水底から透かし上げるような、視界。
 揺れる世界。
 冷たい。
 躯が動かない。
 ただ見上げる視界に映る人影。
 太陽を背に、自分の方へ屈み込む、ヒト。

  『どしたの?』
  『いえ…。今なにか、声が聞こえたんです』

 ……ああ、俺のよく知っているヒトだ。
 光を背負い、俺を覗き込み、そして。
 眩しい。
 溢れる光が。

■■■  経文の謎、再び 

 ぱちぱちと、焚き火が音を立てて爆ぜた。
 川に落ちた三蔵達を救ったのは、独角兒と八百鼡だった。
 本来は宿敵である筈の妖怪達の幹部格が、ずぶ濡れで凍える三蔵達の為に火を熾した。
 緊張感に欠けること、この上なかった。

「びぇっくしッ!!ッか ―――― !!さみ ―――― っ」
「いやどうも。助かりました」
 敵に当然のように助けを求めた悟浄が、盛大なくしゃみをした。
 傍らの八戒も、助けられたという事実を当然のことのように受け容れ、礼を述べる。
 悟浄の錫杖の鎖に濡れた衣服を干し終わった八百鼡が、心配そうに三蔵達の顔を覗き込んだ。
 敵に救出され手厚く世話を受けていることに違和感を感じているのは、三蔵だけのようだった。
 火の側で、立てた自分の膝に突っ伏す三蔵に、とどめのような声が掛かる。
「天下の三蔵一行が、転覆トリオじゃあ情けねぇな」
「はは。上手いこと言うね、お宅」
 悟浄の返事に、三蔵は頭を抱えた。

 バカだ。
 本格的にバカだ。
 転覆トリオ呼ばわりされて喜ぶバカが、どこにいると言うんだ。
 いや、目の前にいるのがそのバカだと言うことは、十分承知しているが。

 情けなさ一杯でいる三蔵の耳に、常識人面の男が、敵の親玉を気遣う言葉が聞こえた。
 返る言葉が奮っている。
「…はぐれてしまったもので ―――― 」
 ……迷子かよ、紅孩児。
 
 急流に揉まれ、水中で魔戒天浄を発動させた疲労が、一気に三蔵に押し寄せた。
 疲れが体中に錘のように溜まり、皮膚の上にだけ、ぴりぴりとしたざわめきがこびり付いている。
 不快だった。
 不愉快と言っても良いかもしれなかった。
 得体の知れない感覚が三蔵を押し潰しそうだった。
 気の抜けた会話を聞きながら、三蔵はその不快の元が何であるのかを探ろうとした。

 悟浄が魔天経文を広げ持った。
「…つってもよ、紅孩児の目的はこの経文なんだろ?放っといてもその内こっちに来んじゃねえの?」
 ぺらぺらと、濡れた経文を焚き火にかざして乾かそうとする ――――

『!?』

 ふるり。
 経文が震えた。
 経文を凝視していた三蔵以外、異変に気付いた者はいないらしい。
 火に経文をかざす悟浄ですら、何も気付かず独角兒と会話を続けている。
 ふる、ふるり。
 経文の震えが徐々に大きくなり、それに従い、三蔵の身の内のざわめきも大きくなって行く。
 何か、目覚めさせてはいけないものが、三蔵の中で頭をもたげそうだった。
 三蔵は声を出そうとした。
 喉が渇いて強張り、妙に掠れた声が出た。
「 ―――― おいッ」
 焚き火のオレンジの輝きを映した経文に、怪しい陰影が浮かび上がった。
 蠢いている。
 三蔵はごくりと唾を飲んだ。
「手荒に扱うんじゃねえよ」
 悟浄がびくりと身を強張らせ、自分の手の先を見つめた。
 魔天経文は最早誰の目にも明らかなほどに、動いていた。

 のたうっていた。

 その場の誰もが、異様な気配に凍り付いた。
 緊張の糸が、焚き火の爆ぜる音に途切れた。

 ぱちっ

 オオオオォォォぉぉぉオオン!!

「きゃあっ!」
「八百鼡ッ」
 轟音と共に吹き荒れた突風に、八百鼡がなぎ倒された。
 火の付いたままの燃えがらが襲いかかるのを、三蔵も、悟浄も八戒も、身を地面に貼り付けるようにして避けた。
「悟浄ッ、怪我はっ!?……三蔵ッ!?」
 弾かれるように飛ばされた悟浄に駆け寄った八戒が、振り向いて三蔵の異変に気付いた。
「三蔵ッ!三蔵ッッ!?」
 三蔵は八戒の声を聞きながら、茫然と空を眺めていた。

『十三年の時を掛けて、見定めた……』
『お師匠様?』
『江流。あなたならば。あなたにならば』

 柔らかな声と、柔らかな微笑みが、三蔵の脳裏を駆け抜けていった。
 遠い過去の記憶だった。
 三蔵は、幻影のようなそれに、しがみつきたい思いを感じていた。
 光明三蔵。
 父であり、師である、先代三蔵法師。
 自分に経文を受け継がせた人。
 ……今ひとつ、人間性に謎の残る。  
 三蔵の記憶は更に遡った。
 見上げる視線に映る人影。
 自分が拾われる時の記憶なのだと気付いた。
 信じ難い。
 そんな、赤ん坊の頃の記憶が残っている筈がない。
 今までだって、思い出したことなどなかったではないか。
 三蔵は、脳裏にはっきりと映し出される光景に抗いながら、心の一方で納得していた。
  ―――― 封印していた記憶だ。
 自己を守る為、堅く堅く封じ込めていた、忌まわしい記憶が、これから再生されるのだ。
 呪いのような事実が、蘇る。

 川面を冷たい風が渡っていた。
『どしたの?』
 面白がるような男の声。
 今、三蔵はその声の主が誰だか知っていた。
 烏哭三蔵法師。
 額に聖印を持たぬ、異色の三蔵法師。
 経文を譲らぬまま、弟子を玩具のように捨て去った、残酷な異端。
 烏哭三蔵法師の冷ややかな声に、聞き慣れた声が応えた。
『いえ…。今なにか、声が聞こえたんです』
 ……三蔵の、よく知っているヒトの声だった。
 光を背負い、自分を覗き込み、そして。

 伸ばされた手は、自分には届かなかった。

 暖かな体温がすぐ近くにあることを感知した赤子の、泣き声が上がった。
『おやおや、大変。…どうしましょう。淵が深くて赤子に手が届きませんね』
 困った時でものんびりとした声は、明らかに自分の師匠のものだった。
『……やっちゃえば?』
 烏哭の声がした。
『やっちゃいましょうか?』 
 光明の唱える梵語が、韻々と響き渡った。
 刻一刻と蘇る記憶に、光明と烏哭の表情までもがはっきりと浮かび上がった。
 真剣な笑顔の光明。
 ……心底おかしそうに笑う、烏哭。
『…オン』
 封印の記憶が、解き放たれる。

『オン マ ニ ハツ メイ ウン!一反木綿!!

 光明の肩に掛かる聖天経文が、眩い輝きを放ち、長大な本性を現した。
 白ーく、長ーーい、一反木綿。
 宙を翻り、川に沈み掛けていた赤ん坊を包み込むと、光明の手許へと戻る。
  ―――― 端が水に触れ、水を吸い込みやすい木綿が部分的に重たげだった。
 赤子を受け取った光明は、慈愛に満ちた表情で一反木綿を見つめた。
『あなたのお陰でこの子は助かりました。ありがとう、一反木綿』
 一反木綿は、ふるりと一度誇らしげに奮え、経文の形状に戻った。
『さ。急いで寺に戻りましょうか、烏哭。……烏哭?』
 赤子を抱いた光明が振り返ると、烏哭は地に突っ伏して笑っていた。
『いいねえ!天地開元経文って、本当にいいねえ!三蔵法師になってよかったと心から思うよ』
 眦から涙を滲ませた烏哭が、笑いに呼吸困難になりかけながら、声を絞り出した。
『経文って、便利なんですよねえ』
 歩き出そうとした光明が、足を止めた。
『……赤ちゃん。お尻が濡れてます』
『木綿。おむつにしちゃえばあ?』
『………後で洗えばいいことですよね………?』
 再び唱えられた梵語と、また眩い輝き。
 今度は魔天経文がひらひらと宙に広がり、僅かに抵抗を示しつつも、光明の手で畳まれ、赤子のお尻を包み込んだ。
 
『ねェ、光明。無天経文の縁装、黄色と黒のダンダラにしちゃ、ダメかな?』
『裏っ側だけだったら、バレないかもしれませんね』
『……真剣に、鬼太郎色にしちゃおうかなあ』

 暖かな光明の腕に抱かれた、遥か昔の記憶は、そこで途切れた。

「三蔵!……三蔵ッ!!」
 八戒に手荒く揺さぶられ、三蔵は自失から戻った。
 「アノ後」に干されたおむつ経文が、今、目の前の悟浄の錫杖の鎖に、また干されている。
「三蔵!?」
「あ、ああ。」
 目を擦った三蔵は、鎖に絡まるのが通常の魔天経文であることに気付いた。
 ……誰も、魔天経文の正体が一反木綿であることに、気付いていないらしい。
 冷や汗と共に、三蔵は安堵の吐息を就いた。
「…先刻のアレ、一体ナニ?」
 悟浄が、経文の端をパン!と引っ張って伸ばした。
「 ―――― おいッ。手荒に扱うんじゃねえよ」
「っせ ―――― な。乾かしてやってンだろがッ」
 突然経文が発動した。
 この場にいた者は、それ以外の何も気付いていない。
 焚き火の火の粉が飛んで、経文の本体の一反木綿が、火傷で叫んで飛び上がったのだとは、誰も思いも寄らないのだろう。
 ましてや、この魔天経文が、23年の昔に自分のおむつに使用されたなどと、知る由もないのだ。
 あの場にいたのは自分と光明三蔵、そして……
 烏哭三蔵法師。
 自分の人生の端々にその影を現す烏哭の存在を、三蔵は初めて不気味に感じた。

「もし紅に会ったら、その経文を置いて逃げてくれ」
 冗談じゃねえ。
 生き恥の証拠、他人の手に渡せるか。
 三蔵は心中で密かに呟いた。
「さっきから聞いてりゃ、何だってんだ一体」
 三蔵には、悟浄の触覚が、妖怪アンテナに見えた。
「紅孩児に……いえ、貴方達に。一体何があったんですか」
 凄む八戒の肩に、目玉親父が座っているような気がした。

 聖天経文を奪回し、魔天経文を守りきる。
 そして何時か、烏哭と出逢うことがあるのかもしれない。
 三蔵は漠然とそう感じた。

 三蔵の過酷な旅は、まだまだ先が長そうだった。

オマケ@吠登城

「ドリフじゃなかったんだ。彼等が転覆トリオだとすると……」
 薄暗いラボ、軋む椅子に揺られた男が楽しそうにひとりごちていた。
「……八百鼡ちゃんが『じゅんちゃんでーす』、独角兒が『長作でーす』、真打ち登場で王子サマが……」
 笑いに不規則に揺れる椅子の、金属の軋む音が続いた。
「………転覆トリオvsレッツゴー三匹。光明、本当に面白いモノを残してくれたね」
 
 巨大な夕日にシルエットを浮かべる吠登城から、何時迄も笑い声が響き続けていた。










 終 




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◆ note ◆
ネタバレ……毎度バカでごめんなさい
さんぞも、光明様も、烏哭も好きなんですけど

……最後『三波春男でございます』って、言わないとダメ?^^;