三蔵の傷は、水平に振るわれた剣や伸ばされた爪に、皮膚一枚切り裂かれたものだった。
肩口から胸へ。
脇腹に真横に。
頬に。
赤い線が幾筋か三蔵の躯に刻まれている。
紙一重よりも、紙一枚分内側の間合いで身を翻し、妖怪のこめかみや顎に押し付けた三蔵の銃が火を噴くのを八戒は見た。
金糸の髪が鬱陶しげに振り払われ、舌打ちの音がする。髪に隠れて八戒からは三蔵の表情は見えないが、続く騒動を予測して悟空と悟浄から目を逸らしたのに違いなかった。
「ええーっ!?三蔵、趣味悪ィよ!怪我なんかしないに越したこと無ーじゃん!面倒臭がってないで、ちゃんと避けろよ」
「三蔵サマったら、もしかしてお年?普段から最小限度の動きしかしねえ奴とは思ってたけどさ、動けねえ、の間違い?」
悟空は拳を握りしめて三蔵に食ってかかる。
「なあっ!ちゃんと怪我しないようにしろよ!俺、三蔵が怪我すんの、すっげ厭だかんな!」
包帯を巻く為に二の腕を取られながら、三蔵は不機嫌を増して行く。
悟浄が紫煙を吹き上げ嫌な笑いを見せた。
「…それとも、ナニ?そゆので興奮するタイプ?」
撃鉄を起こす音と同時に、八戒が三蔵の銃を持つ腕を抑えた。
「…ヒトが傷口塞ぐ端から、暴れて出血させるのはやめてくださいね。悟浄もわざわざ三蔵の嫌がること言うの、やめてください。この人の気の短いのなんか、充分知ってるんですから。怪我が心配で気になって構いたいのは解りますけど、大人なんだからちょっとは我慢してくださいね」
三蔵の口角が、更に不機嫌側の角度に曲がる。
悟浄はハイライトをくわえたまま、肩をすくめて見せた。
「…おーお。こっちも気が立ってるじゃん。三蔵、嫌がらせとお小言の割合から行ったら、俺よか八戒の方が多いと思わねえ?」
「貴様のは気に障るんだよ」
八戒の手を振り払うと、三蔵はマルボロを取り出しくわえた。悟浄がジッポの火を近付ける。
「…フン」
低く紫煙を吐きながら、すぐ傍らで怒りに目をきらきらさせた悟空を見る。
「今日の敵は、爪や剣を派手に振りかざして来やがった。横薙ぎの剣で攪乱して、とどめに急に伸びる爪で突いて来た。その間合いの内側に入って行っただけだ」
悟空に口を挟ませないように続ける。
「ヒトをびびらせることに慣れ過ぎて、ヤツ等、自分がびびらされるともろかった。深い傷は受けてない。俺の闘い方に口を出させない」
「だって三蔵!だって…!」
自分の思いを上手く言葉に乗せられないことに、悟空は苛立つ。傷付いたように、金瞳が揺らいだ。
「…俺、三蔵が怪我するの、厭なんだ…」
力無く拳を握った腕を降ろし、俯く。
『…ガキ』
八戒と悟浄は、三蔵の唇が声を出さずに動くのを見た。
立ち尽くす悟空の方へまっすぐに手が上がり、明るい焦げ茶色の頭へ向かう。
悟空は俯いたまま眼を閉じているのか、気付かない。
三蔵の掌が、悟空の髪に触れる寸前、宙に留まる。
「…この、馬鹿ザルが ッ!ヤダヤダ、ヤダヤダって餓鬼の駄々みてぇに繰り返しやがって、煩ェんだよッ!!」
「痛え っ!」
三蔵の座っていた椅子が蹴倒され、悟空の頭を鷲掴むと、一気に床に押し付ける。
「ノーミソの隙間に八戒の心配性が伝染ったか!?心配性ザルか!そのうち河童のエロも伝染るんじゃねーか!?ああ!?」
「そんなもん、死んだって伝染るもんかっ!三蔵っ、痛えっ!!」
「馬鹿もエロも散々なんだよ!心配性のヤツもひとりいりゃ充分なんだよ!」
巻きかけの包帯が解けるのも気にせず、三蔵は悟空を床に押し付け続ける。無傷で戦闘を終えた悟空の顎に、擦り傷が出来る。
「…なあんか、酷えこと言われてるみたいなんですけど」
「だから塞いだ傷口をすぐに開くのはやめてくださいと、あれ程言っているのに…」
鼻白む悟浄と、笑顔の深くなる八戒。
「…お前、かなり露骨に怒ってるだろ」
「丁寧に消毒し直して、きっちり包帯巻いてあげようとは思ってますけど」
「痛い目見ないと判んねえみてーだし?」
「痛い目見ても判らないお口も、ここにあることだし?」
とばっちりを恐れて悟浄は部屋のドアへ向かった。悟空も三蔵の掌の下から這々の体で抜け出す。
「俺はっ、何度でも繰り返して言ってやるんだからなっ!怪我したら承知しねえんだからなっ!!」
「しつけえッ」
三蔵の投げ付けるライターを避けた悟空は一目散にドアを走り抜け、苦笑する悟浄がその後に続いた。
騒動の間に三蔵の髪は随分乾いて来たようだった。
顔のすぐ下にある頭に向かって、八戒は諭すように優しい声を続ける。
「悟空の繰り返して言うのは、誰かさんが何度言っても聞いてくれない所為だと思いますね」
「何故オレが馬鹿ザルの言うことを聞き容れなきゃならん」
「『何故』?理由を言ってあげてもいいですけど、それも聞き容れる気はないんでしょう?」
八戒は血の滲むガーゼを外そうと、テープを丁寧に剥がす。
「…ぐりぐり血を拭き取って消毒されるのと、気孔で優しく血管塞がれるのと、どっちがいいですか?」
「どっちにしても、その間説教付きなんだろーが。どっちでも変わらん」
「…可愛くないことをおっしゃいますね。それじゃ特別お小言無しコースにしてあげますよ」
「あ?」
八戒は三蔵の腕を持ち上げると、傷口に唇を押し当て、舌でなぞった。
「…痛ゥ!!」
傷の端から端までを、余さず舌でなぞり血を拭き取る。傷口を何度も往復し、新たに滲む血液を、全て舐め取るように接吻ける。
「はっか…!」
一瞬に付けられる傷は、痛みも一瞬で終わる。それならば三蔵は無表情にやり過ごす自信があった。
だが延々傷口に触れ続けられる痛みに、三蔵の表情が歪む。八戒の目の前で苦痛を表情に表す気がせず、三蔵は俯き気味に顔を背けた。
が、噛み締めた口元から、やがて安堵の吐息が漏れる。
「…掌からだけじゃなくて、息吹を吹き込む気孔もあるんです」
完全に傷の塞がった三蔵の二の腕を、八戒は解放した。
「そういうことは先に言え」
「言ったら面白く無いじゃないですか。もう片方の腕も出して下さい」
「もういい」
「…服に隠れるところはいいですから。悟空の目に触れる傷だけ」
チッ、という舌打ちの音が響き、顔を背けたままで腕が差し出された。
また傷口をゆっくりとなぞる舌の感触に、三蔵は諦めながら顔をしかめる。
八戒の舌の熱さと、自分の細胞が活性化する熱。自分の腕を支える八戒の掌からも、気孔の暖かみのある波動が感じられる。
しかし、それ以外にも、先程から自分の調子を狂わせる暖かみがあるのを、三蔵は感じていた。
違和感、と言った方がいいかもしれない。
三蔵はその違和感のもとを辿ろうとした。
暖かく、落ち着かない。
どこか面映ゆい…
「はい。これで両腕完治。傷ひと筋も残ってませんよ」
腕から離れた掌が、
ぽん。
と、髪を優しく撫でた。
『お師匠様』
声を出さない唇が、動きかけて途中で止まる。
急に振り向いた三蔵の目に、驚いた表情の八戒が映る。
「…先刻、悟空にコレをしようとしたんじゃないんですか?」
見上げる八戒の、困惑の色を帯びた驚きの表情。
優しい瞳で、苦笑う。
ぽん。
と、頭を軽く撫でられた。
ちっ。
すっかり癖になった舌打ちの後、三蔵はゆっくり目を閉じた。
八戒は、腕の中の人が躯の力を抜いたことを感じ、抱き締める力を少し緩めた。
腕を緩めながら、きつく額を三蔵の頬に押し当てた。