■■■  逃げ水 

 ゆらりと立ち上る陽炎。
 太陽の照りつける陽気が続き、灼熱を反射する街道の先々に車上から幻の水の影を見た。
 ゆらり、空の青色と空気の銀を揺らして。
 近付けば消える儚さ。

「ああ、逃げ水だ」




 まだ明るい夕方に到着した街は、祭の真っ只中の賑やかさ。
 雨を司る水竜を祀る山車を繰り出したのだと、黒の別珍の縁取りの、朱や鬱金、翡翠色のサテンでしつらえた衣装を着込んだ若衆が、裾をたなびかせながら呑み歩く。
「もっと早くに街に入ればよかったのに」
 宿の食堂に集まった若い男達は、山車の先導で勇壮な竜の舞いを終えた興奮のままに、三蔵達に声をかけた。

「剣舞? 俺も混じってやりたかった!」
「そらあ無理だ。地元の男でないとな」
「なんだ、昼間着いたって、見るだけだったのかあ」
「来年までここに残るんなら、やらせてやるんだけどなあ」
 機嫌よく笑い喋る男達に囲まれていた悟空は、そこで急に真面目な面もちになった。
「それは駄目だ。俺は三蔵についてなくちゃ」
 男達が苦笑して謝る。
 旅行者へのお決まりの冗談で、本気で残れと言った訳でも、だからと言って悪気がある訳でもないと。
「せめて、この街に留まっている間、楽しんで行ってくれよ。勿論、ここが気に入って本気で残る気になったら歓迎するから」




 暑さに堪えかね、紅の髪を項でひと括りにした悟浄が、悟空の茶色の髪に掌をぽんと置いた。
「軽く流しなさいよ。向こうが却って気遣ってたじゃん」
「でもお陰で、お酒おごって頂いてしまいましたね。夜店の場所も親切に教えて頂いて」
 悟浄の肩に更に掌を置いた八戒が、小さく笑った。
 食事を終え、四人部屋に引き取った後だった。
 比較的ゆったりと空間を取った部屋の、開け放った窓の外からは、鉦や爆竹の音が絶え間なく響いて来る。
「どうせ奴らの酒代は、この宿からの祝儀だったしな。俺達は宿泊料金をしっかり別に支払う訳だから、特別に有り難がる必要もあるまい」
 三蔵は座り心地のよさそうなソファに陣取り、数日分の新聞を数誌ずつ抱え込んでいた。
「さんぞ」
「俺は祭なぞ行かん。わざわざ人混みに揉まれに行く気はない」
 ばさ。
 ソファの背後に設置された熱帯魚の水槽のライトが、三蔵が盾のように広げた薄い新聞紙から透けて見えた。




 パパパパパパン!
 パン、パン!




 華やかな爆竹の音が、三蔵がひとり残る部屋に届く。
 三蔵は物憂げに立ち上がり、喧噪を断ち切る為に窓を閉めた。
 楽しげな祭の賑わいを、遙か昔、義父と垣間見たことがあったと思い出しながら。
 廟に花を捧げる少女達が駆けて行くのを、寺院の窓から共に眺め、側仕えの坊主達の目をかい潜って、縁起物の甘い揚げ菓子を買い求めた。
 聖域と現世を区切る窓から眩しい外へ抜け出した、自分だけの為に用意された小さな息抜きの瞬間。
 至福を感じた時間。
 三蔵は部屋の灯りを落とした。
 どかりと腰を落としたソファから、背を捩って壁際の水槽を覗き込む。

 青いライト。
 厚いガラスに仕切られた、隔絶された世界。
 薄白く透ける躯にネオンの輝きを走らせた熱帯魚が踊る。
 小さな楽園。
 白砂を敷き詰め、水草を誂え、ポンプから上がるエアが光りながら揺れる世界。
 きらきらと。

 冷たいガラスに掌を宛て、青い反射光を受けながら、三蔵は小さな楽園を眺めた。





「さあてと。何から楽しみましょうか?」
「さあてじゃねえだろ? 部屋追い出されて、周囲は祭で出来上がったカップルだらけで、お子様連れの俺達がナニするっつーのよ?」
 にこやかに先頭を歩く八戒と、普段にも増してやさぐれた表情を浮かべて紫煙を高く吹き上げる悟浄と、きょろきょろと辺りを見回す悟空の三人の姿が、屋台の集まる参道にあった。
 水神を祀る所為か水にちなんだ見世物や屋台が多かった。
 珍しい水棲生物、魚類、人魚や龍神にまつわる劇、移動式の噴水を舞台に踊る美女達、青い色に染めたり波を象ったりした菓子、果物にからめた水飴、水槽に泳がせた緋色の金魚、占い籤を選ぶ小鳥が胸元だけを水色に染められていたのはご愛敬。
 鮮やかな色に囲まれて、悟空は大きな瞳を見開きっぱなしだった。

「あれ美味そう」
「だあッ! さっき向こうで肉食ったばかりだろうが!?」
「今度は魚だよ! フライにソースが……ほら、甘酸っぱい匂いのと、辛そうなのと……」
「あ、美味しそうですね。あのソースには何が入ってるんでしょうね?」
「八戒、お前もまだ食うのかよ」

 摘んで食べられるように紙に包まれたフライや、シシカバブ、水飴の類いを堪能し、珍しい見世物を楽しみながら練り歩く。
 曲芸師が投げた紙の鳥や花を追う子の笑い声や、歌い出しそうな少女達の声。
 思い出したように響く爆竹の破裂音とざわめき。

 不意に。
 悟空達三人は空気の涼しさを感じた。
「金魚だ」
 辿りついた通りの一角の露店では、広く浅い水槽に屈み込む人々が皆、真剣な表情を浮かべて俯き、朱色の小魚を見つめる。
 薄い紙皿を水に浸し、狙いの一匹をすくい上げようと。
「ああッ」
 目の前の少女が紙皿を破いて金魚を逃した瞬間、悟空が残念そうな声を挙げた。
「……悟空、お前コレやりてえの?」
「……うん、かなり」
 すかさず露店の主人が、悟空に紙皿を差し出した。
 図らずも、悟空と悟浄ふたりの目線が、八戒に集中する。
「少しだけなら金魚の処分も何とかなるし、いいんじゃないですか?」
「やたッ!」
 八戒が財布を探ろうとしていると、露店の主人は、こともあろうに悟浄にまで紙皿を差し出した。
「……。」
「悟浄はやんなくていいよ。俺のが上手に魚すくえるの、目に見えてるし」
「………八戒、俺の分も払っといてくれ」
 既に数匹の金魚をすくっている悟空と、憮然とした顔で片腕を唸らせ回す悟浄の、突然の金魚すくい競争に周囲の客までがわっと湧く。

 ひっきりなしの、発動機の軽い音。
 アセチレンランプの熱と匂い。
 水色の水槽。
 揺れて光る水。
 朱。
 白金。
 黒。
 宝石のように泳ぐ、小さな金魚たち。

「さっき三蔵、部屋の熱帯魚見てた。きっと三蔵コレも好きだと思う」
 ロクに相手を見もせずに、金魚をすくいながらの悟空の言葉。

 悟空が金魚をすくった後には、水槽を囲んで見ている親子連れや恋人達に、無理にでも押し付けてしまえると八戒は思っていた。
 連れの女の子の真新しい着物の色と同じだと、照れくさそうに立つ青年にでも渡せばと。
 若しくは、チップと共に返せば、金魚の屋台の主人も嫌な顔は見せないだろうと。
 単に悟空が、初めての祭の遊びを楽しむことが出来ればよいと、そう思っていた。

「こいつが一番大きくて色がきれいなんだよ!」
「そいつはこのオレサマがさっきから狙ってんだよ! 苦労してそこまで追い込んだんだから遠慮しろ!」

 けんけんがくがくの金魚すくい合戦が、まだ暫くは続きそうだと見て、八戒は足早にその場を離れた。





「何ソレ?」
「……水槽と水草と餌です」
 呆れっ振りを隠そうともしない悟浄の声に、八戒は天を見上げて応えた。
 目線の先で、家並みにぶら下げられた灯籠が夜空にぼんやりとした明かりを投げかける。
「小さくて軽い、カバーの掛かる、アクリル製で壊れ難そうな水槽を探して来たんです。これなら……」
 悟空の手にぶら下げられたビニール袋の中の、錦色の金魚を見つめる。
「金魚、何とか持ち運べるかもしれません。ちょっと手狭で金魚には可哀相かもしれませんけど、一匹か二匹なら何とかなるんじゃないかと」
「八戒?」
「ジープも少し重くなるけど頑張ってくれるって言うし」
 ぽかんと見上げて来る悟空に、八戒は荷物を差し出した。
「だって悟空、三蔵にあげたいんでしょう? 荷物増やすなって叱られるかもしれませんけど、僕も一緒に怒られますし」
「八戒」
「三蔵にあげるために頑張ったんでしょう!?」

 アセチレンランプの明かりを映した金魚は、ビニールの中で真珠の輝きで泳いだ。

「三蔵に見て貰う為に頑張ったけど、でも金魚は宿のおばさんにあげるって、出て来る前に約束したんだ。」
「へ?」
「へえ」
 悟浄が感心したような声を出した。
「おばさん、いつもお祭の時には宿や厨房が忙しくて、子供の頃以来ずっと遊んでないんだって。俺、仕事手伝ってやろうかって言ったら、その分楽しんで来てくれたらいいって」
 八戒を見る悟空の瞳は、まだ見開いたままで。
「お土産何がいいかって言ったら、金魚なら宿の水槽に放してやれるから、ずっと楽しめるって。俺達の部屋の水槽に金魚入れたら、三蔵にも見て貰えるだろ? おばさん可愛がるからって言ってくれたし。……なあ、八戒。やっぱどー考えても、金魚連れの旅って不可能だと俺は思うんだけど」
「……その通りです」
 悟空悟浄の目の前で、白皙の面が赤面して行く。
 金魚の透ける朱色にも似た、血色の昇り様。

「だって。悟空は三蔵にどうしても金魚をあげたいんじゃないかって思ったんですよ!」
「……それお前だろ、八戒?」
「否定はしませんけど、でも、だから、何とか携帯出来る方法はないかって、真剣に水槽探し回ったんじゃないですか! 三蔵の為、悟空の為、僕の為じゃないですか! ……そういう悟浄は、すくった金魚、一体どうするつもりだったんですか!? 無責任に、その辺に捨てちゃうつもりだったんじゃないでしょうね!?」
「おあ!? 俺にフるか? 処分出来るって言ったの自分だろ、八戒!?」
「つか、ふたりともアトサキ考えずに金魚すくおうとしたんだ。……へええ」
「悟空、苛めないで下さい」
「うん、判った。でも八戒、赤面治らないね」





 夜が更け、渡る風に冷たさが混じり混んできた。
 じきに祭も終わるだろう。
 乱れかけた髪をまとめてくくり直しながら、悟浄は思った。
 傍らの悟空は大事そうに金魚の入った水槽を抱えている。
 一歩遅れて歩く手ぶらの八戒が、普段の聡さを置き忘れたように茫然とした表情なのを横目で眺め、不意に頬の筋肉が笑いを形作りそうになるのを必死で抑えた。
 たかが金魚だ。
 三蔵に見せたいからと必死に大きな金魚を狙ってすくうのも、好きと言うなら持ち歩こうと大真面目に考えるのも、馬鹿げてるとしか言いようがない。
 実際、指摘された通りに、金魚が手に余ったら通りすがりの人間に押し付けようと思っていたことや、そもそも自分が腕まくりして金魚すくいをしてしまったことも、全て棚に上げて悟浄は笑い出しかけ、 ―――― 必死で抑えた。
 悟空の腕の中の水槽では、揺れる水面を気にする様子もなく、金魚が泳いでいた。

 三人が戻った宿では、三蔵が空調の効いた暗い部屋で、ソファの背にしがみついて眠り込んでいた。
 八戒の点けた明かりに眩しそうに目をしばたかせながら、差し出された金魚を見る。
「なんだ?」
「金魚だよ?」
 悟空が笑った。
 三蔵は真剣な面持ちで腕組みをして考え込んだ。
「……非常食には小さ過ぎんじゃねえか?」




『蓋付き容器に入れてたから、何が何でも持ち歩くつもりなのかと思った』とか、
『一旦拾った動物には責任を取らなくちゃならないと思った』とか、
『酷く涼しげできれいに見えたから、悟浄や八戒が責任を持つなら傍らに置くのも満更でもないかもしれないと、ホンの少しだけ思ってしまった』とか、
『悟空が魚を持っていたら、食う気だとお前らだって思うだろ!?』とか。

 寝惚けたままに思ったことが、口から出たらああいう言葉になっただけだと。
 三蔵は仰け反って笑い続ける三人に、釈明をする気も起こせずに黙った。
 何を言っても笑われそうだし、これ以上の笑いのネタを目の前の癪に触る奴らに提供するつもりは更々ない。
 腹の足しになりそうもない白金と朱の小さな金魚を、食わずに済ませられるならばそれはそれで一件落着なのだ。

「寝る」

 壁のスウィッチに掌を叩き付けるようにして部屋の灯りを消し、三蔵は自分のベッドに潜り込んだ。
 ひんやりとしたシーツに手足を伸ばして壁に躯を向けると、熱帯魚の水槽の青い光りが、ぼう、と、四角い部屋に揺らぐのが見えた。
 それぞれのベッドに向かう三つの影が青い壁を過ぎる。
 ライターの擦過音と同時の、八戒の低い諫め声、ベッドの枠の軋む音。
 放り出した靴が床に落ちる重たげな音と、素足の足音。
 ひたひたひた……。こと。
 硬質な物が置かれる音。
 裸足の足音がベッドに潜り込むのを待ってから、三蔵は振り向いた。
 三蔵のベッドのサイドボードに、金魚のシルエットが泳ぐ、青い水を満たした水槽があった。
 薄く透ける金魚の長い尾が、細かく震える。
 四角く区切られた青い水と、四角く区切られた青い部屋の境界線が、不鮮明になる。
 流れる紫煙にぼやけたのだ。
 壁際の水槽の中でポンプから上がるエアが、三蔵には呼吸のように感じられた。

 ひらひらと舞う金魚。
 泳ぎ、水の中を滑る。
 青い壁に影を揺らし、ひと晩だけこの幻の水の中で。
 この小さな楽園に、遊ぶ。

 三蔵はシーツの中で躯中の腱を伸ばした。
 背を撓らせて両腕を広げ、青い世界に泳ぎ出す夢を見た。










 終 




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◆ note ◆
全員話が噛み合ってないお話でした。
みんな勝手に自分の思うことだけやってる。
ふわふわ、ひらひら。