■■■ ROAD - 1 -
山岳地帯に続く森林をジープは進んでいた。
暗く被さり茂る木々の中、うねるように隘路が続く。
時折、鳥や獣の声が甲高く響いた。
呼吸をすれば、生きた植物と朽ちる植物の匂いと、しっとりとした空気が、浸透圧で躯に染み通って行きそうな濃度で肺に流れ込んだ。
原始から続く濃い緑のただ中に、ちっぽけなヒトの足跡が通路を築き上げたのは、奇跡のようなものだった。
野生の世界だ。
エンジン音を響かせ土埃を巻き上げながら、ジープは森を抜ける細く長い道を進んでいた。
三蔵一行が天竺近付くにつれ、妖怪達の攻撃は昼夜分かたぬ執拗なものになっていた。
「夜くらいゆっくり眠らせろよな!」
ジープに揺られながら、悟空が口を尖らせつつ言った。
「てめェはその分昼間寝てんじゃねーか」
後部座席に悟空と並んで居眠ることの増えた悟浄の言葉を、三蔵は鼻で笑った。
「揃って寝てる間に天国に行けるとは、呑気で羨ましいことだな。いや、向かうは地獄か?」
悟空と悟浄が叫ぶ。
「冗談じゃねえっつの!俺はいい女と一緒にイく天国以外興味ねえの!」
「俺だって冗談じゃねえよ!河童と一緒になんざ、どっこも行く気なんかねえんだからな!?大体三蔵だって、何時だって寝てんじゃんか!」
「……貴様等と一緒にするなと、何度言えば判るんだ、この馬鹿ザル!」
ジープを包む空気が、前部後部共にぴりぴりと電気を帯びた。
「あのぅ。」
運転席から、微笑みを湛えた声が上がった。
「そのパターンの口論も、そろそろ聞き飽きて来ました。僕まで居眠っちゃいそうなので、もっと別の刺激のある会話にして頂けません?……例えば」
八戒の言葉が途切れた瞬間に、ジープが大きく撥ねた。
深い森の中、うねるように続く道を塞ぐ倒木を、減速せずに踏み越えたジープがバウンドした。
助手席から上体を捻るよう振り返っていた三蔵は、大きな振動に堪えきれずに座席の背にしがみついた。
悟空も着地の衝撃に舌を噛み、金瞳に涙を滲ませた。
悟浄が冷や汗を浮かべて前方へ顔を向けると、積み重なって倒れる大木が見えた。
八戒は進路を変えるどころか、ステアリングを握り込んだ掌に力を籠めた。
突っ込む気だ。
悪くて追突、良くてジープのタイヤがその大木を乗り切ることが出来たとしても、木の積み重なる頂点でバランスを崩して雪崩れるだろう。
いや、ジープがぶつかる以前に白竜の形態に戻り、乗員が倒木の壁に叩き付けられる可能性もある。
「待った、はっか…!やめ、止め……!」
目前に迫る壁に、悟浄の声は音程を高く狂わせた。
手荒いシフトチェンジと、後輪が土と砂利を噛んで滑り枯れ枝を踏み折る音、車体のフレームの一部が軋むような音がした。
一瞬の騒音と、静寂。
巻き上げた土と木っ端が、急停止したジープに降り注いだ。
「……例えば、このくらい新鮮な刺激が感じられると、僕もすっきり目を醒まして運転を続けられるんですけど」
不用意な体勢で振り回された三蔵が、笑顔の八戒を睨み付けながらジープを降り、悟空悟浄もそれに続いた。
深い森の、柔らかに積もった腐葉土に、それぞれの靴が沈み込んだ。
「八戒。貴様はまだ言語中枢が発達している方だと思ってたんだがな。人類だったら、態度で表さず口で示せ!」
ジープが白竜に戻り、一度空に舞い上がると八戒の肩に留まった。
「三蔵サマ。俺の口まで、悟空の食う専門の口と一緒にしてねえ?」
まとわりつく枯葉を払い落としながらの悟浄に、同じく髪に絡んだ小枝を振り落とした悟空が噛み付いた。
「俺だって悟浄と一緒にされたくはないけど!でも八戒ほど怖いことは、俺もしてないんだけど!」
剣呑な空気が辺りに漂った。
三蔵が懐に手を入れ、M10の撃鉄を起こした。
八戒は脇を締め、気孔を放つ為に掌に気を集中させる。
悟浄の手に錫杖、悟空の手には如意棒が現れた。
「……うぜェんだよ!!」
三蔵の声を合図に、4人はそれぞれの得物を奮った。
悟空の振るう如意棒に、樹上で構えていた妖怪が数名同時に叩き落とされた。
錫杖の鎖が鈍い銀の煌めきを引き、潜んだ影ごと大木をなぎ倒した。
八戒の掌に溜められた輝きが、空気をびりびりと震わせて、妖怪達を圧し包んだ。
轟音と絶叫の間を縫い、M10の銃声が森を切り裂いた。
連日続く戦闘の、火蓋が今日もまた切られた。
昼尚暗い森の中、木々が黒々とした地肌を見せていた。
散開した妖怪達を追った八戒は、残り少なくなった敵に向かって立て続けに気孔を放った。
輝きに押し潰された妖怪の絶叫が途中で途絶え、また新たな絶鳴が上がる。
「いい加減、片付け終わりたいですねえ」
小さく呟き、また近付いてくる気配に向かって掌を向けた。
「……、と。」
「俺だってば」
木の陰から現れた悟浄がホールドアップしているのを見て、八戒は苦笑を漏らした。
「随分ばらけてしまいましたけど、そろそろ全部片付く頃でしょうか?」
「静かになって来たみてえだしな」
茂みに転々と倒れる妖怪達を見ながら、元の地点に戻る。
ジープが急停車をした場所まで戻り、ふたりは倒木に腰掛けた。
倒木は、川を塞き止める簡易のダムのように、路を塞いで積み上げられていた。
「……こんなモンまで作って、俺らを足止めしようとしたんかね。ご苦労さんなこったな、結構重たそ」
自分の寄り掛かる大木を掌で叩きながら、悟浄はポケットを探りジッポを取り出した。
石からは火花が飛ぶばかりだった。
「参ったね、ガス欠かよ。……クソ坊主はまだ戻って来ねえのか。サルと揃って迷子?」
言葉が終わらぬ内に、悟空の声と枯れ枝を踏み分ける足音が近付いて来た。
「……おーい。片付いたよ。ねえ、腹減った!何かない!?」
「ったく、騒々しい奴だな」
「成長期ですから。お昼抜いちゃいましたしね……」
微笑みながら、八戒は荷物から食料を取り出そうと立ち上がった。
足止めを喰らったついでに、食事の時間にしてしまえばよいことだ。
缶詰を手に、悟空の方を振り向く。
「……悟空、三蔵は一緒じゃないんですか?」
「まだ、戻ってねえの…?」
悟空の見上げてくる瞳に気付き、八戒は宥めるような笑顔を向けた。
「もう戦闘の気配もないし。アノ程度の敵に三蔵がやられるとも思えないし。悟空は先ず食事摂ってしまってください。僕らが探しに行って来ますから」
「三蔵、どこまで行っちゃったんだろ」
悟浄が肩をすくめながら立ち上がった。
「しょーがねーから、先にその辺見て来るわ」
「悟浄、頼みます」
八戒は携帯コンロで缶詰のスープを直に温め、マグカップに移しパンと一緒に悟空に手渡した。
悟空は無言のままでパンを囓ろうとし、八戒の肩のジープに気付いた。
「お前も腹減ってるよな。ほら」
差し出された掌の上のパンの欠片に、ジープは嬉しそうに囓り付いた。
「……三蔵も、今頃腹減らしてるかなあ」
「悟空」
八戒の視線に気付いた悟空は、残りのパンを一口で口に押し込み、スープを慌てて飲み込もうとした。
「あちち。すぐ探しに行ってやんなくちゃ」
「そうですね。もしかしたら迷子になってるかもしれませんしね。……でも悟空、大丈夫なんでしょう?差し迫った危険が三蔵を襲っているような…そんな気は、今あなたはしていないんでしょう?」
八戒の声には、微妙なニュアンスがあった。
「うん。怖くなるような、嫌な感じは今してない。……ただ、三蔵が目の前にいないのが、不安なだけ。帰って来てくれたら安心出来るのにって」
悟空と三蔵との間にある絆の強固さに、八戒は諦め交じりの嫉妬を感じていた。
互いを繋ぐ『声』が、羨ましくもあった。
だが、悟空は今は、三蔵の危機的な声を感じてはいない。
三蔵の身を気遣うのとは異質な安堵を覚える自分に気付き、八戒は自嘲した。
「不安で心配なことには、変わりありませんからね。全く、三蔵も困った人です。僕ら全員に、まんべんなく心配かけておいて、反省の色ってモノがないんですから」
悟空、悟浄、八戒。
それぞれとの間の絆の深さを、いつか三蔵が認めてくれたらよいのにと、八戒は思った。
三蔵の、自分を顧みぬ捨て身の強さは、絆をも何時でも断ち切る覚悟、または断ち切られる覚悟を持つが故の強さだ。
八戒は、三蔵の情の強さを恨めしいと思った。
熱いスープを無理矢理飲み終わった悟空が勢い良く立ち上がる。
「じゃ。俺行って来るから」
ジープが一声高く啼き声を上げ、悟空を追った。
「僕はここで待機してますから。ある程度探したらここに戻ってください。三蔵も必ずここを目指して帰って来ようとしている筈なんですから!」
八戒の声に、走り去りながら悟空は手を振った。
「……さて」
ひとり取り残された八戒は、手早く缶詰や携帯コンロを片付けると、旅の途中で入手した地図を取り出し、周囲の地形を読み取ろうとした。
等高線が、緩やかに、ところどころ押し迫る波のように狭まって、描かれている。
長い時間を掛けて蓄えた豊かな水が地中深くに流れ、過去や現在に流れる渓流に深く抉られた地形が、峰を入り乱れさせている。
恐らく、尾根に細々と維持されて来たこの道以外の場所には、地図に記されていない渓流や沢も山程あるのだろう。
八戒はふと空を見上げた。
遠吠えが聞こえた。
陽光を遮り茂る木々の下の、湿り気の多い土に染み込むような声だった。
静かに、細く。
だが朗々と。
誰かに呼びかけるような、獣の遠吠えだった。
大地の奥深くに脈々と流れる水にまで、この声は染み通っているのかもしれない。
八戒はつい遠吠えに聞き入り、頭を振るった。
「大型の肉食獣が徘徊している可能性があるとすると、急いだ方がいいかもしれませんね」
地図を食い入るように眺めた。
沢が入り組んでいる。
先程仰ぎ見た空には、重たく湿った色合いの雲が流れていた。
雨が、降る。
湿った木立の黒と濃い緑色の中を、白い色が移動した。
泥にまみれた法衣が、それでも暗い色相の森の中で浮き上がるように輝いていた。
よろめきながら進むのは、捻った足首を庇いながら歩いている為だった。
「チッ」
躯の重心を崩して手近の樹に手を突いた三蔵が、舌打ちをした。
弾む息を落ち着けようと深呼吸をして目を瞑ると、今し方繰り広げたばかりの流血の記憶が、三蔵の脳裏に広がった。
三人の妖怪に退路を断たれて、銃弾を撃ち尽くしひとりの妖怪に飛びかかられ、揉み合う内に崖を滑落した。
滑る地面に抗い、突き出す木の根や岩に全身を打たれ、数十メートルの距離を、転がりながら滑り落ちた。
水の流れる谷底まで落ちて暫く、三蔵も妖怪も呻きを上げることしか出来なかった。
背を強く打った痛みにろくに呼吸も出来ぬまま、無理矢理立ち上がった三蔵は腕を振り上げた。
まだ意識が朦朧としているらしい妖怪の眉間に、弾切れした拳銃の銃把を振り下ろす。
鈍い打撲音は、妖怪の四肢が電気的に引き攣る動きを止めるまで、繰り返された。
渾身の打撃は躯に酸素を取り入れることを要求し、三蔵は腕を振り下ろす動きに促されるように呼吸を取り戻した。
「…………ハァッ!……ハァッ!……ハァッ!……」
妖怪の躯が重たいずだ袋のように大地に張り付く頃、遠くで短く叫ぶ声がやり取りされていることに三蔵は気付いた。
たった今とどめを刺した妖怪の仲間が、まだ三蔵を捜している。
「……ハァッ」
三蔵はよろめきながら立ち上がり、痛みに顔を顰めた。
落下の際に足首を捻ったことに、漸く気付いた。