ぬれつつも 
   『 ぬれつつも しひて折りつる  年の内に 春は幾日も あらじと思へば 』

業平朝臣

       
   《 雨に濡れてしまいましたが、無理にこの藤の花を手折ってしまいましたよ。
     もう今年の春も終わってしまいますから。 》




  
 髪からぽたぽたと水を垂らしたままで、自慢げに藤の花枝を差し出すオレに、光明三蔵は可笑しそうにこの歌を教えてくれたのだ。
 藤の花を受け取りすぐさま花生けに挿し、玄関正面の一番目立つところに飾ろうと、嬉しげに教えてくれたのだ。オレの髪を拭きながら。

「女ったらしで有名な貴族が送った歌だそうですよ。
 確かに、この歌と一緒に藤を受け取った女性は喜んだでしょうね。
 まだ雨の露の残る藤の花。
 きれいで、匂い立つようです。
 ましてや、自分の為に美丈夫がずぶ濡れになってくれてるなんてね。
 終わり行く春を、共に過ごしたくもなるでしょうね」

 オレの顔を覗き込んで、楽しげに笑う…。

「江流、あなたは色男になる素質が有るようですね。
 でもこれは、いつか特別な人にやってあげなさい…」

 そう言うとまた笑い出す。まだ幼かったオレの前で、本当に可笑しそうに、いつ迄も笑いを止めることがなかった。





 雨宿りする軒先から飛び出した八戒が、樹の上の方に残る石榴の実を折り取った。
 それはそれは大きな、綺麗な赤い石榴で、亀裂から見える中身がつやつやと輝いていた。
 ぱきん
 枝を折った反動で、一斉に水滴が落ちる。

「うわっ」

 悪戯そうな笑顔のままで、オレに走り寄る。

「美味しそうですよ。三蔵、果物はお好きでしょう?」

 ぽたぽたと、滴が落ちてくる。八戒の髪から。
 光明三蔵に教わった歌を思い出す。
 …色男、ね。確かに。
 自分の為に、ずぶ濡れになって果実を採って来てくれた目の前の男を、まじまじと眺める。

「石榴、嫌いでしたか?」
「いや。美味そうだ。半分でいい」

 途端に自慢気な笑顔になる。

「濡れた甲斐がありました」

 素直過ぎるぞ。おい。少しひねれ。
 石榴の亀裂に力を入れると、固い果皮が割れた。中から現れた透明な紅。八戒の手をも伝う。

「はい。半分こ」

 手渡されたそれに、オレも素直にかぶりつく。
 かりり。
 囓りながら、ちょっとだけ八戒の顔を覗く。

「…どうしました?
 渋いですか?
 酸っぱかったですか?」

 慌てて自分もかぶりつく八戒。
 かりり。
 オレは口に含んだ種を、その辺に飛ばす。コドモの頃にやったみたいに。

「甘い」
「良かったです。
 熟してなかったのかと思いました」
「熟してるさ」

 ふたり並んで、石榴の実を囓っては、種を飛ばす。
 かりり。
 かりり。
 ふたり揃って、石榴の紅に口元を染める。




「熟してるさ」

 オレは八戒の肩に手を置き、自分の方に少し屈めさせた。
 ふたりで目を閉じる。





「熟してるさ」





 互いの、石榴の、唇
 八戒の髪の滴が、オレの顔に落ちた












 過ぎる時間を、共に過ごそう



























 終 







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  ◆ アトガキ ◆

『定家八代抄』より業平さん(古今)でした
石榴って綺麗で、買ったものより、その辺のを取って食べるのが大好き