星のえる夜






 ぺたぺたと足音をさせて、三蔵は浴室から出た。
 冷たい木の床が、まだ熱い足の裏に気持ちよかった。
 ふと目を遣ると、つけっぱなしの暖房が視界に入る。
 自分でつけた覚えはないから、恐らくお節介な同室者が余計なお世話をして行ったのだと、三蔵は思った。

「湯冷めしちゃいますよ、とか。ガキじゃねえんだ」

『髪をちゃんと乾かさないと風邪引きますよ』
 続けて言い出されそうなことも思い浮かべ、まだ自分の髪から雫が落ちていることに気付く。 

 ぽた、ぽたり。

 床に落ち、肩を濡らし。
「余計なお世話だ」
 むきになって、タオルを頭に被せ、手荒に掌で擦り付ける。

『そんなに強く擦ったら、髪が痛んじゃいますよ』

 その場にいない人間の声がまた聞こえたような気がして、三蔵はため息をついた。


 タオルを被ったまま、ベッドにどさりと腰を降ろした。
 木賃宿の安ベッドなりのスプリングの揺れが収まると、どことなく躯から力が抜けて、妙に安らいだ気分で天井を見上げる。
 食事を済ませ、熱い湯を浴び、暖かな部屋。
 煙草に手を伸ばし、深く一服。
 煙草一本を灰にした頃には、足下がゆっくりと冷え込んで、喫煙は毛細血管を収縮させるんだっけと、誰かに言われた言葉をまた思い出す。

「……いや、これは八戒に言われたんじゃなく、どこかで読んだんだ」

 我ながら言い訳がましい独り言だと、三蔵は顰め面を作った。




 静かだった。
 遠い話し声や物音は、静寂を強調する役目しか果たさない。
 自分の身じろぎに軋むスプリングや、微かな衣擦れ程度しか音のない部屋は、ただただ静けさを三蔵に感じさせるだけだった。
 髪の先に丸く光っていた雫も、もうタオルに吸い込まれ、ただひんやりと首筋に触れてくるだけだった。
 温められた部屋に、カーテンの隙間から、窓が冷気を運び込む。
 冷え始めた足でまたぺたぺたと、窓辺にゆっくりと近付いた。
 厚手のカーテンの端を手の甲で避けると、びっしりと水滴に覆われたガラス。
 
 夜の外気は冷え込んで、暖かな部屋に侵入しようと細かな露をつるつると、
 ガラスにナミダのアトを残し、またそこに露を張り付け、
 見る者の指先に冷たい感触を思い出させる。

 三蔵が人差し指の先端を押し付けると、つ、と、大粒の雫が落ちて、黒々とした夜の風景が線になって現れた。
 細くしか見えない景色に、物足りなくなって掌を押し付け、結露を拭う。
 
 黒い夜空、黒い景色。
 冷たい空気。
 窓の外の静かな世界。

 そこに動く、見慣れた人影。 




「……あのバカ、あんな所で何してやがる」

 宿の子供が、小さな望遠鏡を覗いていた。
 その傍らで八戒が、しゃがみ込んで星を指さす。
 星の名を教えているのか、星にまつわるお伽噺を聞かせているのか。
 八戒の反対側、子供を挟んでもうひとり、天を見上げて立つ悟空。

 子供と、子供と一緒になって楽しむ悟空と、保護者兼教師役が板に付いた八戒。
 既視感に溢れた光景だった。
 寸前に交わされた会話まで、想像出来そうな。
 長閑な。
 穏やかな。
 暖かな。

 窓の外で見上げる角度に倣い、三蔵は夜空を見上げた。
 星が空一面に散らばっていた。
 真っ黒な空、闇に慣れた目に明るく星が、落ちて来そうな程に散りばめられているのが映る。
 
 八戒の指が、また天を指した。










 青白く燃える星を、ああ、今同じ星を、観ている。










 拭った筈の窓ガラスが、新たな曇りに覆われかけていた。
 ぐっしょりと濡れてしまった掌も裸足の指先も、すっかり冷たくなっていた。
 気付くとガラスには前髪の触れた跡がはっきり残り、三蔵は急に、覗き込んでいた自分に気恥ずかしさを感じた。

『折角部屋を暖めておいたのに、どうしてこんなに冷えちゃってるんです?
 だから湯冷めしないようにと』
『髪、ちゃんと拭きました?』

 自分の方が冷え切っているだろう時にも、そんなことを言い出しそうな。
 寄りに依って、こんなにも冷え込む夜に天体観測をするような物好きのクセして。
 凍るような空、青白い星を延々見上げ続けるような。

 肩にかかっていたタオルを、三蔵は窓ガラスに擦り付けた。
 前髪の跡も掌の跡も、ぐいぐいと拭って消し去った。
 水を吸って重たくなったタオルを浴室に放り込み、三蔵は自分のベッドに潜り込んだ。
 如何な世話焼きでも、寝ている人間にまで小言を言うことはないだろう。
 毛布を捲り上げ、潜り込むその前に。
 暖房の設定を高い温度に切り替えた。

 夜の空気に凍え切った同室者が、直に戻って来るだろう。
 口煩い世話焼きに見つかる前に、今夜はもう。
 
 毛布にくるまる三蔵の、目蓋の裏にまだ、青白い星。










 終 




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◆ note ◆
「八戒。振り向いちゃダメだけど。窓から三蔵が覗いてる」
「…ホントですか?」
「ホント、ホント」
 なんて、バレてそうです
 悟空がまず気付いて、八戒は本当は振り向いて「一緒に観ませんか?」って
 言いたいんだけど、お風呂上がりの人を呼んだら風邪ひかせちゃうって
 我慢するの
 本当は毛布でグルグル巻にして抱き抱えてでも一緒に星観たいんだけど、
 でもってその後「また暖まりましょうね」って一緒にお風呂…

 妄想ってどうして止まらないんだろー…