■■■  山桜 

 ぼんやりと見上げる桜。
 山桜。
 若葉みどりに、白、薄紅。
 風に散る散る、散り敷く桜。
 踏みしだかれて、何時か還らむ。



 手書きの地図を手に、山道を歩き通して来た八戒は、暫し足を止めた。
 尋ね人 ―――― 粗末な庵の傍らに、桜舞う中で茫と佇む金糸と白の法衣の主 ―――― の姿が、柔らかな木漏れ日に照らされ、酷く無防備に見えたのだ。
「そこにいるのは誰だ」
 姿を見られるよりも早く気配を察知され、八戒は苦笑した。
 法衣の袖で腕組みながら、眉根を寄せて睨みつける。
 油断している最中に現れた人物に、三蔵が喜ぶ顔を見せる筈が無い。
 長安の寺院を訪れたら、三蔵様は只今長期の留守中ですのでそちらへどうぞ、ついでに溜まった書類を預けても構いませんか?と、使い走りにされたのだ。
 ここで追い返されたりしたら、遠路はるばる追い掛けて来た甲斐がない。
 八戒は諦めたように笑い、木陰から歩みだした。


 散る桜、散る桜。
 散り敷かれる。
「きれいですね」
「掃いても掃いても翌日には元通り。鬱陶しいだけだ」
 三蔵は庵に立てかけた竹箒に視線をやった。
 竹箒で庭を掃き清める三蔵の姿を想像した八戒が、一瞬目を大きく見瞠く。
「八戒、貴様、やって行け」
「一晩泊めてくださるなら、恩義を返して帰りますが」
 酒瓶その他の重たげな包みを下げた手を、八戒は見せびらかすようにして挙げた。
 半分以上釣られる素振りを見せておいてから、三蔵は眉を顰めた。
「酒で釣る気か?」
「頂き物の美味しいお酒と、麓の村でお預かりした差し入れの食べ物、お寺からお預かりした書類一式。それと一番大事な ―――― 」
 包みの内から、八戒は封筒を出した。
「悟空からの手紙」
 三蔵は、封筒を凝視した。
 八戒の眼には、三蔵の表情がスローモーションで移り変わったように見えた。
 スローモーションのようだと思いながらも同時に、短時間に多彩な表情が移り変わった為に、それが目まぐるしく変化したように見えたのだと理解した。

 喜 怒 哀 楽。
 
 人の表す感情の起伏を、一瞬のうちに八戒は見た。
 だから。
 伸ばされた手から、すいと避けるように手紙を隠した。
「まずは、庵に上げて下さいませんか?」



 小さな庵の一室へ上げられた八戒は、漸く三蔵に手紙を渡した。
 三蔵は黙って受け取り、封を開けかけてから、八戒に向かってその辺へ座れと、顎をしゃくって見せた。
 八戒は苦笑しただけで、適当な場所に陣取り、黙って庵の外の光景を眺め続けた。

 山中の小さな村落の外れ。
 深い緑に囲まれて、鹿や猿の鳴き声が遠く聴こえるような静けさ。
 三蔵が手紙を捲る、乾いた紙の音まで明瞭りと八戒の耳に届いた。
 はらり。
 落葉の音にも似ていると八戒は思い、三蔵の顔を覗き見た。
 無表情に手紙に目を落としているとも見える、三蔵の、機嫌が悪くないことを八戒は見て取った。
 悟空の字は、上手くはないが真っ直ぐでよい文字だと、八戒は思う。
 素朴な文字で訥々と日々の出来事をしたためてある手紙を、読み終わった瞬間、三蔵の目元がふと、緩んだ。

「相変わらずバカだな」
「元気にやってるって、健気な手紙だったでしょう?苦労しながら書いてましたよ」
「バカだ、バカ」
「淋しいから早く帰って来て下さい、って、書いちゃえって言ったんですけどね。それは絶対書かないんですって。でも行間から気持ちが滲んでるでしょう?」
「フン。今日は何食った、今度は何食いたいとしか、書いてねえよ」
「嘘ばっかり」

 無造作な手付きで便せんを畳み、三蔵は鼻で笑って見せた。
 薄くせせら笑いながら、文箱にそっと大事に仕舞い込む。
「……嘘ばっかり」
 八戒の小さな呆れ声も、三蔵は聞かぬ振りをする。



 月が高く昇った。
 八戒が近くの村人から預かって来た握り飯や質素な惣菜で食事を終え、手土産の一升瓶を、月を肴に傾ける。
 桜がぼんやり、月を映して青白い輝きを放っていた。

「三蔵が長い間長安を空けるなんて、滅多にないことですね。悟空が淋しそうでしたよ。連れて来てあげればいいのに」
「アイツがいても、騒々しい上に足手まといになるだけだ」
「足手まといって。ここには怪物封じに来てると長安で伺いましたよ。妖怪や化け物相手なら、悟空は役立つのでは?」
「 ―――― ここは、駄目だ」
「?」
 八戒が問いかけるように三蔵を見た。

「もう何年も前に、俺はひとりでここに来た。この先には峻険な岩山がある。その頂上に五百年封印されていた化け物を、俺は解放した」
 月を見上げる三蔵の横顔に、月影が映る。
「岩山の麓村には、山の頂上には凶悪な『悪神』が封じられているという伝説があった。稀に、山奥まで入り込み、風の音に交じる悲しげな泣き声を聞く村人もいた。村では『悪神』は、子供の姿をしていると信じられるようになった。俺はここを訪れ、封印された『悪神』を解き放ち連れ去った」
 八戒は、口を開きかけ、閉じた。
「ここには子供の姿をした影が現れるようになった。冬は雪に閉じ込められた家の中まで、外を徘徊する子供の慟哭が聞こえる。満開の桜の散る中を彷徨い歩く、小さな影を見る者も多い。が、何の悪さをする訳でもない。村人は憐れんで、子供を慰めてやってくれと俺に頼みに来た」
 三蔵が向き直り、手酌で酒を酌んだ。
「五百年の間封印されていた、悟空の残した、影だ」
 八戒も酒を酌み、杯を空けた。
「飼い主としては、アフターケアはやむを得ねえな」




 庵の傍らに、村人の作った石の祠があった。
 彷徨い歩く子供を慰めようとしたのか、餅や菓子が供えてあった。
 石を積み重ねただけの粗末な祠に、桜の花びらが貼り付いているのが、沈みかけの月明かりに浮かんだ。
 一面に散り敷かれた桜の中に、ぽつんと苔生した石の祠。
 八戒の見る前で、そのざらざらとした表面に、三蔵はそっと掌を当てた。
「……しょうがねえから、また来てやるよ」
 三蔵が言う端から、どこかから風に乗って、桜の花びらが祠に降った。 

 祠の周囲には、桜の花びらが積もっていた。。
 かろく重なる桜を押しのけ、ほっそりとした草が萌え出していた。
 小さな花も咲いていた。
 沈む月に変わり、近付く夜明けに空が明るみを帯びて来た。
 遠く、鳥の啼き声が聞こえる。
 祠の前にしゃがみ込む三蔵の足下で、踏みしだかれた花びらが、しっとりと土に押し付けられているのが、八戒の眼に映った。
 土の色を滲み透かせる花びらを見て、やがて大地に還るのだろうと、八戒は思った。
 祠の回りに萌え出す緑を、還った土が柔らかく育むのだろう。
 朝日を喜ぶ小鳥の歌声が響き始めた。
 ひと気が去っても、飛び回る小鳥たちが周囲を賑やかにするだろう。
 八戒はそう思いながら、祠の肌に手を触れる三蔵の後ろ姿を見つめ続けた。








『また傍に来てやるから、もう、淋しがるな』
 小さな祠が、桜の中に埋もれて行くのを、ふたり見守った。














「え?」
 庵に戻った途端に、三蔵が荷物をかき集め出したのを見て、八戒は意外そうな声を上げた。
「もういいんですか?」
「アレには充分つきあってやった。俺はそんなに暇じゃねえ」
「忙しいからといって、あなたが喜んで長安に戻って煩わしい職務に就きたがるとは、思ってもみなかったもので……」
 頭に手をやりつつ、三蔵の荷造りを面白そうに眺める八戒を、三蔵が睨み付けた。。
「書類をこんな所まで届けに来やがったのは、てめェだろうが!仕事がおっかけて来るんじゃ、長安を離れる意味がねえ!」
「……やっぱり村人に乞われてここに来ただけじゃ、なかったんですねえ……」
「八戒!嫌味なら大声で言え!ぼそぼそ可聴域ぎりぎりで呟いて、聞かせるんじゃねえよ!」
 三蔵の怒鳴り声に驚いたか、小鳥の囀りが絶える。
 八戒が昨夜解いたばかりの書類の包みを、三蔵は縛ってまとめ直した。
 書類を無造作に包み、少ない替えの衣服を仕舞い、最後に文箱の中から悟空の手紙を取り出す。

 大事に大事に、包みの一番上に置き、思い返したように書類の下に手荒く突っ込む。 

 思わず洩れた八戒の苦笑を、三蔵は気付かぬ振りをした。

「ホント、嘘つきなんですから。ねえ、もしかして、悟空の手紙読んで、里心が付いちゃったんですか?それで長安に戻りたくなったんですか?悟空の顔見に?」
「それ以上口を利けないように、殺してやろうか?」
「まさか図星なんですか?」

 銃を向けてくる三蔵に、八戒は笑いながら、両腕を上げる降参ポーズをして見せた。
 もう黙ります。
 そう言いながら。
 髪から透ける三蔵の耳朶が、薄らと染まるのを見る。

 三蔵を慕う悟空の気持ちも、養い子に抱く三蔵の気持ちも、恋情とはほど遠いものであると、八戒は思っている。
 思いながら、ふたりの絆が強いものであると思い知る度、八戒は笑った。
『敵わないなあ』
 微かな痛みを感じながら、お手上げだと苦笑した。

 それでも。

「……ああ。桜もじきに終わるな」
 先に庵の外に出た三蔵が、頭上を見上げた。
 ひと重の桜は一夜の風にすっかりと散り、青葉の色が鮮やかだった。
 掃き清めぬままの、桜の絨毯の中、若葉の緑に三蔵は見入っていた。
「また来年、ここに来ましょうか?」
「そうだな」
 無防備に向けられていた背中が、不意に気付いて、慌てて振り返る。
「てめェと来ると約束した訳じゃねえぞ!」
 先程までよりも、余程紅く染まった耳朶が、頬が、八戒の目に入る。

「判ってますよ」
 三蔵を追って庵の外へ出た八戒の笑顔を、朝日が照らした。
 新緑の鮮やかさを映し込んだ八戒の瞳に、三蔵が目を留めた ――――


 
 散り敷かれた桜の真っ只中に立ち尽くす姿を。
 無防備にあぎとを上向け、一心に桜を見つめる姿を、八戒は目に焼き付けた。
 振り向いた時の、眩しげに眇めた瞳を、焼き付けた。
 焼き付けたものを心の奥に大事に抱え、




 桜の絨毯に、一歩踏み出した。










 終 




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◆ note ◆
桜の絨毯を押しのけ萌え出す緑を見ました。
朽ちかけの花びらが、それ以来汚らしいものには見えなくなりました。

桜の季節が終わってからの、桜ネタでございました。