■■■  嘴にチェリー 

 ぬめるような女の膚が、シーツの上で踊っていた。
 誰に憚る必要もない薄暗い密室に、しかし堪えた呼吸は狂ったリズムで続いた。
「ねえ、もう……!」
 苛立たしそうな口調も、物欲しげな声音を隠せない。
「我が侭だなあ、玉面公主様はァ」
 冷たい眼に観察する愉悦が滲むが、じらされ切った躯は臆面もなく媚態を曝すことを選んだ。
 蕩けた声と、蕩けた瞳。
 青白く浮かぶかいなが、男の首に絡んだ。
「早く」
 ぐい、と、強く男を引き寄せる。
「……早く!」

 十数年前。

 砂漠のただ中に、学生風の男がトラックの荷台から飛び降りた。
「助かったよ。悪いね」
「いや、いいさ。学生さん、遺跡の調査だって?まあ、俺達に取っちゃ只の石くれと同じだがな。頑張んなよ」
 男は走り去るトラックを暫く見送り、やがて地面を蹴るようにのんびりと歩き始めた。
 烏哭こと、ニィ・健一。
 額に神聖の証のチャクラを持たぬまま、無天経文を引継ぎ先年三蔵法師となった、若者。
「ヒマだったからなってみたけどね。大して面白いモンでもなかったね、三蔵法師も」
 時に三蔵法師の威光が絶大な影響力を表すこともある。権威主義に陥った人間が『三蔵法師』相手に見せる対応は、確かにニィのユーモアに触れる場合もあったが、それもすぐに飽きた。経文も法衣も金冠も、肩に引っ掛けたナップザックに無造作に突っ込まれたまま、身に纏うことは滅多にない。

 まだニィが少年のか細さを持っていた頃に、老僧と出逢った。無天経文を守る、遊行中の三蔵法師は、そのままニィと行動を共にするようになった。
 三蔵法師は、若いニィの知識の吸収の早さを愛でた。
「ニィ、お前ならば何にでもなれるだろう。なろうと思えば、如何なるものにも手を届かせることが出来るだろう」
「そうかもね」
 各地の寺院を渡り歩き、その寺院や近くの大学の書庫の資料を読み尽くせばまた、旅に出る。そんな生活を続けていた。
「ただ、なンでも出来るってのは、面白くもないもんでね。何をやっても飽きるのが目に見えてる。僕は何にでもなれるだろうけど、それはきっと、楽しくもなんともない人生なんだろうね」
 薄暗い書庫にひとつだけ、携帯ランプを持ち込んで泊まり込むことが多かった。ニィはよく、ひんやりとした木の床にべったりと腹這いになって書物を広げた。
「……この著作者の本、一冊だけ欠けてるんだけど」
 書物に目をやったままでニィが言った。
「やれやれ。今度は何処まで行けばそれがあるんだ?」
 三蔵はニィの傍らに腰を降ろし、まだ細い少年の首筋に手を回した。
 漆黒の髪に指を潜らせ、顎をくるむように撫でた。
「北の方に、著作者縁の寺がある。そこには多分贈呈されてるでショ?」
 自分の背にのしかかる重みを、気にした様子もなくニィは続けた。
「歩いたって2,3週間ってトコかなあ」
 捲り上げられたシャツから痩せぎすな背が現れ、そこに唇が落とされた。脇腹には、慈しむように行き来する掌。
「今度はそこに行きません?」
 躯を仰向けに返されたが、ランプの明かりが紙面に当たるよう、ニィは顔の真上に本を掲げてページを捲り続けた。そんなニィの態度にも、落とされる唇の熱は益々高まるばかりだった。
「……まだここに用事でも残ってンのかな。だったら僕ひとり、先に向かっててもいいかなあ?」
「ニィ。お前は師を簡単に見捨てるな。……ああ、ああ、判った。明日にも出立しよう」
「助かりますねえ。僕ひとりだと、門前払いを喰らい兼ねない。いちいちアナタに紹介状を書いて貰うのも悪いからねえ」
「心にもないことを言う」
 ニィが寝転びながら薄く笑った。
「判ってるのに、なんで僕みたいなのを連れて歩きたがるんだか」
「さあな。平気で人を利用する。情がない。感謝もない。人を見捨てるのも何も感じない。モノへの執着もない替わりに、何も大事にしない。かといって自分だけを可愛がるのとも違う。知識は何でも呑み込むのに、それを何に活かそうという意欲もない」
 ニィが老僧と視線を合わせた。
「無だ。虚無だ。何をも呑み込み、光すら漏らすことのない無。何をも生み出すこともない。一切虚空、色即是空、空即是色……」
 ニィの漆黒の瞳が、皮肉に笑った。
「人に乗っかっておいて、空即是色とは恐れ入りますねェ」
 本を閉じると、無造作に投げ出した。
「もういいのかね?」
「読み終わりましたよ。で?まだ僕の上で考え事を続けるおつもりなンですかね?」
 老僧は呟きながら、またゆっくりとニィの躯に掌を伸ばし始めた。
「無だ。無に魅入られたのだ。無天と名の付く経文を守り、有と色を知りつつ一切虚空を唱え。それでも在野の子供だったお前に完全な無を見た。全くお前は呪いのようだよ」

 老僧の真意がどこにあったのか、それはニィにも判らなかった。
 それでも老僧はニィと共に過ごし、烏哭と法名を授け、最期に経文を譲った。
「明け烏の、世界が目覚める時に真っ先に突き付けてくる、鳴き声だね。夕暮れに世界の終わりを告げる声だね」
 臨終の床にある師に向かって、ニィは確認するように尋ねた。老僧は、微かに頷いた。
「天地開元経文……。何に活かせるワケでもない人間に託しちゃって、ホントにいいのかなあ?」
「経文を、利用してはいかんのだ」
 老僧は、干からびた声で、急に明瞭りと発音した。
「烏哭、お前は無だ。何をも生み出さない。吸い込むばかりだ。だからこそ、経文の守り人に相応しい」
 老僧は咳き込み、枕元の水差しに無意識に視線を遣った。傍らに正座するニィは、表情の浮かばぬ黒い瞳を、老僧に向けたままで続きを促す。
 老人の意識が、急速に混濁する。
「天地を創造する際に使用された経文を、何故ヒトが持たされておるのか。……強大な力を目の当たりにさせ、そして経文を維持し続けるということは、また新たに天地を創造する必要が今後あるかも知れぬと、畏怖心を起こさせる為ではないのか。或いは、その力もて、世界の終焉をもあり得ると、人の世に神々の威光を知らしめん為だけのものなのではないのか……?」
 老人の嗄れた声が途切れ途切れに続いた。
「何にも利用せず、力を持たせぬまま、お前の虚無の中に全て取り込み、眠らせろ」
 ニィが水差しの水を口に含んだが、老僧の視界には既に何も映ってはいないようだった。
「虚無……。お前は何も産み出さない。何も望まない」
 口元で耳を澄まさねば聞こえぬほど小さな声が、暫く続いた。
 やがてニィは、口移しで乾いた唇に水を注ぎ込んだ。
「可哀相に。何もしなければ、何も産み出すことはないのに。『何もしないこと』を、死ぬ間際まで願ってたんだねえ」
 立ち上がると、もうニィは、事切れた老人を振り向くことなく歩き始めた。

「何も望まず、何にも執着せず、行き当たるもの全てを、ただ吸収し尽くすだけ。何も持たず、何も産み出さず。……―――― むいちもつ。」
 ニィには、死の間際まで抑え付けねばならぬほどの、本能のような欲が、理解出来なかった。

 乾き切った空気が、喉を灼いた。
 ニィは灼熱の太陽の下、遺跡を歩き回っていた。汗が顎を伝って、躯の真下に出来た濃い影に、更に色濃く染みを落とした。
 古文書に依れば、その遺跡は500年前に神々に封印されたものの筈だった。神の為した技を、ニィは自分の目で確かめたかった。封印を構成している術を分析してみたかった。譲り受けた無天経文を解析すれば、封印を解くことも可能だろうと予想していた。
 ごろごろと転がる、妖怪達のされこうべがニィを迎えた。
 太陽に曝され、砂に埋もれてはまた、風に削られながら姿を現す。石柱が林立するばかりの城址も、同じように陽と風と、時に曝され、崩れて砂と化して行くばかりだった。
 城址の中心の石柱には、誰ひとりとして触れることの叶わぬ厳重な封印が施されていた。恐らくそれが、500年前に地上を朱に染めた牛魔王の封印なのだろうと見当がついた。
 牛魔王を中心として、幾つかの石室が配置されていた。牛魔王の妻子も共に封印されたのだという。石壁に埋め込まれたようなその姿を、ニィは感慨もなく眺めた。
「封印の呪文は幾重にも絡み合ってはいるものの、時間をかければ解ける範囲だね」
 興味を失い掛け城址から立ち去ろうと思いかけた時、ニィは微かな呻きを聞き取った。
 城跡の外周にも石柱が並んでいた。見せしめのように、石化した妖怪が鎖で雁字搦めになっていた。石柱のうちのひとつから、恨みの籠もった呻きが続いた。
『離セ……。ココカラ離セ……!』
 石化した体中には、呪符がべたべたと貼られていた。石柱も、石柱に繋ぐための鎖も、黒々とした筆跡、鮮明な朱印の捺された呪符だらけだった。これ見よがしなほどに、顔面には直接真言が書かれ、それに重ねて眼窩を塞ぐかのように呪符がまた貼られている。
 唯一自由になる口から、怨嗟の声が掠れて漏れ、風に乗って城跡に流れ続けた。
『離セエエエ!アタシニハコンナ所ニ繋ガレル理由ナンテナイ……!』
 法力を持たぬ者には、只のうらさびしい風の音にしか聞こえぬだろう。石柱の間を渡る風の、笛の音としか聞こえぬだろう。

『城ノ者ニハ妾者ト誹ラレ、正妻ニハ毒虫ノヨウニ蔑マレ、挙ゲ句永キ時ニ渉リ曝サレ続ケテ……。牛魔王ノ心ハ、真ニ我ガ物デアッタトイウノニ……。コンナ筈デハナカッタモノヲ……!』
「それならホントは、どんな筈だったっての?」
 突然返された声に、妖魔は沈黙した。
「何の誤解で500年も繋がれちゃったワケ?本当はどうなる筈だったって?」
『アタシハ……アタシハ……!牛魔王ヲ真実アタシダケノ物ニスル筈ダッタ!アノ人ハアタシニ世界ヲクレル筈ダッタ!コンナ小サナ城デハナク、桃源郷全部ヲ呑ミ込ミ尽クシタ強大ナ帝国ヲ、アタシニクレル筈ダッタ……!』
「やれやれ」
 ニィは溜息をついた。
「面白くもない。そんなことを500年も繰り返して言ってたんだあ?牛魔王は厳重に封印されてる上に、その正妻とやらはその間ずっと、アノヒトの傍にくっついてるよ。与えるという口約束に騙されて、アオリ喰らって曝し者とは……。可哀相にねえ」
 くすくすという、ニィの忍び笑いを聞いた妖魔が激昂した。
『……殺シテヤル!壊シテヤル!何モカモ壊シ尽クシテ、滅茶苦茶ニシテヤル!』
 怨恨の絶叫が、狂ったように辺りに響き渡った。
『コノ世界ノ方ガ狂ッテルンダ!アタシガ全部壊シテヤル!世界中ヲ滅茶苦茶ニ壊シテヤル……!!』
 目の上に貼られた封印の、端から悔し涙が溢れて流れた。
『世界中壊シテ、アノ人ヲアタシダケノ物ニシテ、アタシダケノ、アタシダケノ世界ヲ手ニシテヤルゥゥゥ!!』

 ニィの背で、ナップザックにしまい込まれた経文が、ぼんやりと光を放った。

 「また新たに天地を創造する必要が今後あるかも知れぬと、
  畏怖心を起こさせる為ではないのか。
  或いは、その力もて、世界の終焉をもあり得ると、
  人の世に神々の威光を知らしめん為だけのものなのではないのか……?」

 嫉妬と怨嗟に狂った女が世界を破壊尽くしたら、新たに天地を作り直すことが出来るのだろうか。一体どれだけ狂った新世界を、この女は作り出そうと言うのだろうか。

「壊せる?奪える?本当に?それとも口先だけかな……?」
 ニィは、吼え続ける女の躯を戒める鎖を眺めて、両手を組んで印を結んだ。
「 ―――― オン」
 金属の落ちる耳障りな音がし、女の片腕の、手首から先だけが自由になった。
「アンタの躯を戒める封印は、四肢にそれぞれ4重に施されている。右腕だけは今僕が解いたのがひとつで、残りは3つ。それぞれの封印が絡み合ってはいるが、古びて綻びを探すことも可能だと思うよ。……やる気があるならね。世界を壊し、新たに自分の帝国を築こうってヒトなら、そのくらいは自力で破ってくれなきゃね」
 女に向かってそれだけ言うと、ニィは踵を返して歩き出した。

「次に逢う時に、頑張ってる所を見せてくれたら。手伝ってあげてもいいよ?壊して奪って。憎しみと嫉妬で歪んだ欲望で、何が作り出せるのか。何を作り出そうと言うのか。……興味あるなあ」
 既に女からは離れ、ニィの独り言も届かぬ距離が開いていた。
「虚無の淵に、キミも取り込んであげるよ。世界の崩壊も、新たな狂った世界さえも、全て」
 砂漠の城址は日差しに白く浮き上がり、蒼穹の眩しさと相まってニィの視界に焼き付いた。ただ足下の影だけが、黒々と落ちてニィに従う。
「神々の手に依らず、ヒトの手で。世界の終焉と始まりを。それすら呑み込み尽くした僕を、まだあなたは『虚無』だと言うだろうか……?」
 くつくつと、楽しげな笑みが自然とこぼれた。
 乾いた砂漠に続く細い街道を、通りかかる車を待ちながらニィはひとり歩き続けた。

     『 ―――― さあ、ゲームを始めよう。』

「早く、ニィ!」
 首に絡む手首に、ニィは十数年前のことを思い出していた。この細い手首は、何とか我が身を縛る封印を解き、そして短期間で、散らばっていた牛魔王の一族の末裔達をまとめ上げた。
「我が侭で辣腕家の玉面公主サマ。真のお望みは、何でしょうかね?」
 吸い付くような肌触りの脚の間に躯を進めながら、ニィはまだ玉面公主をじらし続けていた。白い躯に滑らせる指先に、体温が上がりむせるほどにパヒュームの香りが漂った。
 玉面公主は両手でニィの顔をくるむと、深紅に染めた唇を寄せた。
「……痛ッ!?」
 ニィの唇を噛み破った玉面公主は、憎々しげに囁いた。
「狂った様が見たいなら、幾らでも見るがいいわ。アタシをもっと狂わせてみるがいい。冷めた目でそうやって……本当にイヤな男!」
 傷の痛みに片目を眇めながら、ニィは漸く玉面公主の望みを叶えた。
「時折予想が付かないことをやってくれるから、アナタのことスキなんですよ」

 片頬だけで笑う唇に、紅を滴らせつつ。















 終 




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◆ note ◆
また経文のお話で、今度はニィ・健一主役でした
……書いてる自分だけ楽しんでたら、すいません
玉面公主の封印、ニィ・健一が解いたに違いないという、思い込みがございまして、
それでずっとお話書きたかったんです
満足満足