■■■  気まぐれな手が僕を翻弄する 

『くくく……』
 オペラグラスのハンドルを、きれいに彩られた爪が弄んだ。
『……今度は何をして遊んでおいでなんです?』
 水鏡を前に置いたカウチに、観世音菩薩は優雅に躯を伸ばしていた。
 傍らには真珠母貝細工を巡らせたコーヒーテーブル。
 華奢なデミタスカップから、ほろ苦い芳香が漂う。
『有閑マダムごっこってトコか?奴ら、あんまりにも潤いがないもんでな。俺が代わりにエレガントを体現してやらないと』
 オペラグラスを覗き込んだまま、コーヒーカップを指先で摘む観世音菩薩に、二郎神は聞こえよがしの溜息をついた。
『ホントに。彼等も苦労しますなあ』
『……奴らのぶつかってる災難は、別に俺の所為じゃねえぞ』
『言い切れますか?』
 都合の悪い風が吹いて来た、とばかりに、観世音菩薩はオペラグラスを持ち直した。
 睡蓮の花首の伸びる水面に、天竺へと向かう三蔵一行が映り込んだ。
『ああ、ホラ。お前も観てみろ、奴らの埃っぽいこと。延々荒野を旅して、野宿続き。漸く立ち寄った街も補給だけそそくさと済ませて、また旅ガラス。不平不満噴出に、苦虫噛み潰したような顔してるヤツが……あ、くしゃみした』
『こないだ長雨続きで立ち往生したもんだから、その分挽回しようと頑張ってんじゃないですか。なんかこう、慈悲の手を差し伸べるとか、なさらんで宜しいんですか?』
『ばぁか、面白くもねえことをこの俺がすると思って……ん?』
 コーヒーテーブルの上、小さな皿に上品に並べられた薄いチョコレートを染めた爪で摘みながら、観世音菩薩はカウチにしどけなく横たえた身体を捩った。
 水鏡に映るジープが、へたへたとスピードを落とした。



「きゅうー」
「ジープも疲労困憊ですって」
「だぁから前の街で泊まろうっつったんじゃんか」
「こんな山ン中じゃ、メシ屋もないよなあ」
 肩にくったりと首を伏せたジープを撫でながら、八戒は三蔵に目線を寄越した。
 露骨に不満を口に出す悟浄と悟空も、三蔵を見つめる。
「今日はここで野宿だ。ジープにはたっぷりメシをやって、さっさと寝かせる。テメエらもご託並べる余力があるなら、ジープ担いで少しでも進みやがれ」
「またそんな無理を……」
「ウルサイ」
 下僕三名プラス一匹の視線を、不貞不貞しい無表情で受けた三蔵は、手頃な倒木を見繕うと腰を降ろした。
 そのまま、前日に購入して読み尽くした筈の新聞を開き、一切の苦情をシャットダウンのデモンストレイションを見せる三蔵に、三名はそれぞれのため息をついた。
 簡易食でも腹を満たせればよいと、さっさと諦めを付けた悟空が薪を拾いに森へ向かい、悟浄もそれに続いた。
 八戒は、寝心地が良いように畳んだ毛布にジープを寝かせた。
「……なんだ?まだ文句があるのか?」
「いいえ」
 新聞の壁の向こうからの三蔵の声に、苛立つ響きを感じ取った八戒は苦笑した。
 宿のベッドで休むことが出来ずに、ジープの次に疲労を溜め込んでいそうな三蔵が、横柄そうに倒木の上で脚を組み替えた。
 法衣の裾が、大分埃の色合いに染まって来ている。
「意地っ張り」
「何だとぅ!?」
 小声の揶揄に三蔵は新聞を投げ捨てかけ、当の八戒がすぐ目の前に立っていることに気付いて、目を瞠った。
「後でコーヒー入れて差し上げましょうね」
「何をしやがる」
「それまでちょっと、休んでてください。悟空達が戻って来たらお湯湧かせますから」
 八戒は三蔵の隣に座り込むと、強引に金糸に覆われた頭を引き寄せ、自分の膝に押し付けた。
 陽に晒されても艶やかさを失わない三蔵の金髪だが、野宿続きで洗髪も出来ず、走るジープの上で風と埃に嬲られ、八戒の指にごわつき気味の感触を伝えた。
「ジープだったら、抱っこして大事に撫でてあげられるんですけどねえ」
「手ェ離せ!人の話を聞け!!」
「人のお話聞いてくれない王様に、ナニ言われてもねえ……」
「八戒!?」

 頭を包もうとする八戒の手の甲に、三蔵の掌が飛ぶ。
 問答は暫く続いていたが、結局三蔵は八戒の腕から逃げ出すことが出来ず、悟浄と悟空が戻って来た時には、不貞腐れつつのタヌキ寝入りで、笑い声を無視することにしたようだった。




『馬鹿な奴らだなあ。埃だらけになって、まだ笑ってやがる』
『健気じゃないですか』
 二郎神の目の前で、観世音菩薩はカウチから身を乗り出してオペラグラスを覗く。
『潤いがないと仰るんでしたら、あなたが潤いを与えてやればいいじゃないですか』
『山ン中にメシ屋と美女と暖かいベッドでも出せってか?俺は神であって、魔法使いのお婆さんじゃねえんだぜ?』
『誰もそんなモン出せなんて言ってませんよ。……あ。』
『んん?』




 夜も暮れ、火を囲んで張られた野営で、四人は思い思いに躯を休めていた。
 食事の合間に、薪を探して入り込んだ森で小さな泉を見つけたと、悟空が報告をする。
「潜るほどは深くなくて。魚もいないみたいだし。でも澄んできれいな水が湧いてた」
「どこだ?」
「水浴びするの?寒いよ。三蔵、風邪ひくぜ?」
「顔をすすぐだけだ」
 気のないそぶりで食事を続ける三蔵が、湧き水に誘惑を感じているのは明らかだった。
 食後のコーヒーにも碌に口を付けず、一服しに行くと、ひとこと残して森へ向かう後ろ姿を、下僕三人組は笑いを堪えながら見送る。
「自分ばっかり単独行動するんだから。怪しい気配もないけれど、一応ボディガードに行きますか」
 タオルを脇に携える八戒に、悟浄が吹き出した。
「我が儘坊主のお守りも大変だあね」
「大変だと思ったら、僕の分のコーヒー残して置いてくださいね」

 野営地からほど近く、泉はあった。
 岩肌から豊富に流れる清水が、茂る樹木の影を通して月を映し出していた。
 三蔵は泉の縁の岩に膝を突き、手甲を外して清水に掌を沈めた。
 すくい上げた水は、掌から零れ落ちながら月光を反射する。
 顔を浄めた三蔵は、暫く澄んだ湧き水に指を浸し続けた。
 微かな指の揺れが輪紋を描き、夜空と月がゆらゆらと踊る。
 すくって口に運んだ水は甘く、顎から首筋に滴り三蔵を魅了した。
 埃っぽい髪を水面に浸けると、さらりととけて指を通した。
 夜気は冷え込んでいたが、そのまま地肌まで湧き水で湿す。
 きん、と、冴えた冷気が三蔵の躯に伝わった。
 乾き切った素肌が、飢えたように甘い水を欲しがった。

 ぴしゃん。
 水面に落ちる水が、鈴の音のように響いた。
 泉の縁に法衣を脱ぎ捨て、浅い水の中を三蔵は膝で進んだ。
 岩肌を流れ落ちる水の真下で、顔を仰向かせる。
 月の光を吸い込み輝く水が、三蔵の額から髪、背を流れた。
 だから。
 暗い森を抜けた八戒が目にしたのは、全身に月光をまとう人の姿だった。

 ぱしゃ。
 ぴしゃん。

 水面は乱れ、月も白い躯も渾然と、眩い影をゆらゆらと。
 青白い破片を映して。

 ……ぴしゃん。

 濡れた髪を貼り付かせた顔が、ゆっくりと振り向いた。 
 闇の作り出す陰影すらも、軽く捻った躯を飾る、趣向を凝らした効果のようだった。
 青白い躯を、細く流れる水が流れ続ける。

 月の雫をまとった腕が差し伸べられ、漸く八戒は、自分が息を止めていたことに気付いた。
 草や砂利を踏み分ける足音が、無粋に水音を消してしまうことに少し申し訳のなさを感じながら、月光を集めて輝く人の傍に近付く。
 自分に向けられた掌の、指先からまた、雫が落ちた。
 その指先に自分の指が触れるのを、八戒は緊張しながら見つめた。
 雫が、指先から自分まで銀色に染めて行くのではないかと思い、眼に映る指が微かに震えているのに、小さく笑いが洩れた。

 恭しく受け取った手の甲に、唇を。
 銀を飾った青白い月の精に、体温を与えて、ただの人間に堕としてしまおうと。

 押し当てた唇はそのままに、月の精の瞳の色を覗き見たくて、八戒は目線を上げた。
「なんだ?」
 せせら笑う唇が、どこか満足げなカーヴを描いているように八戒には感じられ、いつも通りの傲慢な声が聞こえたことに、安堵する。
「ナニしてやがるって聞いてんだよ」
「月の化身に接吻けを」
「その辺の獣に馬鹿されてンじゃねえか?」
 白い手に振り払われ、挙げ句額を強かに叩かれて、八戒は目に涙を滲ませた。
「色惚けしてねえで、さっさと寄越せ」
「は?」
 たった今まで、月光の雫で出来上がったような姿を見せていた三蔵が、苛立たしげな声を上げた。
「何の為のタオルだ!?月の光の浴び過ぎでおかしくなったか!?」
 泉の中で立ち上がり、水を跳ねて片脚を踏みならすと、八戒の腕からタオルをひったくる。
 裸身を半ばタオルに隠し、手荒く髪を擦り出す三蔵を見ているうちに、八戒は俄におかしさがこみ上げて来るのを感じた。
 風邪をひくからと釘を刺されていたにも関わらず、水浴びをした三蔵。
 泉の中で、月光そのもののように見えた人が、あっと言う間に、罵る声を上げる人間に戻ってしまったこと。
 癇癪を起こしているらしく、髪がもつれそうなくらいに強く擦り付けるタオル。
 月の精に魅入られて、息をすることすら忘れていた自分。
 うっとりと見蕩れた挙げ句に額を叩かれた自分の晒していたであろう、間抜け面。
 月の精に誑かされたのだ。
 抗う術など持ちようもない。

「この馬鹿、本格的にオカシくなったか」
「だって、ねえ」
 笑い続ける八戒に、口の悪い月の精はタオルを投げ付けた。




『……まあまあの見物だったってトコか?』
『健気ですねえ。これだけ高みの見物決め込まれてるとは、思いも寄らないでしょうねえ』
 観世音菩薩は、二郎神からの低い温度の目線に舌打ちをした。
『神様出番ナシ、いいとこナシですねえ』
『なんだと?いいとこのひとつやふたつ、見せてやろうじゃないか』
 染まった爪先を閃かせると、寸前までそこに挟まれていたチョコレート片が消えた。
『おや?』




「……あれ?」
 かさりと乾いた小さな音がしたように思い、八戒はポケットを探った。
 数日前の宿の、枕の上に置かれていたカード型の小さなチョコレートだった。
 薄いチョコレートが溶けも割れもせずに、掌の上でふわりとミントの香りを漂わせ、八戒は唇をほころばせた。
「三蔵、口開けてください」
 冷たい水に凍えそうな人に、ビタースウィートのチョコレート。
「香りだけ、お裾分けください」
 ふん、と鼻を鳴らす三蔵の躯に腕を回し、タオルの上から抱き締める。
 血の気の引いた唇に、また暖かみを移そうと唇が近付き ――――




『それだけじゃ、やっぱり面白くないんだよなあ』
『あ。』
 白い指がまたひらめき。




 苔生して濡れた岩が靴の下で滑り、水音高く泉に倒れ込む背の高い人影。
 今度こそは皮肉でない笑いを浮かべた月の精も、また水に引きずり込まれる。

 青白い月光に染まったふたりの唇が、漸く重なった。




 ぐしょ濡れで笑いながら野営地に向かって駆ける三蔵達の姿を眺め、観世音菩薩は満足げな表情を浮かべて、オペラグラスを置いた。
『潤いだ』
『文字通りですな』
『文句があるか?奴らもじきに、熱々のコーヒーで躯暖めて、ぐっすり眠って明日になればまた元気に起き出して、腹減ったとか煩く言うヤツもいることだし……』
『ホントに気の毒になって来ましたよ』
 喜々とした声を上げる上官に、二郎神は何度目かの深い溜息をついた。
 慈愛と慈悲に溢れた観世音菩薩の、退屈しのぎのお戯れと言うには、余りな仕打ちのように感じられた。
 それにしても。
 夜の眠りを導く甘い菓子を味わうふたりの姿が、二郎神の脳裏に蘇った。
『……潤ってないのは、一体どっちだか』
『何か言ったか、二郎神?』
『いえいえ、ナニも』

 お相伴、と呟き口に放り込む、チョコレート。
 甘くほろ苦く滑らかにとろけ、爽やかな香りがまとわりついているようで、二郎神はその日いち日、しきりに鼻を蠢かせた。






Sweet Sweet Valentine's Day for YOU !
illusted by NARUMI-san










 終 




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◆ note ◆
バレンタインのお話…ということにしてください^^;
ホテルのミントチョコ、独り占めしちゃうワタクシも、あんまり潤ってないかもです
ナルミさんの描いてくださった月下のふたりのイラストを追加しました。
麗しい絵をつけてくださってありがとうございます。