海と楽園と 




 広々とした海だった。
 100メートル程離れた所には江ノ島が見える。海の上にぽっこりと盛り上がる江ノ島は、てっぺんの鉄塔がなんだか遊園地のようだ。

「あそこ、登ったことありますか?」
「相当ガキの頃、登ったかな?エスカーじゃなくて徒歩で階段登った記憶がある」
「結構な坂道でしたよね、鉄塔に着くまでが。アレ子供の足だったから遠くに感じたんだでしょうかね」
「さあな。それよか、本当にいるのか?ここに」

 三蔵はボードの上にぐったりと腹這いになる。

「波がないからイケル、なんて、オマエの口車に乗ったオレが馬鹿だったか」
「本当にいるんですって!野生のイルカ!」

 僕たちは東浜から南に向かって、江ノ島の向こう側までボードを漕いで来たのだ。徒歩なら橋を渡ってぐるりと磯を回るか、船で渡るか、弁財天から更に下って岩屋の洞窟の出口まで歩き通しになるか…だけど、そっちの方が断然楽だった。

「でも礒や洞窟の展望台からじゃ遠いって言ったのはあなたですからね。歩くのもかったるいとか言ってたし」
「100メートルも離れたら望遠鏡で見なきゃ判らんだろうが」
「じゃ、もうちょっと文句を言わずに待っててください」

 今、江ノ島には野生のイルカが住み着いている。親子で泳いでいる姿が殆どいつでも見られる、と僕が浜の漁師さんから聞いたのは結構前のことだった。ジェットスキーで見物に来る奴も多くて、イルカに当てそうで見てられない、なんて言ってた。本当は最初は三頭迷い込んでいたのが、そのうちの一頭はボートとの事故で既に死んでしまったそうだ。残りの二頭は、それ以来、この江ノ島に住み着いている…。

「早まったか。これじゃ波待ってるのと同じじゃねェか」
「今日はもう波来ないから諦めてくださいね。大人しくイルカちゃんが出てくるのを待ちましょう」

 僕たちは腕で躯を支えてボードの上で躯をそらす。誰か友人が言っていたっけ?
「あなた達、そうやって波を待ってる姿、海鳥の群みたいよ」
 僕たちはいつでもそうやって遠くを見ている。てんでんばらばらの、見知らぬ人達が、同じ様に波が来るのを待っている。

「…煙草、吸いてェ」
「諦めが悪いですねえ、この口は」

 きらきら光る水面に、三蔵は黒いウェットスーツで浮かんでいる。濡れたウェットスーツの曲線は光を反射して、彼自身がイルカのようにも見える。

「あの鉄塔から、オレ達どう見えるんだろうな。よっぽどのヒマ人と思われるんだろうな」
「まあ、そうでしょうねえ。ここまでボード漕いでくるのって、やっぱりヒマ人なんでしょうねえ」

 島からは僕たちは太陽から逆行になっているから、黒い小さなシルエットに見えるんだろう。黒くて小さな海鳥に見えるんだろう。
 水平線がギザギザしてる。遠くの方は波が高いのかな。今日は寒いし、あんまり来ないようだったら諦めないといけないかな。「イルカがいるんだそうだ」という話をした時の三蔵の目があんまり嬉しそうだったから、結構強引にここまで来てしまったけど。海水はまだそんなに冷たくは無いけれど、一旦濡れた部分が、空中であっという間に冷え込んでゆく。「煙草吸いたい」とは言っても、「寒い」と三蔵が言い出さないっていうのは、本当に寒くて辛くなってきているのかも知れない。

「諦めますか」
「…折角来たからには、もうちょっと待とうぜ」

 意地っ張りだなあ。なんて思っていたら、水面に急に波が動いたような気がした。
 僕たちの視線は一斉にそこに集中する。

「…おい」

 言いかける三蔵のすぐ目の前に、急に丸くてつやつやした背中が現れた。続いてもう一回。
 しゅうっと現れて、消える。

「…本当にイルカだ…」

 呆然とつぶやく彼の前に、今度は頭が出て来る。目が合ったような気がする。
 親子のイルカが、光に溢れる水面に交互に顔を出す。

「八戒、八戒!八戒!イルカだ」

 イルカを驚かさない様に低く、でも喜びに飛び跳ねそうな声で彼が僕の名前を呼ぶ。

「八戒!イルカが遊んでる」
「…ええ。楽しそうに遊んでいますね」

 きらきら、きらきらと陽光が反射する。広い海の中、イルカと、イルカに喜ぶ三蔵の姿は、とてもきれいだった。
 イルカは水面ぎりぎりを、楽しげに追いかけっこをして遊んでいた。ぐるぐると回っていた。僕たちは、何も言わずに海中に潜る。ごぼりと沈む躯の傍を、かすめそうになりながらイルカが通り過ぎて行った。

「八戒!」

 顔を出した三蔵が、子供のように叫ぶ。

「今、見たか!?」

 三蔵は嬉しそうにまた潜る。三蔵の方がイルカみたいだ。僕も嬉しくなって三蔵に続く。
 イルカはぐるりと円を描くように泳いでいた。追い掛け合ったり、下に潜ったり。くるり、くるり。優美な曲線の彼らは、泳ぎ方も優美だった。
 水に潜ったまま、三蔵は笑った。ごぼり。泡さえも彼の髪にまとわりつき彼を飾る。きれいな真珠に飾られた様な姿のまま、三蔵は嬉しそうに、嬉しそうに笑う。
 僕はそんな彼に手を伸ばす。笑顔のままの彼に手を伸ばす。青く光る海の中で、彼も青い光に染まる。
 彼が優しい目をしたので、僕はキスを我慢できなくなる。
 青い世界の中で、僕たちはとても幸せなキスをする。海に押し上げられて、躯が浮き上がりそうな気分。また彼が笑う。

「八戒!」

 水中で僕の名を呼ぶ。

 イルカは急に深く潜った。僕たちは慌ててそちらを目で追う。またぐるりと曲線を描いて泳ぐ彼ら。スピードを上げる。
 ごぼり
 彼らはジャンプした。
 僕たちの潜る海の、水面上にジャンプした。眩しい水の天井の上に、水滴の輝きと、彼らの影が映る。あんまりきれいで、僕たちは動けなくなる。
 繊細で儚いような、彼らの声がした。彼らの声が、届いてきた。
 イルカ同士の会話なんだろうなあ。
 でも、もしかしたら僕たちに挨拶でもしてくれているのかもしれない。

「きれいだな」
 三蔵は、まだ呆然と海の彼方を見ている。
 澄んだ空気の中、髪の張り付いた顔を上げている。僕たちの周り中、波が光を照り返している。光が溢れている。なんだかとても自由な気がした。広くて、誰もいなくて。目の前にはあなただけがいる。
 とても幸福な気分だ。

 くしゅん、と三蔵がくしゃみをした。

「寒さがきつくなって来ましたね」

 そろそろこの海から帰らねばならないのか。たった今までの気楽なうっとりした気分が、急にしぼんでしまうのが判る。
 たった今まで、好きなだけキス出来たのに。あれだけ笑ったり喜んだりしたのに。
 目を合わせると三蔵も同じように感じているのが判る。
 まあ、いっか。またあなたとここへ来たい。また自由な世界に来よう。

「さあ、またボード漕いで帰りますよ」
「どっかのボートか船、拾っていってくれねェかな」

 また僕たちは、自分達の世界に戻る。体力の全てを振り切って、浮力のない世界に戻る。でもきっと、この気楽な楽園を夢見るだろう。誰の目も、誰の言葉も届かない、この世界を。
 あなただけがいる世界を。
 そしてまた、戻って来よう。あなたと。


 振り向くと、イルカが一際高くジャンプする姿が見えた。















 終 








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■□ AOTGAKI □■
単なるボーイズラブもの?なんて自分で突っ込んでみたりして
単なる光景です、実際に今日の昼間見た
釣り場で凍えてたら見えた、とてもきれいな光景
その場で膨らむ妄想…だめじゃん
サーフィンはしたことがナイのでボードとかの記述ないです、ごめんね
でもイルカちゃんは本当にきれいなの
今日見たボードで来てた子達も、きっと楽しかったんだと思う
でもよく手で漕いで来たなあ…とも、思うんですけど



これを書いた翌年の2001年夏には、イルカちゃん達、茅ヶ崎へ移動してしまいました。
江ノ島沖はやはり餌の魚が少なかったのか…普段イワシサイズの魚を食べるイルカちゃんが、
餌の少ない冬場には4〜50センチのクロダイに歯形残していたりでしたから。
茅ヶ崎の海は餌が豊富だといいなあ。
20010828