■■■  眼鏡坊主の呟き 

 ここ慶雲寺は呪われているのではないだろうか。
「はあ……」
 旅ばかりしてなかなか大人しくしていてくださらなかった、前大僧正様といい。
 最も神に近き尊いお方であるハズのあのお方といい。
 規律戒律を軽んじる方々が多過ぎる。
 私はごくフツーにお勤めをして身を律して生きるのが望みであったのに。
 ……まあ行く行くは僧正、大僧正として、長安の行く末を見守る職に就きたいというささやかな希望はあるものの、決して口外しない秘めた想いなどと言うものは、自分で見て見ぬ振りの出来るシロモノでもある。
 眼鏡を指で押し上げ、決意も新たに空を見上げた。
 この慶雲寺は、待覚大僧正様に替わり私が守る。
 あのお方にお任せしていては、ここは終わる!
「私が頑張らねば……!」
 高い高い蒼天に巡る陽のように、私は慶雲寺に無くてはならぬ人となる。
「……。」
 高い高い蒼天に、薄くかかる雲。
「…………。」
 細く淡く立ち上る、紫がかった薄い雲。

「………三蔵様ーーーーっ!」
「チッ、また見付かったか」
 指先が焦げそうな程短くなった煙草を摘む、第三十一代唐亜玄奘三蔵法師が、お堂の影に隠れて紫煙を吐いているのを見つけた。




「何度申し上げればお判りになりますか! 喫煙など、斜陽伝お膝元のこの慶雲寺のトップに立つ者のなさることではございません!」
「他の用事は全うしている。気分転換も出来ぬのであれば、作業効率が下がる一方だ。俺は非効率極まる方法を自ら選ぶ気などない」
「『作業』じゃーないでしょう!? お勤めでしょう! アナタに気分転換してるような暇ァない筈じゃーないですか!」
 おっといけない。
 しれっとした顔で煙草をふかし続ける三蔵様に、思わず血管ぶち切れるところだった。
 三蔵法師と謂えどもただのワカモノ。
 年長者が威厳をもって接すれば、いずれはお判り頂ける筈なのだ。
 思わず上げた大声に、三蔵様は「フフン」とでも言いたげな目付きを寄越された。
 一々逆撫でるお方だ。

「待覚大僧正様も喫煙という悪癖をお持ちでしたが、あれ程のお方でさえ深夜にこっそり隠れてお吸いになるだけの常識と羞恥心をお持ちでした」
「見付かると煩かったからだろ。煙草なんてものは邪魔されずに黙って吸いたいモンだ」
 咥え煙草で自室へと戻ろうとする三蔵様を追い掛けて小言を続けた。
「私が大僧正様の喫煙をお止めするのが悪かったとでも仰いますか!」
「待覚がお前のことをどう思っていたかは知らんがな」

 はっ……。
 まさか。
 まさかまさか。
 もしや。
 私は大僧正様に疎まれていたのやも知れぬと。

 目の前が真っ暗になった。

 よかれと思って。
 私は慶雲寺の為を思い、大僧正様おん自らが浪費と怠惰と快楽の象徴で有るかのような煙草をお吸いになるのをお止め申し上げて来たのに。
 桃源郷仏教界に君臨する長安慶雲寺に長くおられる待覚様を手本にすべく、その為にも待覚様に完璧な『大僧正』でいて頂きたいと思って来ただけだと言うのに。
  ―――― もしや私の心が重荷になって、疎まれていたのやも知れぬと。
 老齢の待覚大僧正様のお身体の心配すらも、余計なことであったと……?
「お身体の心配すらも……。ニコチン、タールの害悪血管の収縮による血圧上昇体温低下脳溢血長期喫煙習慣のもたらす生活習慣病肺ガンの心配すらも、待覚様にはお邪魔であったのかも……」
 動揺の余り思わず洩れる心の言葉。

 三蔵様は少し面白そうに私を見た。

「お身体の心配すらも……お身体の……。おからだ……。ん?」
 ふと気付き、私を眺めたままの三蔵様にお尋ねしてみた。
「お歳はおいくつでしたっけ?」
「じゅうろく」
「禁止ッ!! 未成年の喫煙は成長過程の躯に悪影響有り過ぎですッ! 子供が吸っていいモンじゃあ、ないでしょうがっ」
 咥え煙草を奪い取り、勢い余って火種に触れた。
「熱ーッ!」 
「……随分と騒々しい奴だな。だが」
 呆れ顔の三蔵様は、私の取り落とした煙草をゆっくり躙って火を消した。
「『子供』か。……気遣って子供扱いされるのは、随分と久し振りのことだ」
 火傷した指に息を吹きかける私から、三蔵様は目を逸らした。
「待覚はもう大丈夫だろうと煙草を寄越し、アンタは子供だからと取り上げる。どっちの言うことを聞くのも癪だがな……」
 うしろを向いた三蔵様の背が軽く揺れた。
 笑っておられるのだ。
 お顔はお見せにならないが、お声が僅かに高くなる。

 気付けば、三蔵様の私室の前までやって来ていた。
「扉の前でウロウロするくらいなら入れ」
「は?」
 気の抜けた返事をしてしまい、癇癪を起こしそうなお顔に慌ててお部屋に入ると。
 三蔵様は新しい煙草に、どこで調達したのやら安っぽいライターで火を着けた。
「どこでお吸いになろうとも、未成年で煙草を吸うなど三蔵法師にあるまじき……」
「吐き出す為のものだ」
 そのままどかりと、窓辺の寝台に腰掛ける。
「抱え込んだものを、こうやって……」
 咥え煙草の横顔の、まだ幼さの残る口元がけぶりを吸い込み、薄く吐き出した。
「奥底に溜め込まず吐き出す為のものだそうだ。……待覚大僧正のお説に依ればな」
「待覚様の?」
 手甲に包まれた手が煙草を摘み、意地の悪そうな笑みを見せる。

 すう。

 煙草の先からけぶりが細く昇って行く。
 ゆらと揺らぎ、窓からの微風に乱れて消えて行く。
「線香みてえだな」
「はあ」
「香一本分燃え尽きるまでの、数十分。故人を悼むには長くもあり、短くもある儚い時間だ。煙草も同じ、一本が灰になって消えるまで立ち昇る煙に待覚大僧正殿を偲ぶのは、悪いことでもないだろう」
「三蔵様」

 すう。

 再び煙草を口にされ、静かにけぶりを吸い込まれる。
 長目の金の前髪に隠れがちな横顔は、その時、幼くも、永い時を生きた人のようにも見えた。




「吸うか?」
「滅相もない!」
 煙草をじっと眺め続ける私に三蔵様は煙草の箱を差し出されたが、大慌てで首を振るった。
「共犯者になる気はございません。ございませんが」
 本日のところは、引き下がります。
 皆まで言わず殊更顔を顰めてみたが、緩い眼鏡が鼻にずれる。
「吸わんのならばさっさと出て行け。黙って吸いたいモンだと言っただろうが」
 最後まで可愛い気のない口調の三蔵様を残し、お部屋を辞した。
 扉を閉ざす間際に振り返れば、三蔵様はもう私のことなど気にせずに、窓の外を眺めておられた。
 自然、礼の深くなる自分が、自分でも判らなかった。




 ここ慶雲寺は呪われているのではないだろうか。
「はあ……」
 どうも先日は三蔵様に、口先で煙に巻かれたような気がしてならない。
 規律戒律を何とお心得か。
 私はごくフツーにお勤めをして、身を律して生きるのが望みであったのに。
「…………まああああった、煙が」
 度々見かける建物の影から昇る煙を、三度に二度は見て見ぬ振りをするようになってしまった。
 こんな筈ではなかったものを。
 眼鏡を指で押し上げて、高い高い蒼天を見上げてみれば。
 巡るお天道、紫煙の薄雲。
 非業の死を遂げたとしか思えぬ前大僧正様の、満足気な死に顔が思い浮かぶ。
「随分と凄まじい、大往生でしたなあ」
 生きてる人間は何時までもお天道様を見上げている訳にも行かず、やむなく煙の大元に視線を戻す。
 毎度毎度、看過してさしあげる訳にも行かぬのだ。
 何せ私は、三蔵様を含めここ慶雲寺をお守りする為にいるのだから。
 空を見つめるお方を、地面に引き戻さねばならぬのだ。





「三蔵様ーーーーっ! タールニコチンの害を何度申し上げれば……!」
「チッ」










 終 




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◆ note ◆
ゼロサム11月号ネタバレでした。
坊さん視点。
……需要のなさそうなお話ですね(笑)
血管浮き出した眼鏡のお坊さんが気になってしょうがなかったんです。