三蔵を守るために。

 なんだか頭の中が熱くなって、なにも考えられなくなる。
 三蔵のことを考えているといつもそうだ。
 考えるより先に足が地を蹴って、
 体ごと三蔵にぶつかっていた。

「この馬鹿ザルっ」
 捕まえた三蔵の体が後ろざまに吹っ飛んだ。
 ヤバい! と思ったがもう遅い。
 地面に押し倒してしまった三蔵はどこか打ったのか、一瞬息を詰まらせていたが素早く身を起こした。
 左手には見慣れた白く長いものが握られている。
 その名前を頭にのぼせる前に、現物の直撃を受けた。
「わっ、タンマっ! ワザとじゃねーって!!」
「煩えっ。そこ動くなっ!」
「悪かったって、さんぞー。そんなに怒んなくたっていいじゃん!」
「悪気がなかったら何してもいいのは五歳児までだっ」
「三蔵、お待ちどうさまでした。もうチェック・インできるそうですよ。……どうかされましたか?」
 痛さに霞む目で悟浄と八戒の姿を認めて、俺はその間に飛び込んでそのまま後を見ずにひたすら走った。
「逃げんじゃねえよ! 戻って来い、馬鹿ザルっ!!」
 三蔵の怒鳴り声が聞こえてきたけど、当然無視した。  

 三蔵を守りたい気持ちは胸に溢れているのに。
 俺たちの関係が変わることなんかあるんだろうか。
 なんだか情けない気持ちになりながら、取り敢えず三蔵の声が聞こえなくなるまで走り続けた。







 END 







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◆ note ◆
閉架書庫の綺兎里さんからの頂き物です
拙サイト掲示板で、もうすぐ咲き始める日本水仙や、その香りの話題になり、その際、
「(三蔵様のイメージのある水仙を)創作に活かしてくださること希望v」
などと申し上げて…で、本当にお話を書いて頂いてしまいました
言ってみるものです(しみじみ)

美しいお話をありがとうございます、綺兎里さん