■■■  I pray the Lord his soul keep 

 両腕が差し伸べられた。
 開かれた掌は、指先に至るまで求める心を訴えていた。

「      !」

 心の中まで通る声に導かれ、三蔵は一歩踏み出した。  

 途端に絡む、幾多の腕、掌、指。怨嗟の形に曲げられて、三蔵の足首を、法衣の裾を引き掴む。
 腕から続くひとつひとつの顔に、三蔵は覚えがあった。
「いつだったか、たったひとりで旅をする子供を狙った盗賊だな、お前達は。そこのお前はどこかの街のチンピラで、長安に向かう俺を襲った強盗だ。お前は金山寺を降りてすぐの俺が出逢った、徒党を組んだ山賊だ」
 ひとりずつの顔を見ながら、三蔵は罪科を述べた。
 ご丁寧に、古い記憶から引き出されたままのその顔には、三蔵が額に打ち込んだ銃痕まで残っていた。三蔵は、自分を掴まえようとする腕を蹴り飛ばして行く。
「何度来ても、何度でも、殺してやるよ。俺の邪魔をする奴らは、ヒトも妖怪もない。全て排除するだけだ」
 三蔵の振り上げた脚から、過去の死者達のうちの数名の手が離れた。
 死者は底知れぬ闇の中に落ちて行った。
 闇。
 三蔵は、自分も闇の中にいることを自覚した。
 その瞬間、法衣が翻り、三蔵も闇底へ向かって墜落した。

「……あああッ!?」
 自分の悲鳴に目が醒める。
 夢を見ていた。経文を追って旅に出たばかりの頃の、過去の夢だ。いや、過去の死者達の夢か。
 三蔵は自嘲した。
 まだ幼さを残した自分を、躯や懐目当てで襲った猛々しい賊共を、三蔵は覚えていた。始めは親切めかして近付いて来る、子供しか相手に出来ない、気の弱そうな男達を覚えていた。忘れ果てていると、自分でも信じていた。
「何時来ても、何度でも、殺してやるさ」
 死者達の記憶にまみれながら、血に染まり続けると。

 三蔵はベッドから身を起こした。夜明け前の冷えた空気が、僅かに隙間を開けた窓から入り込んでいた。自分の躯を薄らと汗が覆っているのに気付いた三蔵は、窓辺に寄って煙草に火を着けた。深々と吸い込む煙が、肺に満ちた。フレイバーを感じる代わりに、いがらっぽさだけがべったりと咽の内側と肺にへばり付くような気がした。

 夢を見ていた。
 どこかへ向かおうと、何かを求めようとしていた。

 思い出せない夢を無理矢理思い浮かべようと、三蔵は掌を見つめた。見下ろす掌をゆっくり掲げると、窓の外、稜線から朝日が顔を出す所だった。指の隙間から、曙光が線を描いて洩れた。
 咥え煙草の紫煙が滲みて、三蔵は目を閉じた。

 荒々しい雄叫びが、甲高い絶命の悲鳴に変わった。日々続く戦闘に麻痺したはずの血の匂いを、その日三蔵は妙に生々しく嗅いだ。
 身に浴びた、妖怪達の血と内臓と脳漿の、噎せる臭気。
 自分の左右の掌にこびり付いた、硝煙の匂い。

 息苦しいほどに。

 妖怪達が全て地に伏せた時には、三蔵は自嘲した。どんな汚臭であろうとも、苦しくとも、自分の躯は呼吸を欲する。生きている限りは、死の匂いを吸い込み続けるのだ。
 人間の躯は、とてもいのち汚く出来上がっている。
 それでも。
 清しい空気を吸い込みたかった。

 ここ数日、馴染みとなった夢から醒めた。
 死者達を蹴落とし、自分も落ちて行く。それが奈落なのだと、いつか気付いた。
「もう、大丈夫ですよ」
 暗闇の中、柔らかな声をかけられた。闇に慣れた目が八戒を視認した。
 ひんやりした掌が、汗で貼り付く前髪を掻き分け額に触れた。
「冷たい水を飲みますか」
 「ああ」という短い返事に、八戒は苦笑を浮かべながら腰を上げかけた。三蔵は漸く、自分の掌が八戒の袖に縋っていたことに気付いた。
「チッ」
 振り払うように手を離すと、八戒は今度こそ立ち上がり、部屋に備え付けの冷蔵庫へ向かった。
 庫内燈の薄い明かりが一瞬室内に広がり、それが消えた時にはミネラルウォーターのボトルが三蔵の頬に押し当てられた。三蔵は目を瞑って横たわったままだった。八戒はボトルのキャップを外してもう一度三蔵の頬に押し付けた。三蔵はゆっくりと目蓋を開いたが、自ら動こうとしなかった。八戒は受け取られなかったボトルに口を付け、水を含んだ。
 ゆっくり近付く八戒を、三蔵はじっと見ていた。目を開いたまま、口移しに与えられた水を飲んだ。
「ぐっ…ごほっ」
「横になったままじゃ、噎せるのも当たり前でしょう。三蔵、ほら……」
 八戒は三蔵の手を取りボトルを握らせようとした。
 指は力無くボトルに巻き付き、八戒の手が離れるとまた、ボトルを滑るように落ちて行く。
「三蔵……?」
 横になったまま、三蔵は八戒を見上げた。
 奈落の底から天を見上げているような気がしていた。心配そうに自分を捜して見つめる、碧の瞳をただじっと見つめていたかった。この瞳があれば、血にまみれ、冷たい死者達の掌に足首を掴まれ、引きずり落とされても、堪えて行けると思った。
 同じ殺戮の繰り返しをしているようでいて、自分と八戒とには大きな差があるのだから。
 浚われた恋人を取り返す為に人を殺した八戒は、狂気の中にいるようでいて、明らかに生者の世界に属していた。三蔵が殺し続けるのは、天から授かる経文の奪回を理由に、故人の形見を取り返す為だった。
 聖天経文。
 実際にそれを取り返し、手にするまでは。三蔵は目の前に立ちふさがるモノ達を、手に掛け続ける。
 経文を無事に取り戻したら、自分はどうするのだろうか。開けに染まった掌で、何を為すのだろうか。何時か、自分の為の生を生きられるのだろうか。

 酷く凍てた気分でいた三蔵に、八戒はそっと腕を回した。掌を背に当て、躯を起こして自分の胸にもたれさせるように抱き抱えた。三蔵は、暖かな腕が自分の躯を支え、輪に囲うのを感じた。
「疲れ過ぎて、神経が尖って眠れませんか?」
 三蔵の躯が傾いだ。
 八戒が、三蔵を抱き締めながら、躯を揺らしていた。背から伝わる体温と鼓動が、三蔵には何より心地よかった。
「ねえ、子守唄に唄ってあげましょうか」
 何でも良かった。声音を聞いていたかった。

「僕が子供の頃から親しんだ唄。……あなたを思い浮かべる唄」

Amazing Grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me,
I once was lost, but now I found,
Was blind, but now I see

驚くべき神の恩寵、なんと美しい響き
こんなにも汚れた私を救ってくれた
かつて私は失われ、そして今見い出された
かつては見えなかったものを、今や見ることができる

 柔らかな声が、同じフレーズをゆっくりと繰り返した。
 三蔵は、力無く頭を降り続けた。

 違う、違う。
 お前はずっと、自分の生を生きて来た。
 自分の人生を、愛するものを、その手に握り続けていた。
 例え血にまみれようとも、道を見失ったように思っても、
 それもお前の通るべき道筋のひとつだった。
 俺に出逢うことがなくとも、やがてお前は、力強くまた生を始めていただろう。

 金糸の垂れる頭を振りつつ、穏やかな声音に促されるままに、三蔵は深い眠りに引きずり込まれて行った。

「もう、眠れました?」
 可聴域ぎりぎりの、囁き声。
「夢にうなされませんように」
 子供のような祈りの言葉を、八戒は口に出した。  

 袖口は、再び三蔵の指に握り込まれていた。八戒は、それを外そうともせずに、腕の中の痩身を大事に抱き込むように、毛布にくるんだ。
「 ―――― 今や、輝かしいものを見ることが出来ます。自分から目を逸らさずに、輝かしい人の為に、腕を伸ばす勇気を得ることが出来ます」
 腕を、ベッドの傍らのランプに伸ばし、明かりを落とす。
「おやすみなさい」

 また、いつもの夢の中だった。
 三蔵は、自分を捉えようとする腕を蹴落とし続けていた。死者達の濁った目を見るうちに、自分の躯が重たく感じられて来た。
 疲れ果てたら、きっと、奈落に落ちてそのままになるのかも知れない。そうなれば、いっそ立ち上がる必要もなくなって、楽になれるのかも知れない。
 足首に回った冷たい手の感触に、密やかな願望が首をもたげた。

「       !」

 名を呼ばれた。叱咤するように、それは三蔵の耳に響いた。
 天を見上げた三蔵は、翡翠色の瞳を見つけた。何かを叫びながら、必死に伸ばす掌が見えた。
 余りに真正直に自分に向けられた掌に、三蔵は腕を伸ばそうとした。
 三蔵は、まとわりつく死者をまた蹴り始めた。腐臭の漂う体液が、びしゃりと白い法衣に撥ね掛かった。足首には、ずるずると滑る指の痕が幾つも残った。
 怖気に膚を粟立たせながら上向くと、碧の瞳はそれでも自分を見つめていた。
「……てめェ。ヒトに、却って疲れる道を通れって言うんだな」
 三蔵が奥歯を噛み締めながら皮肉な笑みを形作ると、伸ばした腕の先で碧の目は嬉しそうに輝いた。
「仕返しのつもりか……?そういうヤツだよな、てめェは」
 三蔵はまた、思い切り死者の頭蓋を蹴り飛ばした。天上に伸び上がるように差し出した腕の先、指と指が近付き、漸く ――――

 毛布にくるまる三蔵と八戒は、穏やかな寝息を立てていた。三蔵は久々の深い眠りに顔色を取り戻し、その身を抱く八戒の寝顔は、微笑みを湛えていた。
 毛布の影で、ふたりの指が、きつく絡んでいた。













 終 




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◆ note ◆
八戒さんの唄ってるのは賛美歌のアメイジンググレイスですが、タイトルはマザーグースのもじりです
眠りに就く前の子供の、お祈りの唄です。
(正しくは"I pray the Lord my soul keep")
……アメイジンググレイス、既に他のタイトルで使っちゃってたのでした
Xmas好きなもので、Xmasに聞くことの多いこの曲が、好きみたいです
親戚は坊主だったり、実家は神道だったりなのですが…まあ、そういうものかもしれません…