■■■  くちづけ 

 木陰に眠る八戒に、静かな足音が近付いた。
 草を踏み分け近付き、八戒の額の上に載せていた布に指先を触れさせた。
 濡れた布地が温いことに気付いた人物は、眉間にしわを刻んだ。
 近くに流れる川ですすごうと、布地を取ろうとした掌が、逆に掴まえられた。
「……三蔵?」
 低い声に呼ばれ、三蔵は小さく舌打ちを打った。

   ◇   ◇   ◇

 木陰にジープが急停車をした。
「すいません、目が痛むんです。ちょっと休憩してもいいですか?」
 眼窩を指先で押さえる八戒に、三蔵が咎め立てるような目つきを向けた
「本格的に調子悪くなる前に言え」
 降車しようとする八戒に肩を貸しながら、悟浄が鼻歌交じりに言う。
「誰かさんと喧嘩中みたいだからあ、八戒も何にも言えなかったんじゃないのお?」
 きっ、と睨み付ける三蔵に、悟浄はウィンクをして見せた。
「お前もさ、イライラして煙草増えてたじゃん。もしかして、八戒の調子悪いのも、気付いてたけど何も言えなかったとか?」
「貴様…!?」
 懐から銃を取り出しかけるが、悟浄が気にした様子もなく背中を向けるのを見て、また納める。
「さんぞ」
「何だ」
 三蔵は悟浄と八戒の後ろ姿から目を逸らし、袂を探りながら答えた。
「三蔵、八戒と殆ど口利かなかったじゃん」
 マルボロを咥える間際に、三蔵は舌打ちをした。
「でも、八戒がおかしいの、気付いてたのってのも本当だろ?」
「てめェまで、何くだんねえこと言ってやがる」
 悟空はまっすぐに三蔵を見つめる。
「八戒が休むって言った時、三蔵、ほっとした貌してた。安心したんなら、そう言ってやりゃあいいじゃん。八戒だって、その方がいいに決まってるじゃん」
 三蔵は、まだ自分よりも低い位置にある瞳を、見つめ返した。

 三蔵は心中でまた舌打ちをした。
『俺と八戒が喧嘩してるって、そう思ってんの、お前等だろうが』
 喧嘩という程でもないと、三蔵は思っていた。
 数日前、もしかしたら一週間程も、前のことかも知れなかった。
 治りかけの傷が化膿して、三蔵は微熱が続いていた。
 放置してもやがて治るだろうことが判っていたので、三蔵は発熱のことを黙っていた。
 何かの折りに指先が触れただけで八戒は気付き、塞がりかけの傷痕を切開して膿を出し、気孔を当ててまた傷口を塞いだ。
 治療を終えて離れる際に、絞るような声を八戒は出した。
「もうちょっと、頼って下さい」
 目線を合わせぬままの言葉を、三蔵は切り捨てた。
「俺は誰にも頼らない。俺に指図をするな」
 八戒の酷く傷付いた目が、三蔵の心に焼き付いた。
 それ以来、八戒と三蔵との会話は、旅の行程に関するものに限定されていた。
『くだらん心配をされるのは鬱陶しい。それなのに……』
 八戒が目を眇めていることに、三蔵が気付いたのは何時だったか。
 瞬きが頻繁になり、食事や宿での休憩の際に、八戒が目蓋を押さえていることが多いと気付いたのは、何時だったか。
 左目が充血しがちになり、右の義眼の碧色だけが益々冴え冴えとしていると気付いたのは、何時だったか。
 その姿を見るのと、胸に痛みを感じた。
 痛みは、苛立ちに似ていた。
 八戒が苦痛を感じて、それを自分に対して訴えないことに、不条理な怒りさえ感じた。
『旅の責任者は自分なのだから、不調を自分に伝えないのは怠慢だ』
 理不尽さの自覚もあった。
 自分で実行しないことを他人に求めてしまう、心の不可解さにうんざりとした。
『くだらん。これだから他人と連むのは嫌いなんだ』
 三蔵の目の前の金瞳が、澄んだ光を放った。
 悟空は嘘を付かない。
 心の内まで、剥き出しにする。
 三蔵は、自分が心中で感じているわだかまりが、急に小さなものであるように感じられた。
 悟空の言うように、ただ素直に、心配していることを伝えればよいのだろう。
『八戒は、俺の我が侭を赦すだろう』
 しょうがないと溜息をつきながらの、八戒の苦笑する表情が脳裏に浮かんだ。

「うん。八戒は三蔵の我が侭に相当慣れてるから、許してくれるよ」
 ぎょっとして、三蔵は悟空を見つめ直した。
 悟空はきょとんとして続けた。
「……謝って、仲直りするんじゃないの……?」
「悟空、お前」
「三蔵、今心配そうな顔してたじゃん」
 余程自分が読まれ易い表情をしていたのか、それとも思考が悟空には通じてしまったのか。
 追究すると怖ろしいことになりそうで、三蔵は悟空から背を向け歩き出した。
「あ、さんぞーお。謝るときには『ごめんなさい』だぜえ?三蔵が俺に教えてくれたろう!?」
「……調子に乗るなっ!誰が『ごめんなさい』なんぞ、言うかっ!?」
 離れた場所から飛ばされたハリセンが、悟空の顔面にヒットした。
 悲鳴を上げながら、悟空は明るく笑い出した。

   ◇   ◇   ◇

 指先を捉える八戒の掌ごと、三蔵は濡れた布地を八戒の眼窩に押さえるように置いた。
「俺のことは、俺が自分で判断する。俺が自分のことを一々テメエらに報告する必要はない。てめェら下僕については、俺に管理責任がある。だからお前は、不調を俺に報せる義務がある」
 三蔵の姿を見ぬままに、八戒は微笑んだ。
「横暴過ぎます」
「煩い、付いて来る気なら口答えするな」
 八戒が尚も言い募ろうとするのを、三蔵は唇を触れ合わせることで防いだ。
「……ズルいなあ」
「文句あるのか、朴念仁」
「いいえ」
 三蔵を引き寄せようとする八戒を、三蔵は手荒く地面に押し付けた。
「寝てろ」
 濡れた布を取り上げ、川へ向かう。
 冷たい川の水に浸した布を手に持つ三蔵が近付いてくるのを、八戒は嬉しそうに眺めた。
「調子が悪いってのに、何をニヤニヤしてやがる」
 不機嫌そうに、三蔵は唇を歪めた。
「ええ、嬉しくて。それにもう、目の調子もよくなったみたいです」
「てめェの言葉は、今ひとつ信頼感がない。『悪化してない』イコール『よくなった』だろう」
 八戒は吹き出した。
「三蔵、それ…自分のことでしょう」
「煩い、本気で具合悪くなったら、次の街で捨ててくからな」
 笑い続ける八戒に、頬を紅潮させた三蔵が布地を投げ付け言った。
「いえ、でも。本当に大丈夫みたいなんです。僕の目の疲れ、ドライアイみたいだったんです」
「あ!?」
「この間から……三蔵と口を利かなくなってから……、僕、涙が出なくなっちゃってたみたいなんです。あなたに、頼って欲しいっていうのは僕の我が侭で、それを押し付ける自分が厭で。あなたと目を合わせるのが辛くて。そうしたら、気持ちが干からびてしまって」
 八戒は、濡れて冷たくなった三蔵の指に触れた。
「おかしいでしょう。そうしたら本当に涙が出なくなっちゃったんです」
 微笑みながら、触れるだけの指を強くした。
「それなのに、先刻あなたが僕に触れて。接吻けてくれて。躯全体に潤いが巡ったみたいだった。あなたが戻ってくる姿を見た時に、悲しくもないのに涙が溢れそうになったんです」
 三蔵は自分の指を取り戻そうとしたが、優しく掴む八戒の掌を振り払えなかった。
「……調子のいいことだな」
「本当ですよ。ほら」
 三蔵を掴まえたままで、八戒はゆっくりと身を起こした。
 そっと目を閉じると、透明な涙がぽたりと、三蔵の指先に落ちた。
 涙の熱が、指先から染み通って来そうだと三蔵は感じた。
「だからもう、大丈夫なんです」
 背に回される腕に抵抗することなく、三蔵は八戒に抱き寄せられた。
「幾ら頼ってくれと言ったところで、肝心な時に役に立たなかったら、恥ずかしいですしね」
「言ってろ」
「たまには心配される側に回るのも、気持ちいいかもしれないし」
「貴様等揃って調子に乗りやがって…」
 笑いに震える八戒の躯を、押しのけようと三蔵は藻掻き始めた。
 八戒の腕の力は益々強まった。
「『付いて来る気なら口答えするな』」
 三蔵の動きが止まった。
「有言実行ならぬ無言実行なら、付いて行くのに差し支えないんですよね?」
「てめェ、何を……!」
 三蔵からは見えぬ肩口で、八戒がにこやかに微笑んだ。
「自分が心配させないクセに、ヒトのことは把握したがる……我が侭には我が侭。あなたが何も言ってくれないなら、僕も黙ってあなたのことを見つめ続けるだけです」
「何言ってやがる!?」
「毎朝検温とか、しちゃおうかなあ。体温計咥えさせるのでもいいし、おでここつんってのも、いいですねえ。それとも毎日お目覚めのキスで確かめちゃうとか…」
 くるりと体勢を返した八戒が、器用に三蔵を組み敷いた。
「……ね。あなたも我が侭ぶつけてくれるから、僕もあなたに我が侭を通すことにします。変ですか、僕、あなたの我が侭が嬉しいんです」
 唇の触れ合う距離で、言葉を紡ぐ。
「僕の我が侭を、赦してくれますか……?」
 唇から唇に、直接言葉を移すように。
 戯れるように触れ合う微かな感触が、蜜の甘さで躯にたまって行く。
 しょうがないと溜息をつきながら、赦しているのはどちらなのだろうと、三蔵は思った。

「俺を心配するなら、俺が本気で辛くなる前に察してみせろ。てめェが調子の悪いのを隠す気だったら、決して俺に悟らせるな。金輪際要らん心配なぞさせるな。黙って俺に付いて来い」
 甘さを吹き飛ばしてしまいそうな素っ気ない口調に、八戒もにやりと笑みを返した。
「これは物凄い関白宣言……。でも、攻略し甲斐があると言うものです。……あ。」
 ぽたり。
「先刻から、止まんねえな、それ」
「接吻けてるから」

『それ、理由になるのか?』
 言いかけた言葉は、また接吻けで塞がれて。















 終 




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◆ note ◆
久々あまあまです
亭主関白宣言するさんぞと、実質亭主八戒さん
……ごじょさん、また心配するばかりですね
いいヤツだなあ…