■■■ sweet and pain
痛みだけじゃないから、胸が苦しい。
いやだやめろと、上に乗り上げる男の背を踵で蹴り付けながら喚いた甲斐もなく付けられたほの紅い痕跡を、鏡の中に確認して言葉を無くした。
我ながら青白い首筋の中程。
ギリギリ、襟から現れる辺り。
「肌色より少し濃い目のリキッドファンデーションを叩いて付けた上に、パウダーファンデーションを重ね付けするといいんですけど。……僕もあなたも化粧品は持ってないですしねえ」
鏡像を覗き込むように背後から近付いた男の顔が、本当に困っている訳ではないのはよく判っていたから。
「仕返しかよ」
「まさか」
先日派手に付けてしまった背中の掻き傷を、即座にふたり思い浮かべながら、鏡越しに睨み合う。
いや、睨んでいるのは俺ひとりで、奴は楽しげに微笑むだけだが。
「仕返しと仰るなら……。首筋のキスマーク付けた途端に付け返された、この噛み傷は今度はどこに仕返しましょう?」
鏡像を目から遮るように、見せびらかして立てて振られる、奴の人指し指。
あれは。
抱き締められて、躯の中にコイツを感じながら、永遠に揺さぶり続けられるんじゃないかという不安と陶酔に、喉が勝手に上げてたタワゴトの声が高ぶった、その時に唇に触れて来た指。
噛んでご覧なさいと。
こちらの快楽の度合いを計る計器のように差し出されたそれに、精一杯歯を立てた証、痕跡。
こじ開けるように唇に押し入った、滑らかな奴の関節の、紫混じりの赤い痣と、滲む血色。
食い千切ってやればよかったんだ。
指だろうが、コイツの男性器だろうが。
俺の不機嫌を気にする様子もなく、奴は明るい声を出した。
「大丈夫ですよ、これで隠れますから」
背中から躯の前に、馴れ馴れしい体温を伝える腕が囲うように回される。
少しだけ襟を引っ張り下ろして、絆創膏。
目を背けたくなる紅を鏡の中で自己主張する、唇で吸われた痕跡を隠す、薄いプラスティックの粘着シート。
「ね?」
この馬鹿!!
だだっ広い荒野を駆けるジープのエンジン音。
後部座席から、俺の機嫌を伺いながらの、低い声のやり取りが聞こえる。
「今度はナニよ?」
「知んねーよ。悟浄の朝帰りが悪いんじゃねえの?」
「俺の所為にすんなよ」
隣席の大馬鹿野郎は、運転しつつもナヴィ席に、ちらりちらりと視線を寄越す。
「三蔵」
知らない。
言わない。
お前も絆創膏を貼れと言ったのに逃げた、人差し指の噛み傷が人目に触れることが、不機嫌の原因じゃない。
間抜けな歯形が目に入る度蘇る、喉が嗄れるほど上げた声や、あられもない嬌態や、時の過ぎる感覚がなくなるような濃密な時間への困惑が、原因な訳でもない。
化粧品だの絆創膏だの、小賢しい。
きっとコイツは今までも。
痕跡を、付けられた本人がひと時も忘れられなくなるような場所に。
見えないように隠しながら、隠したものがそこにあるのだとはっきりと傍目に判らせるようなマーキングを。
お前の刻印するマーキングと同じ程に、お前はその傷をカンジてるのか?
今までも、これからも。
時を遡って、コイツに痕跡を残された女が、どんな仕返しをコイツにしたのか。
ソレはコイツの心にどれ程深い刻印を残したのか。
躯の上に浮かび上がる、接吻けの痕跡ひとつ。
歯を食い込ませた痕ひとつ。
そんなものに左右される気持ちがおかしくて、切なくて、もどかしい。
甘い時間に蕩かされた、柔らかな場所に深々と残る傷からじんじんと広がる痺れは、痛みだけじゃないから。
だからこんなにも、胸が。
目を逸らし合うふたり同時に。
首筋の所有の証に指を触れさせ、また、指先に穿たれた悦楽の痕跡に唇を当て。
互いに知らぬまま、同じ時間に思いを巡らせた。
だからこんなにも胸が ――――
◆ 終 ◆
◆ note ◆
食い千切れたら千切れたで。
見えるトコに痕残す気持ちは、判らなくもナイけど(笑)