■■■  ROAD - 2 - 

 梢に渡した防水布に、音を立てて雨が打ち付けた。
 携帯コンロから着火した煙草を咥えた悟浄が、たわむ布地を指で押し上げると、溜まった雨水が流れ落ちた。
「シケてんのなー」
 悟浄の軽さを装う口調にも、八戒は返事を返さなかった。
 悟浄は、つい先程戻って来ていた。
 戻った途端に『悪ィ』と言われて、自分がどれだけ失望を顔に出してしまったのかを、八戒は気付かされた。
 恥ずかしく情け無かった。
 それでも、三蔵を思う心を止められなかった。
 低くたれ込めた雨雲が覆う天は、そのまま、夜闇色に移行して行きそうだった。
 気温が下がった。
 三蔵がどこかで雨を避けてくれていることを、八戒は願った。
 
 怪我をしていたら。
 雨で体温が奪われたら。
 沢に落ちて動けなくなっていたら。
 それとも、まだ妖怪と闘っているのか ――――

 また、遠吠えが聞こえた。

「吸う?」
 急に八戒の口元に、ハイライトが突き付けられた。
 パッケージから飛び出した一本の煙草の、フィルタを眺める振りをして、悟浄が八戒の肩に寄り掛かった。
 伝わる体温が、逆立つ心を宥めた。
 苦笑しながらハイライトを咥え取った八戒に、悟浄は携帯コンロを渡した。

「僕、こんなに躯に悪そうな物、嫌いなんですけど」
「馬ー鹿。ニコチンは躯じゃなくてアタマとココロに効くんだぜぇ?」
「鎮静剤、安定剤としては、効果薄くて効率悪そうですけどねえ……」

 即席の屋根の下に低い笑い声が短く続き、やがて二筋の紫煙が静かに立ち上った。
 雨音だけが続く。
 八戒は地図を広げた。
 現在地点と、散開した妖怪達を追った自分達が、それぞれどの方向へ向かったのかを、確認する。
 悟空の探索が向かった方向を確認したい。
 そう思った瞬間、水を撥ね散らかす足音と、ジープの歌うような鳴き声が聞こえて来た。
 戻って来た。
 三蔵の姿を探して思わず立ち上がった八戒は、謝るような瞳の色の悟空と目が合った。
「ごめ。俺だけ」
 雨の糸の中、すまなそうに笑う悟空を、八戒は仮宿りの屋根の下に手招いだ。
「……悟空。あなたがそんな風に気に病む必要なんて、ありません」
 悟空にそう声をかけてから、自分が煙草を指に挟んでいることに気付いた八戒が、慌ててそれを地面に落として火を踏み消した。
 悟空は、八戒が煙草を吸っていたことに驚くよりも、吸い殻を地面に捨てたことの方に目を剥き、雨に濡れたまま大声で笑い出した。
 ばつが悪そうな表情で吸い殻を拾い上げる八戒の姿に、悟浄も笑い出す。
「……ふたりとも、そんなに面白がらなくてもいいじゃないですか」
 誤魔化すように、まだ笑いの収まりきらない悟空にタオルと地図を手渡す。
 地図を覗き込み俯いても、髪に隠し切れない八戒の耳朶が、ほの赤い。
 こみ上げる笑いを堪えながら悟空は地図を覗き込み、大雑把ではあるが明確に、三蔵の向かった大まかな方角と、自分の探索した方角とを指し示した。
「南に一直線に行ったから」
 髪をがしがしとタオルで擦りながらの悟空の言葉に、悟浄が思わず天を見上げた。
 厚い雨雲は、太陽を透かさず影も映し出さない。
「ホントかよ、それ?」
「……木とか見れば判んの!花はやっぱり太陽好きだし!北側はじめじめしてるし!」
「花なんか、あったか?」
 悟浄が胡散臭そうな表情を浮かべるのに、悟空は憤慨したように周囲を見渡し、すぐ側の大木を指さした。
 垂れ下がる蔦や下生えと紛れてしまいそうな、地味な色合いの着生蘭が、小さな花を咲かせていた。
「あ。あった。なるほど、北側には苔が生える訳ね」
「花だって、いい匂いしてるじゃんか!」
「悟空の嗅覚は、また特別ですし」
 感心したような視線を浴び、悟空は胸を反らせた。
「威張ってっとひっくり返るぜ?ドーブツだなあって呆れただけなんだからよ」
「悟浄なんかドーブツどころかカッパじゃねえかよ!」
 いつもながらの口論が始まるかと思われた時、悟空が黙り込んだ。
「どした?」
「悟空?」
 悟浄と八戒が見つめる前で、悟空は大きく口を開き、欠伸をした。
 強い雨足の雨の中、三蔵を探して駆けずり回っていた疲労に、悟空の躯は休息を欲しているようだった。
 みるみるうちに、悟空の瞳の半分が目蓋に隠される。
「……なんか…急に、ねむ。」
 言い終わると、雨の当たらぬ場所にしゃがみ込み、船を漕ぎ出した。
「俺、もー寝る。きっと今、三蔵も寝てる。よーな気がする」
「悟空!?それってどういう……」
「ともかく、もう三蔵も眠たくなってる。と、思う」
 悟空の肩に掴みかかりそうな八戒に、言葉を途切れさせながら呟き、そして。
「……もう、待ってても。八戒、安心して、いい……」
 悟空の寝息を聞き、八戒と悟浄は目を見合わせた。

「安心して……?」

 ざああああ。
 木々の葉や、大地を叩く雨の音が続く。

「……見てみ、この呑気そうなカオ。お子ちゃまだねえ」
「ええ」
「すーこら、すーこら」
「ええ」
「こいつが。こんだけ平和そうに寝てんだから、本気でダイジョブってことでしょ?」
「……ええ」
「その内自力で帰って来るってこったろ?……でも」
「でも?」
「やっぱ、迎えに行くのね」
「ええ」

 八戒は立ち上がり、眠る悟空の顔を見た。
 生乾きの髪から覗く目元も、薄く微笑んでいるように見える。
 三蔵との、説明のつかない繋がりを持つ悟空を、八戒は羨ましいと思った。
 自分には持てない繋がり。
 絆。
 悟空のようには、誰もなれない。
 自分も、悟浄も。
 見えない、感じないからこその、焦燥感。
 そしてその焦燥感が育てる感情を、悟空は知ることがないのだと気付く。
 募るような不安感と苛立ちは、常にあるのだ。
 三蔵が自分の目の前にいても、腕の中に閉じ込めていてさえも、だから強く欲する。

「ライター、サッサと連れて帰って来いよ」
 ここで待ってるから、とは、悟浄は口には出さなかったが。
 それも悟浄だけの持つ、三蔵との絆のカタチなのだろうと、八戒は思った。
 そして、自分は。
 湿り気を帯びた地図を広げ、地形をもう一度頭に叩き込んだ。
 悟空が感知するほどの危機的状況にはないのであろうが、帰還にこれだけ時間がかかっていると言うことは、何らかのアクシデントに見舞われているであろうことには違いない。
 道の渉る尾根を頂点として、地形は下っている。
 三蔵の向かった方角に、かなりな急斜面を表す等高線の狭まりが、切り込むように描いてあった。
 地図に辛うじて載る程度の規模の河へと繋がる、谷だ。
 
「悟空を頼みます。三蔵と一緒に、帰って来ますね」

 『しょーがねーな』という目付きで、悟浄は走り出した八戒の背を見送り、また新しい煙草にコンロの火を近付けた。

 三蔵は額を拭った。
 沢の斜面を登ることが出来ず、流れる渓流に沿って進むしかなかった。
 痛む片脚を庇って歩くうちに、息が上がり汗が滲んだ。
 雨が降り出し、一気に気温も体温も下がったが、汗はひかなかった。
 妖怪の血液と脳漿にまみれた拳銃は、法衣の袂で拭ったというのに、掌の汗にまたぬるついていた。
 追っ手の気配に気付いた三蔵は、銃を懐に素早く突っ込むと、手頃な樹の枝に体重をかけて折り取った。
 裂けた生木の白い色を、振り向き様に勢いを付けて突き出す。
「……ぐっ……ハ!」
 俄作りの木刀が、青龍刀を振り上げて襲いかかろうとした妖怪の腹に食い込んだが、皮膚を破って内臓へ達するほどの致命傷を与えることは出来ない。
 それでも三蔵は、渾身の力を木刀を持つ腕に籠め、抉るように押し捻ろうとした。
 妖怪はにやりと嘲笑い、青龍刀を振り下ろした。
 三蔵の手許近くで、木刀がすっぱりと斬られる。
 短くなった木の枝を見て、妖怪は益々嘲笑う調子を強くしながら青龍刀を再び掲げた。
「玄奘三蔵ぉぉ……!!」
 叫びを揚げて妖怪は踏み込む。
 三蔵は避けずに、妖怪のうち懐に体当たりするように飛び込んだ。
「ぉぉおおお、ぐ、がっ……ッ」
 妖怪は血の塊を吐いた。
 短くなった木刀の、斜めに断ち切られた断面が、妖怪の首筋に叩き込まれたのだった。
 刃は、頸動脈を断ち切り気道に到達した。
 木刀が抉った傷痕からも、妖怪の口からも、空気交じりの血液が噴き出し、三蔵の全身が血に染め上げられた。
 血液が顔に飛沫く瞬間、目蓋を閉じ、すぐに見瞠いた瞳が暗く輝く。
 妖怪の躯がゆっくりと後ろに揺らぎ、三蔵ももろともに倒れ込んだ。

「……ハァッ、ハァッ、ハァッ!」

 這うように妖怪の躯を跨ぎ、腕の先の青龍刀を掴み取る。

「……ハァッ、ハァッ、……ハァッ!」

 また敵の近付く気配に立ち上がろうとしたが、傷めた足が体重を支え切れずに、倒れかける。
 咄嗟に縋った青龍刀を杖に、三蔵は膝を突いた。
 がさりと木を掻き分ける音がして、見上げた三蔵の視線の先に、妖怪がいた。
 妖怪は、頭から朱に染まった三蔵の姿に、ぎょっとしたような目を剥け、すぐ傍らに転がる死体に気付く。
「俺の仲間を殺し尽くしたか。経くらい読むヒマは与えてやるぜ。安心しろ、玄奘三蔵。貴様が死んだら、後で俺が経を読んでやる」
 妖怪が、ぎらぎらと目を光らせながら歩み寄った。
 三蔵は青龍刀を握り込んだ掌に力を入れたが、立ち上がることが出来なかった。
 何とか片膝立ちになり、青龍刀を横に構えて切っ先を妖怪に向ける。

 その時、もうひとつ気配が動いた。
 下生えの揺れる微かな音がし、三蔵と妖怪は同時に振り仰いだ。
 斜面の上方に、灰色の塊が見えた。
 がさり。
 それは悠々とした足取りで近付き、降りてくる。
 巨大な灰色狼だった。
 自分の躯と同じくらいに大きな狼の姿に、妖怪は青龍刀を向け、絶叫を上げた。

 一瞬のことだった。

 灰色狼の巨体が、撥条を効かせて妖怪の躯に突っ込んだ。
 太い前脚が妖怪の躯を仰向けに押し倒し、頭から斜面を滑り落ちた。
 滑落を始めた頃には既に狼の鋭い牙は妖怪の喉笛に深々と刺さり、振り上げられた青龍刀は、妖怪の手から力無く離れて行くだけだった。
 三蔵の近くまで滑落して来た妖怪の、躯の上に乗り上げるようにして、灰色オオカミは食らいついた喉笛を振り回した。
 完全に得物の息を止めたと狼が確認するまで、それが続いた。
 三蔵は動けなかった。
 妖怪の首に食らいつきながら、狼は三蔵に向かっても、警戒の目を緩めなかったからだ。
 狼の毛皮は、雨を弾いて銀に濡れていた。
 強靱で太い足、深い胸、毛を逆立てて膨らんだ背と尾。
 ぴんと立てられた耳と瞳は、真っ直ぐに三蔵に向けられていた。
 漸く得物から離された血塗れの口から、牙が覗いた。
 妖怪に飛びかかった俊敏さと、狼の躯の大きさを思い、三蔵は刀を下ろした。
 この、誇り高い動物に逆らったとしても、勝てるとは思えなかった。
「テリトリを侵したのは俺の方だからな」
 思わず呟いた言葉に、灰色狼の耳がぴくりと動いた。
「悪気はないんだが……。俺を、食うか?」
 三蔵は、自分が平穏な死を迎えられるとは思っていなかった。
 だが、妖怪に襲われるよりも、深い森の中で狼に食われる方が、死に方としては幾分好ましいのではないかと思った。
 思った瞬間、自分の考えが妙に可笑しく感じられ、力が抜けた。
 どさりと地面に腰を着け、投げ出した足の上に青龍刀を渡して置き、目を伏せた。
 瞑った目蓋の裏に、今も自分を待っているであろう者達の顔が思い浮かんだのが、三蔵にはまた可笑しいことのように思えた。
 微かに唇の端を上げ、狼を見た。
 暗い紫色の光彩と、光を集めて絞り込むような光彩とが、出逢った。
 狼が近付く。
 足取りは、始め慎重に、徐々に軽快なものとなって、三蔵のすぐ側にまで来た。
 色濃い獣の匂いと、たった今狼が食らいついたばかりの妖怪の血の匂いを、三蔵は嗅いだ。
 首のすぐ横に暖かな狼の息吹を感じたが、すぐにそれは通り過ぎて行った。
 灰色狼は三蔵の脇に並び、そして匂いを嗅ぎ出した。
 確かめるように、襟元の、背の、耳の、呼気の匂いを嗅ぎ回る。
 緊張の時間が過ぎたのだと、漸く三蔵は気付いた。
 この灰色狼は、寛大なことにテリトリを侵した人間を、見逃してくれる気になったらしい。
 血塗れの掌を嗅がれ、そのまま狼の鼻先が尻まで移動した時には、流石に落ち着かずに身じろぎをした。
 狼が三蔵から離れた。
 二、三歩進んで、振り返る。
「……何だ?」
 思わず、尋ねるように狼の瞳を見上げた。
 狼は歩き出し、羊歯の生い茂る斜面に前脚を掛けて、また振り返った。
 三蔵は立ち上がり、力の入らぬ足を引きずりながら、歩いた。
 青龍刀を棄て、狼の後を追って、木立に掴まりながら崖をよじ登り始めた。
 狼は身軽に跳んだ。
 滑る傾斜や岩肌をものともせずに跳躍して進んでは、三蔵を振り返った。
 二本足ののろまな獣を憐れむ目だと、三蔵には思えた。
「四ツ足に比べて不利なんだよ。あんたと一緒にするな」
 自分の口から出た声が余りに不本意そうに響き、三蔵は笑った。



続く










《Birthday TOP》