市場の通りを、ジープは人を避けてゆっくりと走行した。
食料や燃料の店の前に、横付けるように停車し、目当ての買い物を速やかに済ませて行く。いつの間にかジープの後ろには、街中の子供達が集まったかのような行列が出来、店の前に停車する度に物珍しそうに近寄って来る。
買い出しメモを持った悟空が雑貨屋に走り込み、ハンドルを握る八戒は、運転席を覗き込んだ子供達に、困りながらも微笑みかけだ。
「長閑だねえ」
「ええ。子供も街の人々も、純朴そうで好意的ですね」
「……しょうがねえから、さっさと通り過ぎるかあ」
「フン」
長閑で平和な街には、妖怪に付け狙われる身は、相応しくはないだろう。
後部座席で天を見上げながら、高く紫煙を吹き上げた悟浄に、三蔵が鼻息で答えた。
「買って来たよ」
雑貨の入った紙袋を抱えて、悟空がジープに飛び乗った。
「買い出しメモに書いてあったのは、もうこれでお終いだと思うけど…」
悟空が読み上げるメモを、八戒が確認した。
「あとは、三蔵と悟浄の煙草くらいですかねえ。で、今日の昼食はどうします?」
店での昼食の望みを絶たれていた悟空が、後部座席から身を乗り出した。
「…どこにも寄らねえよ。あそこに屋台があるじゃねえか。悟空、あそこで買い込んで来い」
「ん。」
三蔵の視線の先を悟空は見た。
肉まん屋の小さな屋台が、食欲をそそるような湯気を、盛大に立てていた。
「あ。美味そう」
「晩飯の分含めて、全部買い占めて来い」
「いいの?!」
聞いておいて、返答を待たずに悟空は飛び出す。
「三蔵サマ、ペットには甘いねえ。晩飯の分なんざ、アイツが残すかっつーの」
「食い尽くしたら絶食するだけじゃねェか」
「三蔵、断食の行ですか?じゃ、申し訳ないですけど僕達だけで、何か作って食べますか。幸い携帯食は先刻たっぷり補充したばかりですし…」
「坊主は大変だねえ」
口の減らない下僕達に、三蔵は盛大に舌打ちを打った。
助手席から三蔵はすぐにその店を見つけ出し、店先にジープを停めさせた。
「買って来い、悟浄」
「ふぁんへ、ほえふぁ?(何で、俺が?)」
先刻煙草を買いに行き、マルボロを買い損ねたのが悟浄だからだ。
三蔵にしてみれば、下僕が買い物に行くのは当然のことだった。
気の抜けた返事に振り向いてみれば、肉まんを頬張る悟浄。口中に、ふかふか生地と、ジューシーな肉汁を詰め込み、至福の表情。
「ふぉえ、ふぁいふっへえふぁ(これ、マジ美味えわ)」
普段悟空に『食事中に席を立つな』と、スパルタ式躾をしている身で、肉まんを食べてる最中の悟浄に買い出しを行けと口に出すのに、逡巡した。
悟空は当然先程から食べ続けになっている。
運転席の八戒に目を遣ると、にっこりと微笑み返され、諦めた。
「チッ…。待ってるのもかったりィ」
確保はしたものの、まだ口を付けていなかった肉まんの柔肌から、三蔵は手を離した。
ジープから降り立ち、小さな店構えの煙草屋の前に三蔵は立った。
古い。
小さい。
狭い。
それでも、小窓から垣間見える薄暗い室内には、聞いた通りに多種の煙草が積み上げてあるようだった。
「誰かいないか?」
応がない。
「誰もいないのか?」
よく通る声を張り上げると、店の奥から小さな声が返って来た。
間口が狭く、奥行きがあるらしい店の、店舗奥の居住スペースで休んでいたらしい老婆が、ゆっくり近付き、口を開いた。
「はいはい。何か?」
「マルボロ、赤、ソフトケース。3カートン」
「マルボロ、赤、ソフトケース、3箱。ね」
小さな老婆は、三蔵の言葉を噛むように繰り返し、店の奥の棚に向かった。
「マルボロ、マルボロ、マルボロ、赤……」
どんどん離れて行く老婆につられ、三蔵は窓口から中を覗き込んだ。
狭い通路の両脇に、天井まで届く棚があった。その棚の中に、種類ごとに分けられた煙草がカートンで積んである。
老婆は、棚の上から下まで、下から上まで、ひとつひとつ指をさして確認して行く。
「マルボロ、マルボロ、マルボロ……赤」
三蔵の忍耐のゲージは、最初の数瞬で振り切れた。
「あるのか、無いのか?」
「ちょっと、お待ち下さいな」
低い声の問いかけに、返る返事は質問とは無関係だ。三蔵の額に、青筋が浮いた。苛立ちを堪え、更に低い声で老婆に声を掛けた。
「無いならもういい」
「ちょっと、お待ち下さいな。今探してますからね」
場を離れようとした、その瞬間に老婆は振り返り、にっこりと笑った。
くしゃくしゃな皺に埋もれそうな目が、小さく輝いた。曲がった腰の上の健康そうな頬が、どこか林檎を思い浮かばせた。ほんの少し小首を傾げて柔らかく微笑むと、すっかり銀色になった髪を、無意識の仕草で撫でつけた。
看板娘。
脳裏に浮かんだ単語に、三蔵はぷるぷると首を振った。
それでも、何十年か昔には、この老婆が微笑んで手渡す煙草に、好感を感じた者は多かったのだろうと、容易に想像できた。長い時間そうやって、この老婆は煙草屋の看板として、微笑み続けてきたのだろうと思った。
三蔵は深く息をついた。
「……待つか」
肉まんを頬張る三人の視線を、背中に感じた。
狭い通路を、老婆は足を引きずるようにゆっくりと歩いた。
「マルボロ、マルボロ、マルボロ……。ライト?」
「ソフトだ。ソフトパッケージ」
三蔵の肩が落ちた。
「マルボロ、赤、ソフトパッケージ、3カートン。赤と白の箱だ」
「赤と白」
老婆はまた、きょろきょろと棚を見回した。細い腕をゆっくりと伸ばし、手に取った箱を見て三蔵は大きな声を出した。
「白地に赤丸じゃねえ。それじゃなくて、こう、赤地に白い山型の……」
自分が身振り手振りで説明していることに気付き、三蔵は唇を噛んだ。
背後からはっきりと、くすくす笑いが洩れ聞こえて来る。
下僕に面白がられている。
腹立たしいことに、肉まんの魅惑的な香りまで漂って来る。一度は手に取りながら、口を付けぬままの肉まんが、自分の座席の上で冷めて行くのを、三蔵は思った。
「……見つかりそうか?」
「はいはい。今探してますよ」
のんびりとした声しか返ってこないことを、三蔵は予測しながらまた溜息をついた。
「マルボロ、マルボロ、マルボロ、赤……」
手に取った箱を、老婆が大事そうに掲げて見せた。
「それ!それだ!」
指をさして叫ぶ三蔵に、老婆は嬉しそうに微笑み掛けて来た。そのままゆっくり近付いて来る。
「い、いや。それと同じ物を、3カートン……3箱くれ!」
今いる場所から離れたら、また同じことを繰り返されそうで、三蔵は慌てて大きな声を出した。
老婆はまたにっこりと微笑む。
「マルボロ、3つ」
急に踵を返し、奥の部屋に戻ろうとするのを、三蔵は茫然と見つめた。
また戻って来ると、小さな掌に載せられた、マルボロ赤が3つ、バラ。
「……済まん。3、カートンだ。十個入りの箱を、みっつ、だ」
老婆にもよく聞こえるように、大きな声ではっきりと、区切りながら発音した。
肉まんの香りが、心なしか薄くなって来たような気がした。
振り向いて確かめるのも嫌でしょうがなかったが、自分の分の肉まんが残っているのか、初めて不安を感じた。
三蔵の注文した、マルボロ、赤、ソフトパッケージ、3カートンが、紙袋に入れられた。
勘定を済まして渡されたお釣りと共に、三蔵の掌に、キャンディが幾つか載せられた。
「随分お待たせしちゃいましたからね。オマケですよ。煙草を吸う方には、喉飴」
ころころと笑い、じっと三蔵を見つめた。
「お買いあげ、ありがとうございます。いつもありがとうね」
一見の客にも、常連の客にも、区別無くそう言っているのかもしれない。
三蔵は老婆の瞳に気付いた。
「……白内障か?」
「ええ。しろそこひ。年を取ると、色々ありますねえ」
瞳にうっすらと、膜が張ったような色合いが見えた。
「耳も遠くなりましたしね。足腰が立って健康に過ごせてますから、大丈夫ですよ」
小首を傾げながら、柔らかく微笑む。
「じっとしてろ」
三蔵が掌を掲げるのを、老婆は吃驚したように見た。
「そうだ。そのままだ」
三蔵は目を眇めた。
老婆の瞳を凝視する。
掲げた掌からは、淡い光の法力が、老婆に向かって放出していた。
瞳。
眼球の仕組みを、三蔵は脳裏にイメージした。
眼球。
瞳孔。
光彩。
収縮する筋肉。
水晶体。
精密にイメージする水晶体の、濁りをゆっくり取り除いて行く。
水晶体が徐々に透き通り、光を損なうことなく透過させ行く。
通過する光に、老婆の瞳孔がきゅうっと小さくなった。
法力の輝きがゆっくりと消えて行った。
「……どうだ?」
「あらまあ」
老婆は驚いたように言った。
「なんていいお天気!」
三蔵の顔を見つめ、またすぐに辺りを見回す。
「なんてきれいな花!」
店の壁際から小窓に絡む蔓植物の、真っ白な花を見つめる。
「ずっと香りはしてたんですよ。……まあ、なんて久し振りにこの花を見たんでしょう!」
嬉しそうな表情を浮かべたままで、老婆はまた三蔵を見つめ、笑い出した。
「あらあら、なんてお若いお方!お声は若いのに口振りは落ち着いてるし、髪の色が明るかったから、すっかりお年を召したお客様だと思ってましたよ!」
ころころと笑い続ける老婆に、三蔵は複雑そうに顔を顰めた。
買ったばかりのマルボロを咥え、三蔵は空を見上げた。
「あらまあ」
「なんていいお天気!」
元看板娘の、嬉しそうな声と笑顔を思い浮かべる。
晴れ渡った空は、濃い青で続いていた。
雲がぽかりぽかりと浮かんでは、真っ白に輝いていた。
看板娘に愛想のひとつもしてやって、何が悪い。
長閑な長閑な街を行き過ぎ、また、殺風景に続く砂漠に踏み込みながら、三蔵は煙草の煙を噴き上げた。
薄い煙はあっという間に拡散し消え去る。
それが空の雲のように、きれいにまっしろく固まらないことを、微かに残念に思った。
ただただ青い空を眺めながら、三蔵は煙草を咥え続けた。