■■■  たゆとう - a water lily - 




 叩きつけられる雪から逃れて風除室に飛び込むと、寒さから解放されて、強張った体が弛緩するのが分かった。
 薄暗い淀んだ空気に、しかし却ってココロは和む。
 急に暖かい場所に移動したことで、右目を覆うモノクルが白く曇った。
 曇っても別に視界が遮られるわけでもないそれを外し、なんとはなしにコートのポケットに仕舞い込む。
 少しばかり黴臭い、長い年月の残滓が澱のようにたまっているこの空間は。
 かつて通った大学と、同じ匂いがした。

 
 強風に吹き千切られながら、微かな鐘の音が建物の中まで入り込んで来る。
 チャペルの鐘塔から生み出されたそれは、耳から入って脳に留まり、僕を掻き乱した。
 その振幅に、ココロとカラダが震える。
 揺さぶられ、封印が解かれることを嫌って、僕は片手で軽く額を押さえた。

 まるで、頭痛がするかのように。

 あの街にも。
 鐘の音が鳴り響いていた。



 
 恐竜の骨格
 魚のいない水槽
 半ば朽ちた聖櫃
 失われた文字の連ねられた羊皮紙。
 化石を閉じ込めた岩石。

 間接照明に照らされながら、そんなモノの間を漂うように歩いた。
 乏しい光の中、高い天井は闇に沈んでいる。
 コツ、コツと。
 自分の足音だけが、虚ろに響いた。

 色とりどりの鉱石。
 翠色のそれに、
『悟能の瞳の色と一緒だね』
 記憶の中の声が、呼び覚まされる。
 人目を避けて、それでもふたりで歩きたい時。
 黴臭い博物館は、うってつけだった。
 打ち捨てられた過去の遺物に囲まれて、こっそりと微笑を交わすふたりの上にも。

 鐘の音は降り注いでいた。


 鉱石に混じって展示されている琥珀が、僕の目を引いた。
 太古の蟲を閉じ込めた、それは。
 彼女の瞳の色を写し取っていた。

 花喃。

 あの街を遠く離れたこんなところで、君を思い出している。
 思い出してしかあげられない、僕がいる。

 そんな僕を。
 君は、嗤うだろうか。
 それとも……。 

 


 手の甲を当てた額が、うっすらと汗ばんでいた。
 漂い、行きついた先の。
 黄金と砂に満ちたかつての王国を模した、蒸し暑い部屋。
 王の物語を刻んだ壁画に描かれた人物たちが睥睨する部屋の、無造作に並べられた幾つもの棺の中ほどに。

『それ』は、あった。

 空調の僅かな風が、水盤に張られた水の面に漣を立てた。
 石柱を模した台に乗せられた、浅い水盤の上に。

 白がぼんやりと浮かび上がっていた。


 夜明けとともに開き、四日の間だけその姿を保って潔く散る花。
 芽吹く時が来るまで、長い眠りを眠る花。

 白い睡蓮の、届くはずもない香りが。
 部屋に潜む何かを吹き払った。 

 幾重にも重ねられた、白い花弁。
 その、緩い弧を描いて広がるさまに。

 乱れたシーツに散らされた、袂のイメージが重なった。

 尊き衣に包まれた、細い肢体。
 それを露わにさせることは、なかなか咲かないことに焦れて花蕾を無理矢理解く感覚にも似て、指先を震えさせた。
 表われた肌の『白』に眩暈を起こしながら。
 僕を清めてくれる香りを聴こうとするように、彼の中に自分を埋めた。
  
 
 二千年の夢の話をし、薄暗いホテルのロビーでともに花の開くのを待った人は、今ここには居ない。
 あの時ふたりで見た花を。

 今は、独りで見ている。

(…三蔵)
 胸の内で、呟いた。




「やっぱりここか」
 声よりも。
 タイミングに酷く驚かされて、僕は振り返った。
 薄闇を吹き払って、白い姿がそこに在った。
「出ていく時は、書き置きくらいして行け」
 不機嫌な声と表情に、ようやく息が継げた。
 まだ大きく跳ねている心臓を宥めながら、僕は顔に笑みを刷いた。
「それじゃ、家出ですよ」
 そして、部屋の入り口から動こうとしない彼に、仕方なくこちらから歩み寄った。
「酷い雪だったでしょう?」
「そうだな」
「法衣姿は目立つから、宿から出ないように言ったじゃないですか」
「そうだったかもな」
「こんなに濡れて…」
「……」
「風邪でも引いたらどうするんです」
 思わず呆れたようなため息をつくと。
 室温に溶けた雪の雫が滴り始めた金糸の合間から、紫暗の瞳が僕の目を射た。


「てめえが戻ってこねえからだろうが」
 不機嫌に言われて。
 僕は目を瞬かせた。
「え?…もしかして迎えに来て下さったんですか?」
「んなわけあるか?お前がいないとカッパが言いに来て、そのうち雪が降り始めたら、サルが騒ぎ出した。てめえは雪に塗れながら買い物をするほど律儀でも勤勉でもないと言ってやったのに、聞きやしねえ」
「…ずいぶんですね、それ」
「あいつらは市場まで行くといって出て行ったが、そこまで行く途中にここがあったのを思い出したからな。あいつらが手ぶらで帰ってきたらまた煩くて仕方がねえから来てみたら、案の定馬鹿どもはいなくて、お前ひとりがぬくぬくしてたってわけだ」
「ぬくぬくなんて酷いですよ。ちょっと足りないものを買ってくるだけのつもりだったんです。夕食の時間までには戻るつもりでしたし」
「俺に言うな。宿に戻ってあいつらに言え」
 僕の言葉に仏頂面でそう言って、三蔵は袂から煙草を取り出した。
「館内禁煙ですよ」
 そう教えたら、ジロリと睨まれた。


「……何見てた」
 一瞬の間の後、それでもマルボロを袂に戻して、三蔵が呟いた。
「遅くなればとやかく言われるのが分かってて、それでも見てたものって何だ」
「……睡蓮を」
 呟く声に合わせるように声を落として、僕は囁いた。
「ほら、あそこ……」
 水盤の上の花を目で指し示すと、三蔵は紫暗を少しばかり細めてそれを見た。
「あの花の白さが、僕の中の何かを洗い流してくれるような気がしたんです」

 静寂の中で。
 僕らは並んで、花を見つめた。
 僕を苛んだ鐘の音も、今はもう聞こえては来ない。
 時を知らせることを終えたのか、
 降り積む雪に吸い取られたのか、
 定かではなかったが。

 しんとした時間と空間の中で、僕らは……。




「前に見た時は、夏だったな」
 黙っていた三蔵が、ふいに口を開いた。
 睡蓮は、夏の花だから。
「それがこの季節に、無理矢理花開かされて」
 目を細めたまま柔らかな唇から零す言葉に、その言い方に。

 いきなり指先に儚い花びらのひんやりした感触が蘇って、劣情が僕を抱き締めた。
 
 肩を掴んで強引にこちらを向かせ、噛みつくように唇を重ねた。
 一瞬の驚愕の後怒ってもがき始めた体を押さえつけて、更に深く貪る。
 雪の中。
 探し当てて、貴方は来てくれて。
 言えば、都合のいいように解釈するなと怒鳴られそうなことを考えながら。  
 きつく抱いて、深く深く口付けた。
 やがて腕の中の体から徐々に力が失せ、息を継ごうとする喘ぎに別のものが混じり始める。
 それを知って、僕はようやく自分を取り戻した。
 貪るキスを甘やかすそれに変えて。
 もう少しだけ柔らかな感触を楽しんでから、彼を解放した。




「三蔵、濡れますからこれを…」
 暑い部屋の中で脱いでいたコートを掛けてやろうとする僕を振り切って、三蔵は雪の中をずんずん歩いていく。
 あっという間に雪に塗れて掻き消されそうになるその後ろ姿には、取り付く島もない。
 僕は雪に足を取られながらも彼に追いつき、薄い法衣の肩にコートを着せ掛けた。
「てめえが着ろ」
「謝りますから、機嫌直してください」
「別に怒ってねえ。油断も隙もねえから、近づかないことに決めただけだ」
「……」
 あっという間に巻き上がった感情を。
 止める暇もなかったのだと言っても、三蔵は納得してくれないだろう。
 彼には永遠に分からない。
 分かりたくもないだろう。
 自分で自分が掴みきれないことなど。


 黙り込んでしまった僕を、紫暗の瞳がちらりと見た。
 そしてコートを僕に突き返すこともせず、ほんの少し体に巻き付けるようにする。
 僕のもので自分を包むことを許すその仕種に。
 僕は少し微笑んで、コートのフードを煌く金糸に被せた。


 ふいに三蔵の歩みが止まり、覗き込んだ顔が訝しげな表情を浮かべていた。
「どうかしましたか?」
 僕が見ている前で三蔵の手がコートのポケットから引き出される。
 その細い指先には、モノクルが摘ままれていた。
 三蔵は少しの間それを見つめ、やがてそれを無言で僕に差し出した。
 差し出されたモノクルを受け取った時、曇ってしまった眼鏡を外す癖が出たことにようやく気づいた。

 眼鏡を掛けていた、それは、悟能の癖だった。

 被さってくる前髪を振りやって、僕はモノクルを掛けた。
『猪八戒』の名とともに三蔵が僕に与えてくれた、それを。
 三蔵の指先の、ほんの僅かのぬくもりとともに。




 ――それとも、そんな僕を。

 花喃。
 君は、微笑ってくれる?










 終 




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◆ note ◆
睡蓮の写真を使った画像から、kitoriさんがお話を書いてくださいました。
睡蓮は、字面の所為か「包み込んで眠りに就かせる花」のイメージを持っていました。
それが。
 『睡蓮は、夏の花だから。
 「それがこの季節に、無理矢理花開かされて」』
おおう、眠りから起こしてしまわれるのですね…
kitoriさん、色っぽいお話をありがとうございます。