■■■  ROAD - 3 - 

 ハイライトが、経過した時間に比例して灰になって行く。
 狼煙のように立ち上る紫煙は、防水布の屋根の内側で小さな渦を作りながら、横方面へ広がり流れて行く。
 悟浄はそれをぼんやりと眺めていた。
「……んーーー」
「小ザルちゃん、お昼寝の時間、終わりか?」
 寝惚けて目を擦る悟空に、声を掛ける。
 雨足が大分弱くなって来ていた。
 悟空も悟浄も、屋根の端から覗く空が、薄く明るみを取り戻していることに気付いた。
 悟空はしゃがんだまま、悟浄は中腰を捻って覗き込むようにして、ふたり並んで暫く天を見上げ続けた。

「なあ、悟浄」
「んァ?」
「あれ、邪魔くねえ?」
 あれ、と指さされた物を悟浄は見た。
 八戒が突っ込み掛けた、道を塞ぐ倒木の関だ。
「邪魔物以外のなんでもねえな」

 悟空は立ち上がると、小降りになって来た雨の中に飛び出し、腕を振り回した。
 驚いたように悟空の肩から飛び立ったジープが、後を付いて飛んだ。
 悟浄の見ている前で、悟空は倒木を押し始めた。
 渾身の力を籠めて積み重なった大木を肩で押すと、重たい音を立てて転がり落ちる。
「おい、サル。どうせジープは、この木の向こうっ側の、進路の先まで移動出来んだぜ?別にこんな重てえもん、動かさなくっても……」
「でも……邪魔、なんだ、よっ!」
 重なる大木を崩しながら、悟空は返事をした。
「俺達の、進む道、をっ!塞いでる物なんか、退けちゃいたいん、だよっ!」
 ずし、と地面にめり込む重たさで、大木がまた崩れた。
「帰り道だって、こんなモンに邪魔されて止まるだなんて、俺、イヤだ!かん!なっ!」
 転がる大木の下に如意棒を突き入れ、テコの要領で転がし始める。
 悟浄は、煙草を一本ふかす間、悟空の姿を眺めていた。
 やがてがりがりと頭を掻きながらジープを手招きし、何事か囁く。
「おい、サル」
「ナニ?」
 振り向くと、車輌形態になったジープに、悟浄が寄り掛かっているのが目に入った。
「人力でやる気か?このバカ。道具とアタマは使え?…っつか、ジープが快く協力してくれるとよ」

 三蔵は息を切らしていた。
 頭上を覆う木々から落ちる、大粒の雨が髪の芯までぐっしょりと濡らしていた。
 先を進む灰色狼が、余りに頻繁に振り返るのが、妙に悔しさを感じさせた。
 劣等生を見る教師の目か。
 出来の悪い子供を見守る親の目か。
「……クソッ」
 勾配を四つん這いになるようにして、三蔵は狼の後に続いて登った。
 狼は、身軽に跳躍を繰り返した。
 岩を飛び越す姿は、強さと優美さの両方を感じさせた。
 汗だくの三蔵には、それすらも恨めしかった。
「……おい」
 狼が岩を飛び降りる。
「……おい!?」
 泥だらけになって這い登った斜面を、今度は下り始めている。
 腫れあがった足首から、血脈を強調するような痛みが走ることに気を取られて動きを止めた三蔵を、狼はまた振り返って見つめた。
「ふざけやがって……」
 呻くように呟いてから、三蔵は、諦めて斜面を下り始めた。
 途端に泥に足をとられ、急勾配を尻で滑り落ちる。
「畜生!」
 誰に向かっての言葉か、三蔵自身にも判らない雑言が口から漏れた。
 辛うじて手の届いた木の株に掴まり、滑落が止まる。
 冷や汗をかいた三蔵が、文句の一言でも言ってやろうと仰ぎ見ると、すぐ真上に突き出した岩から、狼が顔を覗かせていた。
 しぶしぶと、また這い登る。

「あんたのねぐらか?」

 崖の途中から岩肌を見せる岩盤が、平たく続いていた。
 頭上にも突き出す大岩があり、岩と岩の透き間に、洞穴めいた空間が出来上がっていた。
 沢の上からも谷底からも気付かれない、天然の隠れ家だった。
 狼は勝手知ったる気楽な足取りで奥まで進むと、身を震わせた。
 ぐっしょり濡れた毛皮から、雨の滴が振り落とされる。
 撥ね飛ぶ水飛沫に片目を閉じた三蔵は、低い岩の天井に中腰を強いられた姿勢のまま、狼が座るのを眺めていた。
 洞穴の片隅に、まだ赤い色が鮮明に残る、小動物の毛皮が散らばっていた。
 野兎か何かだろう。
 この灰色狼は食事を済ませたばかりで、それで自分は見逃して貰えたのだろうと三蔵は思った。
 ちらと三蔵に視線を寄越した狼は、素知らぬ振りで、尾をぱたぱたと岩の床で動かしていた。
 隣まで行っても、許されるらしい。
 三蔵は、胡散臭そうに片方の眉を上げると、そろそろと中腰で奥まで進んだ。
 迫る岩屋根に、腕をついてまた四つん這いの姿勢になる。
 三蔵の顔の真ん前に、灰色狼の大きな口があった。
 絞り込まれるように光彩の目立つ瞳。
 薄く開いた顎。
 どうしても視線が向かってしまう、並ぶ牙。
 三蔵は、牙から意識的に目を逸らしながら、狼の隣に座った。
 狼の存在を尊重して僅かに開けた空間を、ぐいと押し寄せられて三蔵は目を剥いた。
 ぐいぐいと、狼は三蔵に寄り掛かり、のし掛かって来る。
「……おい」
 三蔵よりも、ふたまわり、みまわりも大きな灰色の毛皮の塊が、どっしりと体重を掛けて来る。
「おいっ、判ったから!ここがあんたのねぐらで、あんたの方が俺より立場が強いってことは、充分承知してる!」
 押されてひっくり返りそうになった三蔵を見て、狼はやっと寄り掛かるのを止めた。
 ふいに躯を離した狼は、石の床にぺたりと腹をつけた。
 前脚の上に載せた顎を動かし、三蔵を見る。
 三蔵も、石の床に躯を倒して蹲った。
 そろりと、狼の毛皮に身を寄せた。

 獣のきつい匂いと体温に包まれ、三蔵は眠りに落ちた。

 遠くから、悲しげな声が聞こえていた。
 呼ぶ声だ。
 親しい者に呼びかける、切実な求める声だ。
 遠吠えに、声が返った。
 共に歌うように、追い掛けるように呼び合っている。
 悲しげな響きはそのままなのに、声は喜びを表すものになった。

 三蔵は目を醒ました。
 たれ込めていた雨雲が去り、洗われたばかりの鮮明な緑色の上に、夕暮れ近い空が広がっていた。
 短時間の睡眠で、深い休息がとれたようだった。
 自分が暖かく柔らかなものに手を突っ込んでいることに、三蔵は気付いた。
 隣に寝そべる灰色狼の背に腕を回し、豊かな毛皮に指を潜らせていた。
 どこかで似たようなことをして、おかしな癖がついてしまったのかもしれないと、三蔵は思い、狼の躯から腕を離した。
 上半身を起こした三蔵を、狼はじっと見ていた。
 暖かな毛皮に抱きついて眠っていた人間を、見守ってくれていたようだった。
 三蔵は、雨に冷え切っていた体温を、自分がすっかり取り戻していることに気付いた。
 灰色狼が小さく鼻を鳴らし、三蔵は笑われているような気分になった。
 微かな遠吠えが聞こえた。
 先程から聞こえていたものは、夢ではなかったようだった。
 遠くの峰から聞こえて来る遠吠えは、呼びかけ合って続いている。

 この灰色狼は、たった一頭で過ごしているようだった。
 群を作る習性があるという狼が、とっくに成熟した状態で一頭でいるのは不自然なのかもしれないと、三蔵は思った。
 群から弾き出されたか。
 それとも昔は、この狼にも連れ合いがいたのか。
 狼の静かな瞳は、目蓋に半ば隠されていた。
 聞こえて来る遠吠えに、耳を澄まして聞き入っているようにも見えた。

 狼の躯に、急に緊張が走った。
 背中の毛が、僅かに逆立ち膨らんだ。
 じっと前方を見やり、耳を小刻みに動かしてそばだてているように見える。
 喉の奥から、呻り声が上がった。
「……待て。あんたの敵じゃない。俺の連れのようだ」
 鬱蒼とした木々に阻まれて通って来ないが、耳慣れた声が自分の名を叫んでいるようだった。
「迎えが来たらしい。世話になったな」
 立ち上がり、片脚を庇いながら岩棚の端まで歩く三蔵を、狼は黙って見守った。
 滑る斜面を登ろうと、張り出した木の枝に手を伸ばした姿勢で、三蔵は振り返った。
 灰色狼は、静かに三蔵を見つめ続けている。
「……じゃあな」
 一言だけ狼に向けて、三蔵はまた勾配を登り始めた。

 声が徐々に近くなって来た。
「ここだ!」
 三蔵が鋭く叫んで返すと、暫くしてまた自分の名を呼ばれた。
 八戒の声だ。
 八戒が近くまで来ている。
「俺はここだ!」
 叫んでから、自分がまた這いつくばるようにして勾配を登っていることに気付いた三蔵は、側に生えている木の幹に掌を突き、まっすぐに立ち上がった。
 その直後に、草木を掻き分け、急角度の斜面を滑り落ちる勢いで、八戒が降りて来た。
 危うく、三蔵のいる場所から、更に下まで滑り落ちるところだった。
 それでも八戒は、泥にまみれた三蔵の姿を、居並ぶ木立の中から見つけ出した。

「……三蔵!」

 三蔵は、その瞬間の八戒の表情を見た。
 焦慮、喜び、安堵、笑み、そして怒り。
 八戒の頭を切り開いたら、一時に様々な小言が流れ出しそうだ。
 三蔵はそう思い、すぐに反論出来るように心の準備をしようとした。
 急に強く抱き締められ、心づもりが吹き飛んだ。
 痛い程に抱き寄せられ、肺が悲鳴を上げそうだった。
 三蔵の躯にきつく腕を回しながら、八戒はひとことも口を利かなかった。
「八戒」
 腕に籠められた力が強まり、三蔵の躯が反った。
「……八戒」
 密着した躯と、肩口にかかる吐息から、熱が伝わって来た。
 三蔵は八戒の背に腕を回した。
 指先が物寂しく感じられたのは、つい先程まで指を潜らせていた狼の毛皮に、自分の頬に押し付けられている黒髪を縫って指を差し込む暖かさを、思い出しているからなのだろうと思った。
 髪に指を差し挿れ、掻き回してしまいたかった。
 ふたりの足が縺れ、急坂に倒れ込むように座った。
 突いた膝や掌が泥でぬるぬるになり、目を見合わせる。
「迎えに来ました」
「ああ」
 くしゃ、と、八戒が微笑んだ。
「ひとりで放っておくと危ないことばかりする人を、お迎えに上がりました」
 八戒の言葉に、三蔵がむすっとした表情を浮かべる。
「信頼し切ることも、黙って待つことも出来ずに、どこまでも追い掛けに来ました」
「……おい」
「ちなみに、ちょっとだけ怒ってます」
「な」
 向かい合ってへたり込んでいた、その距離がなくなる。
 碧色の瞳が三蔵のすぐ目の前に近付き、次の瞬間には唇が塞がれた。
 押しつけられる八戒の唇に、三蔵は応えて唇を薄く開いた。
 互いについばむ接吻けを交わす。

『何度でも、何度でも。
 迎えに来ますから』
『どこへでも、探しに行きますから。
 探し出しますから』
『三蔵』

 指が髪に、潜り込んだ。

 三蔵の捻った足首は、ブーツを脱いでみると見事に腫れあがっていた。
 八戒はそこに掌を当て、気を送り込んだ。
 全身泥にまみれているのに、素足だけが白くきれいなままでいることが、八戒のユーモアを刺激した。
 笑われた三蔵は、泥を八戒の顔に塗りつける真似をする。
「三蔵、やめてくださいよ。僕は泥んこなんか嫌いなんですから」
「俺が好きで泥にまみれているとでも、言う気か!?」
「さあ、どうでしょうね?泥だらけで、しかも獣の匂いまで染みついてますよ?あなた一体、どこで雨宿りしてたんです?」
 正直に答えようかと三蔵は一瞬思ったが、その時遠吠えがまた聞こえて来た。
 もの悲しく、長く尾を引く遠吠えに、返る声はない。

 灰色狼は、孤独だった。
 自分が暖かな眠りに就けたあの時、灰色狼も、自分の体温を感じていたのだろうか。
 二本足でよろぼい歩く、ずぶ濡れの法衣を張り付かせた人間は、狼に体温を分けることは出来たのだろうか。

 黙り込んだ三蔵を、八戒は黙って見つめた。

 三蔵は八戒の背に背負われていた。
 沢の斜面を峰まで上がる間、やはり三蔵は八戒の小言を聞く羽目になった。
 些かうんざりとした面もちで、三蔵も反撃に出る。
「八戒。そう言えばお前、ヤニ臭かったな」
「ヤニ臭いって……。あなたご自分が喫煙者じゃないですか」
「喫煙者だろうが、他人の煙草はヤニ臭いんだよ。……しかも、悟浄の煙草だと?」
 三蔵のマルボロは、雨に濡れてとっくに棄ててあった。
 戦闘開始からずっと、三蔵は禁煙状態だった。
「俺のライターなぞ、貸す筈がないだろう」
「意地悪いですねえ」
「他人の煙ほど、腹が立つモンはねェんだよ!」
 八戒の背に揺られながら、三蔵は目の前の黒髪に鼻を押し付けた。
「ヤニ臭え」
「じゃ、後で三蔵の匂いを、移して頂きますから。マルボロ、荷物の中にストックありますし」
 どう返そうかと三蔵が逡巡した間に、八戒が首を捩って振り向いた。
「……マルボロだけじゃない、あなたの香りも」
 立ち止まって見つめて来る八戒に、三蔵は呆れ、そして諦めて。

 移し香の、前渡しをした。

 日が暮れかけていた。
 太陽が低い位置から色味のある光を投げかけている。
 掌から埃を払った悟浄の髪が、紅みを増して揺れた。
「……こんなモンっしょ?」
 道を塞き止めていた大木の端にロープを掛け、ジープで牽引した。
 ずるずると移動させた大木が、今、張り出した尾根に並んでいる。
 悟空は、開通した道を満足げに眺めた。
 進む道は、うねりながら森を抜け、やがてまた砂漠を通り過ぎて、新たな山を越えて行くのだろう。
 邪魔な物など、幾らあっても、全部撥ね除けてやる、と、悟空は思った。
 何度邪魔されても、何度でも撥ね除けてやる、と。
「よおおし!」
 悟空は大木に足を掛けて蹴り出した。
 道の端ぎりぎりに引っ掛かっていた大木は、みしみしと音を立てて尾根を転がり、滑り落ちて行った。
「ケッコ、気分よさそうだな。……俺もするか」
 錫杖をテコに道の端まで寄せた大木を、悟浄も蹴り落とす。
 障害物の姿が消えてなくなる。
「なあっ。全部これ、落としちゃおうぜ!こんなの、ない方がいいよ!」
「すっきりさせるかァ?」

 悟空と悟浄が揃って蹴り落とした大木が、斜面を滑り落ちるうちに加速度をつけて行き、かなり危険な速度と重量で、八戒と三蔵のふたりの真横を落ちて行ったということは、また別の騒動の元となった出来事。

「俺達の行く手に、邪魔物なんか、いらねえんだよッ!」

 立て続けに滑落して来る大木に八戒が気孔波をぶつけて炸裂させ、その巨大な輝きと、微笑の仮面を被った怒りのオーラと、飛来するハリセンと三蔵の怒声に、漸く気付いた悟空と悟浄の上げた悲鳴であるとか。

 どれも、また別の出来事。
 共に進む道のただ中で起きた、ありふれた、だがひとつひとつが大事な出来事。
 何でも笑い飛ばす連中の、旅の最中の、一日。
 どこまでも続く道の ――――




I pray, their wonderful life.










《Birthday TOP》