■■■  驟雨 

 雨は嫌いだ。
 思い出したくもないものを、思い出し過ぎる。



 薄暗い山中で始まった戦闘が、長引いていた。
 暮れ行く曇天が暗さを増した。
 湿った空気にぱらぱらと、冷たいものが落ちて来る。
 木の葉を叩く雨の音が続き、大きくなる。
「視界が悪くなる前に片付けてやる」
 大木に背を預け銃に弾を装填する、その手許がもう暗がりで視認し辛い。
 濡れて滑りがちな掌を湿り始めた法衣に擦り付けて、俺は銃を握り直した。
 一人、二人。
 三人、四人、五人。
 囲まれていることは判っていた。
 追われた。
 撃っても撃っても、新たな追っ手がついて来た。
 最後に追い付いた妖怪で、六人目。
 辺りに満ちた殺気に気が研ぎ澄まされると、微かな気配も感じ取れた。
 生臭い息遣い。
 俺を叩き斬ろうと構える青龍刀が、茂る下生えに触れる音。
 血塗れの夢に酔った妖怪の洩らす、薄笑い。
 そんなものに取り巻かれていることが、感じ取れる。

 雑魚にやられてやる気はねえな。

 片方の口端が笑みの形に引き攣れた。
 その拍子に深く吸い込んだ空気に、雨の匂いと、火薬の匂いが混じり込んでいるのに気付いた。
 雨に濡れた土から上がる、しっとりとした苔や朽ち葉の匂いと、拳銃や掌や法衣の袖や、そこら中に染みついた火薬の匂い。
 それに混じる生臭さは、頬に貼り付く血の鉄臭。
 受け流した妖怪の剣が折れて、その破片がこめかみをかすったことを思い出した。
 切れているんだ。
 こめかみから頬へ流れ、襟元に黒ずんだ染みを作っている。
 気付くと同時に、鼓動と連動した疼きのようなものを傷口に感じた。
 痛みはきっと、後からやって来る。
 今はただ、雨に晒され染みが、薄ら赤いヨゴレを拡大し続けるだけ。
 不注意だの、血液の汚れは落とし辛いだのと煩く言って来るであろう、孔雀石の色の瞳を持つ男の顔が、脳裏に浮かび上がる。
 面白くもない。
 ぺろりと舌を伸ばせば塩の味がした。
 塩気の後の鉄臭さが気に障り唾を吐き出すと、それを合図のように妖怪達が一斉に動き出した。

「せええええええええええいあっ!!」
 青龍刀を振り下ろす妖怪の咆吼に雨音が被った。
 耳障りな声も雨音も、掻き消えろと銃を放つ。
 一発、二発。
 木陰から木陰へと移動しながらの発砲に、反動を逃し切れずに掌が軽く痺れた。
 戦闘を開始してから何人の妖怪を撃ったのか、数え切れない。
 自分の身を刃がかすった回数も。
 濃密な殺気に晒され、自らも獣めいた直感だけで走る。
 上がる息。
 痺れは腕を駆け登り、本能以外の物を麻痺させる。
 殺るか殺られるかの、緊張感に支配される。
 横合いと樹上からの同時の襲撃をぎりぎり交わすと、自分を狙い追う青龍刀同志がぶつかり、暗闇に火花が散った。
 三発、四発。
 額に風穴を空けてこちらに倒れ込む妖怪から刀を奪いながら、最後の銃弾を放った。

 雨足が強まった。
 雨音が大き過ぎて、『雨』という何物かに、時間をかけて叩かれ押し潰されて行くように感じられた。
 雨に打たれ続けた顔や手指の感覚がなくなる程に、凍え始めているようだった。
「玄奘三蔵!」
 急に叫ばれ、隠れた木陰で身体が撥ねかけ、食いしばった奥歯が軋んだ。
「『銀の小銃を持った三蔵法師』か!弾切れの銃を後生大事に抱えて、怯えて小さくなってんのか?随分と可愛らしい野郎だったんだな、妖怪殺しの三蔵ってのはよぉ!!」
 生い茂る木々が声を反響させ、妖怪の居場所を隠した。
「……チクショウ、その通りだよ」
 口の中だけで呟き、左腕に持ち直した青龍刀の握り具合を確かめ、反対の掌でシリンダーがカラッポの銃をきつく掴む。
「最期には姿拝ましてやるから有り難がりやがれ」
 芯まで冷えた躯で、神経ばかりが研ぎ澄まされて行く。
 敵の気配をまだ察知出来ない。
 動け。
 少しでも動け。
 その気配、感じ損ねたりなんかしない。
 逃さない。
 食らいついてやる。
「 ―――― 玄奘、それならこっちから行ってやるよ!」
 茂みの揺れる音に、躯が堪え切れずに飛び出した。

 閃光。

「!?」
「死ね、玄奘!」
 小爆発が起こり、辺りが白い光りに包まれた。
 青龍刀を掴んだ腕で顔は庇ったものの、強い光に目が眩んだ。
 八百鼡と同じ爆薬使いだと気付いた時には、獲物に喰らい付く顔付きをした妖怪が目前に迫っていた。
 凶悪な笑みを浮かべる妖怪が、青龍刀を叩き付ける勢いで振り下ろして来る。
「!!」
 重い一撃を、銃と奪った刀を交差させて受けた。
「ハ、ハハハ……、どこまで保ち堪えられる?」
「……ぐっ」
 じりじりと力で押される。
 体格、体重の差が大きかった。
 妖怪もそれを充分理解し、ぶっ違えた刀の向こうから、歯を剥き出しにして笑っていた。
「圧し潰してくれるわ!」
 踏み出して来た妖怪の脛を払い、凶刃を受け流した。
「がっ!?」
 体勢を崩したままの妖怪を反対に追い詰め、青龍刀を振り上げる。
 妖怪は不安定な足下で後ずさりしながら、叩き付ける剣を受けるだけだった。
「さあ、どこまで、保ち、堪えられる?」
 追い詰め、息を切らしながらもそっくり台詞を返した。
 ガツガツと金属同志を叩き付ける度に、暗闇に火花が飛んだ。
「あッ!?」
 妖怪が、バランスを崩して倒れ込んだ。
「諦めろォ!」
 重い剣を頭上に振り上げ、妖怪目掛けて真っ直ぐに落とそうと…
「!?」
 青龍刀を投げ付けられ、咄嗟に受けた自分の剣が絡んで吹き飛ぶ。
「往生際が悪いんだよ!」
 落ちた剣に向かい、四つん這いで腕を伸ばしかけた妖怪のこめかみに、銃把を叩き付けた。



 雨は嫌いだ。
 余計なことを思い出させ過ぎる。
 屋根を叩く強い音と、高い湿度。
 手を濡らした、大好きだった人の血液が冷えて行く、その冷たさ。
 全身を凍らせて行く。

「がっ、ぐ!……ぐぁっ」

 何度も振り下ろした左腕の先で、拳銃が血の色に染まっていた。
 必死に俺の脚に掴みかかる妖怪の、頭部に銃把を打ち付け続ける。
 濡れた法衣がまとわりついて、袖もすっかり重たくなって、振り上げる腕には鉛が詰まっているようで、そんなずしりと重たい物を何故振り回さなくてはならないのか、これも全て目の前の妖怪の所為だと思う気持ちが止められなかった。
「ガッ、さんっ……」
「離せ、さっさと死ネ」
 鋼鉄の塊をぶつけているのに。
 血を流させているのに。
 狙いからはずれて当たった、鼻の軟骨の砕ける感触もあったのに。
 血なんか、こんなに飛び散る程流れているのに。
「はなせ」
 びしゃ、と。
 ぬるり、と。
「はな、せ。あ・あ・あ・あ・あ」
 血に染まった法衣が益々重みを増して行く。

 『 ―――― 』

 頬に誰かの暖かな手が触れた。
 そんな気がした。
 名を呼ばれて、頬から体温を与えられたような気がした。
 脚にしがみつく妖怪の容貌を、初めてじっと見た。
 先刻まで凶暴な光を湛えていた双眸が、真っ赤に染まった顔の中で、今は焦点を合わすこともなく半眼を開いている。

 年齢は二十代半ばと言ったところか。
 凶暴化さえしていなければ、ごく普通に笑み、家族に囲まれて過ごすありふれた生活に満足した、ひとりの妖怪の男だったのかもしれない。

「オン」
 銃を落とし、指を組み合わせて印を結んだ。
「オン、マ、ニ、ハツ、メイ、ウン ―――― 魔界天浄」




 ざあざあと、雨が降る。
 雑魚妖怪一匹に法力を大量に費やしてしまった疲労感と徒労感に、地面に転がる。
 冷たい雨が全身を洗った。
 先刻触れた熱は何だったのかと、頬に触れた指先が赤く染まった。
「……傷口が開いただけか」
 乾きかけた傷が開いて、こめかみから新たに血が流れたらしい。
 冷え切った頬に流れる自分の血液が、驚くほどに熱を感じさせたらしい。
「何だと思ったんだ、俺は」
 仰向けの顔の上に持って行った指先の赤が、雨に滲んで消えて行った。
 首をねじ曲げると、襟元にもまた新しい染みが出来ていた。
「……ったく」
 もう既に、泥だらけの地面に寝転がって、法衣には白い部分など残ってもいなかったが、それでも、流れた血の証だけは消え去って欲しいと思った。
 自分の為ではなく、誰かの為に。
 俺の傷を見て眉を顰めるであろう誰かの為に。

「ぐだぐだ言いやがるなよ、コレの熱さのお陰で、」

 頭から爪先まで雨に打たれながら、先程の錯覚を思い出していた。
 妖怪に銃を叩き付けながら感じた、熱と呼び声。
 凍えて冷えるばかりではない、赤。
 ずきずきと痛みで主張する生きた証。
 痺れた感情を呼び戻した、熱。

「誰かに呼ばれたような気がしたなんて。茶番だ」

 あの妖怪の男は、行く手を阻む障害のひとつだった。
 どうあろうが、排除しなくてはならないもののひとつだった。
 叩きのめして殺そうが、聖典の力で消し去ろうが、あの男に取って、生命を奪われることには変わりない。
 経文の力を使ったことを、慈悲だと考えてしまっている自分の傲慢が判る。
 
「それでも」

 銀髪を揺らして微笑みかける人の姿を思い浮かべだ。
 その人の所為でこんなにも冷たい雨が嫌いなのに。
 微笑む貌で時折記憶に蘇り、そして消えて行く。
 『それでいいんですよ』と言っているのか『それでいいんですか?』と言っているのか、消える間際の幻が浮かべた表情を、読み取り切れない。
 何という無責任な幻だ。
 そんな人の所為でこんなにも雨が嫌いなのに。

 雨よ、もっと強く叩き付けろ。
 
 思い出したくもない記憶と共に、必ず笑顔も思い出すから。
 冷え切るばかりでない熱をもう知っているから。
 凍えても蘇る熱があると判るから。
 だから、幾らでも冷たい粒を叩き付けろ。
 もう、苦しみだけに囚われはしない。
 


 
 

 このまま暫く目を閉じよう。
 雨で溺死する前には必ずやって来る、騒々しい奴らを待つ間。
 泥まみれの姿に盛大に呆れ顔を見せつけるだろう奴に言い返す、効果的な言葉を思い付くまで。
 傷口に触れてくる熱を実際に感じた時に、くだらないことまで言い出してしまわないように、頭が醒めるまで。







 暖かな掌が、頬に触れて来るまで。










 終 




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◆ note ◆
雨の中ひとり戦うさんぞでした。
あとでゆっくり八戒さんに治療して貰ってる筈です。