私は 願いますよ
光明三蔵が、居室の床下から仔猫の泣き声がすると言い出したのは、最近のことだった。恐らく何処かの隙間から入り込んだ猫が仔を産んだのだろうと、そのまま育つまで放っておいてやろうと言っていたのだが。昨日、寺院の前で荷車に轢かれた猫がいた。それから床下の仔猫の鳴き声は、小さくなって行く一方のようだった。
光明三蔵は、床下の換気口の枠を取り壊し、その残骸を手に持ったままだった。
「オレならここから入れますけど、お師匠様には絶対に無理ですから。ちゃんと猫連れて来ますから、ここで待っていてください」
「すいませんね、江流。…蛇かなんかがいたらどうしよう。やっぱり私が行った方が…」
「蛇が棲んでたら、とっくに仔猫なんか食われてます!いいから、オレが行きますから!!」
小さな換気口の前での押し問答の挙げ句、江流が床下に潜り込んだ。闇に目が慣れると、言われた通りのホコリと蜘蛛の巣。それでも手探りで光明三蔵の居室の真下辺りまでやって来ると、小さな動物の蠢く気配と、今にも消え入りそうな鳴き声が聞こえてくる。思わず、自分の入って来た小さな入り口を振り向くと、眩しい明かりの向こう、しゃがんで覗き込む光明三蔵の影が見えた。
どれだけ覗き込もうとも、この暗がりは見通せないだろうに。そう思いながらも、江流は自分を見守ろうとする光明の気持ちを嬉しくも感じる。
「江流、見つかりましたか?」
離れた場所から聞こえて来る、心配そうな師の声に、江流は自覚のないままで微笑む。
「ちゃんと生きてますか?」
その声を聞きながら、小さな仔猫を片方の袂にくるみ込んだ。
「怪我はありませんか?」
「…おい。お前達の声、ちゃんとお師匠様に届いたんだぞ。どんなに小さい声でも、あの人はちゃんと聞き分けてくれるんだぞ。…お前達の母さんは、いい場所でお前達を産んだんだぞ」
「江流。江流?」
段々不安げな色を帯びてきた光明の声に、江流は大きく返事をした。
「今戻ります!」
「お師匠様、ほら!」
大事に抱えた袂をそっと広げた子供は、ほんの一瞬自慢げな表情を閃かせた。木綿の白も膝小僧も泥とホコリの色に汚れ、頬にはこすった指の縞模様。蜘蛛の巣だらけになりながら、光明三蔵の目の前で、大事そうに小さな動物を抱いている。
「4匹いました。ちゃんと生きてたし、怪我もしてません。…お腹は空かしてるけど、どうすればいいんでしょう…?」
「取り敢えず温めた牛乳でも与えてみましょう。…怪我って…私の聞いたのは、猫じゃなくって江流のことなんですけどねえ」
「オレはこんな所に潜り込むくらいで、怪我なんかしやしませんよ!本当に心配性ですね」
呆れた声を出す江流に、光明は明るい笑みを返す。
「私の替わりに泥んこになってくれてありがとう、江流。…蛇がいなくて、本当によかった」
「蛇なんかいやしないって言ったじゃないですか。第一こんな所、いたとしてもアオダイショウ程度で、毒蛇がいる訳でなし」
「うんうん。よかった、よかった」
嬉しそうに光明は江流の頭を撫でた。撫で続ける優しい掌に、江流は憮然としながらも、徐々に頬が赤くなる。照れくさそうに立ちすくむ。
「…お師匠様。もういいです。それより、仔猫…」
「あ、そうですね。…江流は着替えて顔を洗っていらっしゃい。その間に何か探しておきましょう」
仔猫を受け取り去りかけた光明は、また江流の元へと戻ってきた。もう一度、ホコリにまみれた顔を覗き込むと、その髪を撫でる。
「江流。…ありがとう」
「折角オレが替わりに汚れたのに、オレに触ったらやっぱりお師匠様汚れちゃうじゃないか。全然そういうことは気にしてくれないんだから。オレなんかの為に汚れてくれなくっても、いいのに…」
着替えに向かう江流は、まだ照れの残った顔のままで呟く。優しい目と、暖かな掌の感触を思い出しつつ、歩き続ける。
目を閉じたまま乳を吸っていた仔猫は、満腹になるとそのまま眠ってしまった。全部の仔猫に乳をやり終えた江流は、物珍しそうに箱の中を覗き込んでいる。
4匹の仔猫は、お互いの躯にぴったりと寄り添いながら、ふわふわの布地にしがみつき、爪を立てている。
「…仔猫って、こんなに細い爪なのに必死で掴まって来るんですねえ。そんなに痛い訳じゃないけど、穴が開くかと思いましたよ」
極薄いひっかき傷の出来た自分の腕を見ながら、江流は感心したかのような声で呟いた。
「仔猫だけじゃないですよ。人間の赤ん坊だって、そりゃあもう驚くくらいにしっかりしがみついて来ますから」
光明の面白がるような声に、江流は自分の事を言われているのだと気付いた。
「…そう、こうやって指を握らせてやるとね、ぎゅうっと掴んで来ましたよ。赤ん坊の渾身の力でね、私の指を一生懸命掴んで…。あなたにお乳を分けてくれた人も、この子は力強いから、ちゃんと生き延びますよ、って保証してくれましたっけね」
揚子江の畔に流されて来た赤ん坊は、泣き声こそ大きかったものの、躯は弱り切っていた。それを連れ帰った光明は、必死で子を産んだばかりでお乳を分けられる女性を捜し出した。何人もの子供を育て上げたその女性は、その赤ん坊の乳の吸い付き方が力強いと言って光明三蔵を安心させたのだ。
「三蔵様。大丈夫ですよ。母親と違う乳房にこれだけしっかりとしがみつく子供は、強い子ですよ。ほら、抱いてご覧なさいませ。赤ん坊は壊れやしませんから、しっかり抱いて安心させてあげてくださいませ。…ほら、こんなに強く握り込もうとして…」
光明が小さな握り拳にそっと指を触れさせると、作り物の様に小さな細い指できゅうっとしがみついてきた。そのまま指を自分の口元に持って行き、歯の無い口で吸い付こうとした。
無垢なる者の無心の要求に、光明三蔵は厳かな敬意を感じたのだった。
「…オレにも乳をくれた人がいたんですか?」
頬を染めつつ憮然とした表情の江流に、からからと光明は笑った。
「そりゃあ、私が乳をやれる訳はありませんからね。重湯は飲ませてあげましたけどね。あなたにだってお乳しか飲めない赤ん坊だった頃はありましたからね」
「……覚えてませんから」
どんどん顔の赤くなる江流に、光明は更に声をあげて笑い続けたのだった。
「…とと。ぅわあっ、おっしょさま!!」
江流の急な大声に腕の中にいた仔猫が飛び起き、暴れ出した。
「あ、ばか、オマエ落ち…。お師匠様、一体何なんですか!?」
「抱っこです」
「何で…、あ、爪、痛タタタ…」
「私も痛いです。大人しくなりなさいね。猫だってすぐに大人しくなりますから」
江流は、急に光明三蔵の膝の上に抱え上げられた。驚いて逃げ出そうともがいていたが、光明の「痛い」という言葉に動きを止める。
物心ついてから、人から抱き上げられたことなどない。経や文を書く姿を見て、光明のことも常々細身な人なのだと思っていた。自分の胴に回されたその腕が、意外なほど強く大きく感じられたことに驚く。
「…重たいですねえ?」
「降りますよ。降ろしてください」
「駄目です。もうこれ以上大きくなったら本当に抱っこ出来なくなるし、…江流も抱っこさせてくれなくなるでしょう?」
「当たり前です」
「じゃあ、最後の抱っこですね」
「……」
光明の声が、急に別の色を帯びた。
もう一度抱え直されて、膝の暖かさと煙管煙草の香りにふわりと包みこまれる。江流は、それらが懐かしい匂いであることに気付いた。記憶の底の底に仕舞い込まれた、とても懐かしい思い出に結びついていることに気付いた。
「……本当に、大きくなりましたね。江流……」
江流の抱える仔猫は、規則正しく腹を起伏させている。眠りつつ、交互に前足の爪を出したり引っ込めたりを繰り返す。
仔猫を抱く手が、するりと落ちそうになったが、大きな掌が重ねられた。
優しい腕が、眠る江流を包み込み、揺する。
暖かい膝に、抱え込み、揺する。
毛布を掛ける掌がそっと触れた時、また三蔵の唇がほころんだ。
ほんの微かに、ほころんだ。