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約束
この気持ちに、名前なんてつけることは出来ないから。
耳元に、何度も何度も注ぎ込まれる、甘い言葉。
『アイシテマス、アナタヲ』
この世の只ひとりを、甘く搦めとる為に囁かれる言葉。
繰り返し、繰り返し。
脳裏に、躯に染み通る、甘い毒。
寝台に縫い止められた三蔵の、耳元で心地よい声がまた言った。
「三蔵、愛してます」
熱に浮かされた躯とこころがその言葉を受け止め、頷き掛けて、止まった。
三蔵は、自分の心の抱くものが、『アイ』なのかが判らない。
自分を抱き締め、熱い楔を打ち込むことを、唯一許したこの男を、『アイシテ』いるのか。
自分の抱く執着は、果たして『アイ』なのか。
言葉を返せず、三蔵は八戒の首に掛けた腕に力を籠めた。
ねだるように薄く開いた唇は、すぐに別の唇に覆われる。
愛を口にする度に、接吻けをせがむ三蔵に、八戒は気付いているのだろう。
愛の言葉を返さぬ三蔵に、とっくに気付いているのだろう。
それでも、八戒は囁き続ける。
「三蔵。あなたが……好きです」
抱き合った熱を冷まそうと、三蔵はするりと寝台を抜けた。
床に落としたままのジーンズに脚を通し、窓を開け放ち夜風に膚をなぶらせた。
快楽の残滓が、皮膚の上で蒸発して行く。
うわごとに紛れて唇に乗せることの出来ない言葉が、ただわだかまって残っていた。
「俺は言葉をやれない」
傍らにやって来て、水を差し出す男に向かって三蔵は言った。
「俺は誓いの言葉をやれない」
グラスを受け取りながら。
「アイシテルのかどうかなんて、判らない。明日を約束してもやれない。ただ、今この時間をやれるだけだ。俺の『今』を、お前にやるだけだ」
グラスを受け取る指が、酷く冷えていた。
八戒は、三蔵の指ごとグラスを、掌で包み込んだ。
「俺の『今』を全部やるから」
言葉にならぬ思いを、口移しに伝えた。
離れるな。
離れるな。
今生の全てを、この瞬間に詰め込むから。
過去も現在も、全て。
欲しいなら全て。
この、自分の全てを差し出す気持ちを、なんと名づけるのかは知らない。
全てを欲しがるこの欲求を、なんと名づけるのかを知らない。
揺れた掌から水が零れ、滴った。
指を濡らし、腕を伝って落ちた。
「何時迄も、傍にいます」
離さない。
離れない。
傍らに在り続ける。
「何時迄も」
「俺は……明日の約束はしてやれない。未来の確約なんざ、誰にも持てねえ」
「死んだって離れませんから。もうイヤだって言われたって、離しやしませんから」
急におどけた口調になった八戒が、グラスを三蔵の口元まで運んだ。
ぽたぽたと腕を伝って滴る水の感触が、微かな記憶に触れ掛かった。
ずっと以前に、熱い何かがこうやって腕を伝ったかもしれない。
鉄錆の匂いのする赤い色を滴らせながら、約束を交わしたことがあったかもしれない。
遠い時間に、また出逢うことを。
何度でも。
「僕、一度思い込むとしつこいですから。だからずっと離れませんよ」
三蔵はグラスに口をつけた。
グラスは微かに震えていた。
震えていたのが三蔵の指だったのか、八戒の指だったのか、はっきりしなかった。
口に含んだ水が、喉を通り過ぎて行った。
潤って漸く、自分の喉が渇いていたことに、三蔵は気付いた。
「俺には、未来の約束なんざ出来ない」
「それでも。……とっくに、魂ごと搦めとられちゃってますから」
諦めてください。
おどけた口調で、微笑みながら。
「冗談じゃねェ。俺の所為にする気か?」
呆れて、嫌そうに眉を顰めながら。
ふたりの指は、グラスをきつく握り締めていた。
過去も現在も、全て。
時間全ては、繋がっているから。
『今』想う気持ちは、永遠に繋がり続けるから。
「 」
汗はすっかり乾いてしまっていた。
体表に留まるのは、快楽の残り香ではなく、返せぬままの想いだけ。
言葉に出来ぬそれを、また唇に託して。
何度でも、巡り逢うから。
何度でも、巡り逢うから。
◆ fin ◆
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