後ろ姿 
 静かな山中だった。
 鬱蒼とした木々が天上から覆う細い道を、僧形の少年が歩いていた。
 小さな後ろ姿だった。
 略装の僧衣が、長旅で埃にまみれて白茶けている。
 唇から洩れる吐息に、疲労が滲んでいた。
 しかし少年の足は滞らず、ひたすら前に向かっていた。
 さく、さく。
 ざく、ざく。
 砂利を踏み、下草を掻き分け、ただただ前に向かって進んでいた。
 しゃら、しゃら。
 じゃら、じゃら。
 少年が進むたび、錫杖の遊環が触れ合う金属音が続いた。
 僧衣の裾から、一歩ごとに足首が覗いた。
 握れば簡単に指が回るであろう、細い足首だった。
 肩も、揺れる袖から垣間見える手甲に覆われた手首も、金剛杖を握る掌も、何もかもが細かった。
 我が身の華奢な線のことなど気にした様子もなく、少年は薄暗い道を歩いていた。

 少年が額に滲む汗を拭うと、頭上に茂る木々の隙間から、天高く昇った陽が見えた。
 辺りを見回し小さな日溜まりを見つけると、少年はそこに腰を降ろした。
 背負った荷から、水の入った竹筒と、小さな包みを取り出す。
 包みの中には、前日発った小さな村でほどこされた、握り飯。
 少年はそれを噛み締めるように口にした。
 水を飲み、ひとつ溜息をつく。
「水。探さなくちゃな」
 逆さに振る竹筒から、一滴、二滴、雫が落ちた。
「探しに、行かなきゃな」
 座り込んだまま、自分を叱咤するように繰り返した。
「探しに」
 ゆっくりと、躯が傾ぐ。
 唇が動いたが言葉にならず、真後ろに倒れた躯の底から、長い長い吐息が続いた。

「お師匠様」
 目を射る木漏れ日から逃れるように、少年は額に手の甲を押し付け、目蓋を閉ざした。
 瞑った目には太陽の替わりに、微笑む人の姿が映った。
 少年は、自分の育て親を亡くしたばかりだった。
「……あ・あ・あ」
 たった独りの山中で、誰にも聞かせられない絶望の声を上げた。
「ウ・ア・ア・ア・ア……」
 低く、小さく。
 嗚咽のように長く、それは続いた。
 少年の上に落ちていた陽が移動し、足下に影が落ちて来ていた。
 忍び寄る寒気に追い立てられても、少年は動こうとしなかった。
 長く歩き続けた、疲労が蓄積していたのかもしれない。
 いつ迄も動かずにいれば、耳に親しんだ声が聞こえて来るとでも、思いたかったのかもしれない。

 『どうかしましたか?
  おや。
  いつだって、わたしが説法をサボっていると叱るのは、江流、あなたの方なのに』

 面白がるような、窘めるような、そんな優しい声が聞こえてくるかもしれないと。
 願っていたのかもしれない。
 待ちたかったのかもしれない。

 地面に貼り付けた背から、冷たい湿り気が僧衣に染み込んで来たが、少年の唇はもう、吐息すら吐かなかった。
 躯を維持する小さな呼吸を、微かに繰り返すだけだった。

 何かが触れた。
 少年の額の上の、華奢な手首に風のように触れた。
 少年は始め気付かず、それがちらちらと舞い、指に留まって初めて目を開けた。
 小さな蝶が、驚いたように離れ、また戻って来た。
 遠くの山々のような霞んだ色合いに、日差しを反射すると水色の光が浮かぶ。
 儚げなシジミ蝶が、少年の指先に留まり、爪の上に留まり、そして鼻の先に留まった。

 ふう。

 息吹を掛けても、まだ蝶は遠離ろうとはしなかった。
 諦めて少年が身を起こすと、漸く蝶は日溜まりを選んで飛んで行った。
 途切れ途切れながら小さな日溜まりは、道筋を辿るように落ち、薄暗い山道にほんの小さく、明るく緑が輝いていた。
 深緑に淡く斑の入った葉に、目立たぬように隠された花を見つけ、蝶はそこで翅を休めた。

「何だよ。いい気分で寝てたのに、てめェ人のこと起こしやがっただけかよ」
 悪態に蝶は一度翅を閃かせ、その後はずっと知らぬ振りだった。
 少年は暫く、蝶が蜜を吸う姿を見つめ、やがて重たい腰を上げた。
「……水。探しに行かなくちゃな」
 立ち上がって荷を背負い、手荒く埃をはたき落とす。

 少年は頭を上げた。
 巡らせた瞳には、依然変わらぬ山道が映った。
 それでもまた足を進め、錫杖の音が規則的に続いて行った。
 山道を、小さな後ろ姿は歩み続けた。

 じきに500年。
 繰り返す転生は、時を満たさず行われ、儚く果て。
 漸く500年。
 長く短い時が、漸く満ちる。
 漸く、出会いがまた、果たされる……。
 もうすぐ、呼ぶ声が、届く。
 求め、引き合う声が。
 そしてまた、奴らの『時』が始まるんだろうよ。

 お前も、待ってたんだろう。なあ?

 天界。
 自らの頸に刃を立てた闘神が、長い時を過ごしていた。
 少年の姿のまま時を止め、何も映さぬ瞳を開けたまま、椅子に座らせられていた。
 天界の常春の風がどこかから入り込み、闘神の部屋に蝶が迷い込んだ。
 蝶は闘神の周囲を舞い、ぴくりとも動かぬ肩の上に留まった。
 遠くから誰かを呼ばわる声が、近付いて来ていた。
「どちらにいらっしゃるんです!?」
 闘神の部屋の前を通り過ぎ掛けていた声が、立ち止まり、戻る。
「あああっ!こんな所にいらっしゃったんですか。天帝がお呼びだと、お伝えしたじゃあありませんか。あなたがそんなだから、私の胃薬の量は増えるばかりだというのに……聞いてらっしゃるんですか!?」
 初老の男が、悲鳴じみた声を、蝶に向けた。
 蝶は驚き、一度闘神の肩から離れ、また同じ所に留まるとゆっくりと翅を動かした。
 男は疲弊も露わに続けた。
「またサボタージュなさるおつもりで?今度はどう理由を都合すればよろしいので?頭痛腹痛偏頭痛……私はもう、でっち上げのタネが尽きて」
 恨めしげに蝶を睨み、肩を落とす。
「……腰痛。腰痛でよろしいですな?今更文句を言われても、聞く耳持ちませんな」
 目を逸らす男に、今度は蝶が激しく飛び回った。
 男は暫く小言の口調で蝶に話し続け、ふと言葉を途切れさせた。
「……また、下界に行かれるのですな?判りましたよ。天帝には私の方からようく申し上げておきますから。そのお姿を人に見られぬうちに、さっさとお行きになってくださいませ」
 悲しいとも優しいともつかぬ声で、目を瞑った。
 蝶は二、三度男の耳元で翅を動かし、開いたままの扉に向かい、消えた。
 少年は歩き続けていた。
 何度も、もう歩けはしないと思いながら、眠り、目が覚めるたびに立ち上がり、また歩き続けていた。
 育ての親を喪った想いは時折蘇り、少年を打ちのめした。
 その日も少年は、過ぎ去った日を思い起こしながら歩いていた。
 僧形の小さな子供を襲う山賊を、無感情に叩きのめし、撃ち殺し。
 ふと、背を伸ばした。
 どこかから、声が聞こえた。
 小さな予感と、焦燥を誘う、呼び声だった。

『          』

 呼び声はいつまでも続いた。
 じゃらん。
 少年は錫杖を振るい、そして歩き始めた。
 いつか出逢う、声に向かって。

 少年の細い後ろ姿を、蝶だけが見守っていた。














 fin 







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◆ note ◆
連続色気皆無
10 years agoの少年三蔵さまでした