肺が、腹が、体内から空気を追い出そうと収縮する。
拒絶反応。
受け入れ難い物をとにかく自分の躯から追い出そうとする。
撥ねつけようと。
せめて少しでも遠ざけようと、喉笛がひりひりと痛むまで。
空気は、ひゅうう、ひゅううと往き来するだけ、声帯は枯れ干からびて口蓋の下に張り付いたまま。
目の前に倒れた人の銀の髪が朱に染まって行くのも、吹き飛ばされた片腕が、徐々に硬直して指先が曲がって行くのも、開いたままのまなこに全て、落とさぬように記憶するだけ。
光は暴力的なまでに突き刺さる。
血なま臭い光景、そして鼻腔を突く血の匂い匂い匂い……
全てが強烈に記憶される。記憶されて行くだけ。
喉笛は、枯れたように空気を漏らす音のみ続け、鳴らぬまま。
愛しい、そして自分を愛おしんでくれた人は、暖かみを血流に乗せて失い、空気を同じ温度に冷めて行くだけ。
勇気を振り絞って触れた指先は、冷たくふやけた皮膚の下の、強張る筋肉の感触に戦いた。
どんなに愛しても、これは死骸。
後は腐れて行くだけの、屍肉の塊。
『ひゅうう、ひゅううう』
喉はただ、空気を漏らし続けるだけ。
冷え冷えと氷のような躯に触れる自らの指の鼓動のみが室内に響く。
あんなにも慕った人の血潮が、冷たく濡らすのに体温が奪われて行く。
『ひゅううう、ひゅううう』
何も、何もいらないから。
今までの生活が何物にも替え難いものだったのだと、今知りました。
誰か、それを取り戻してくれる方が、この世には存在するのでしょうか?
望みを叶えるのに贄が必要だというのなら、こんな生命なら差し出しますから。
どうか。
どうか。
聞き届けられることのない、ねがい。
どうか。
■■■ crimson glowingly
『だって、一度も笑わないんですもの』
『悟能……、愛さなければ愛されないのよ』
望みは、絶対的な愛。
理由も根拠もない、ただの情愛。
条件などなく、ただ、受け容れられること。
容貌。才能。知能。
例えば微笑んで周囲の空気を和らげるとか。
そんな……技能。
どんなものも持たぬまま、いっそ憎しみとウラオモテでもいいから、向けられたかった。
理由のない情愛と愛情を。
この世界は酷く不安定で、しかもどこもかしこも手一杯のままだ。
僕を慈しもうと差し延ばされる、シスター達の掌ですら、本当は神の物。
僕の目を覗き込んだすぐ後に、聖堂の十字架に縋るように向かう。
『そんなに一生懸命、僕を愛そうとしないでください。
努力して愛そうだなんて、もうやめてください』
頼むから。
礼拝堂で、刑罰に処された姿のままの男は、悲しげに愛しげに僕を見下ろした。
その日僕は、祭壇から十字架を引きずり下ろそうと思っていたし、でもその眼差しに見つめられた時、後悔と共に無条件な信頼感をも感じて、今にも跪いてしまいそうだった。
だから僕は無理矢理記憶をこじ開けて、悲しいことを思い出す。
例えばよくあることではあるけど、幼い頃に隣のベッドに寝ていた子が、高熱で視力と聴力とその後の知能の成長を失い、やがて別の施設に引き取られて行ったことだとか。
僕たちの幼い頃に両親が亡くなり、姉弟が別れ別れになったこととか。
何もかもを見ることが出来ないのなら、お願いだからもう僕を見ないでください。
全能でないなら、全ての罪を引き受けたりしないでください。
僕のことを救おうとしないでください。
愛そうとしないでください。
僕の求める愛は傲慢でとても利己的で、あなたの与えて下さる愛は清らで無私。
祭壇に掛けた手の指が震え、
「僕はあなたの愛に値しない」
ポケットに忍ばせていた石を、ステンドグラスに投げ付けた。
理由も謝罪も言わぬまま、罰として夕食を抜かれた。
空腹を堪えることよりも、僕に罰を与えたシスターも食事を抜いているだろうことが、僕にとっての罰だった。
「今夜はひとりで過ごしなさい」
誰もいない、何もしない時間は、自然と内省に向かうから。
暗闇で、ベッドの脇に跪き、両手の指を組み合わせる。
罪悪感。
祭壇に散らばり落ちたステンドグラスの、色とりどりに輝く破片。
眼差し。
それでも僕の求めているものは、与えられるものとは違うのだという、いっそ嫌悪感。
祈りの姿勢のまま、離脱する精神。
夜の野原。
星の見えない、藍色の空。
立ち尽くす、金色の子供。
『喪ってしまった』
涙を流さぬままで泣き、胸の前で上向けた掌を、握り込んでは開き、また握り込んでは何も掴んでいないことを確認する為に開く。
その子の泣き顔があまりきれいなので、僕は近寄って慰めようとした。
『俺の目の前で、俺を守ろうとして。
俺こそが守りたかったのだと』
彼の目は僕を捉え、でも本当には僕のことが見えていないように、繰り返し呟いた。
壊れてしまいそうに悲しんで、ただ立ち尽くす彼が。
彼を守ろうとして倒れた人は、そのことで彼が壊れそうになってしまうことを、判っていたのかと。
大事な人。
只ひとりの人を、喪って壊れそうな彼が。
羨ましかった。
立ち尽くす彼が可哀相で、羨望で目が眩みそうになって、そっと接吻けた。
『僕には、喪うものもない』
うっとりとした僕の声の意味する所を理解した彼は、傷付いた目をし、一瞬後に青白い炎のような怒気を閃かせた。
『喪うのが怖いものなど、俺はもう持たない。
そんなものなど、要りはしない。
愛するなんて気持ちも、もう持ちたくない。
そんなものは……』
激昂した彼の声が小さくなった。
『そんなもの、自分の弱さを思い知るだけだ』
彼の白い頬に、透明な雫が流れた。
とても美しかった。
美しい涙を流す彼が弱いだけだとは思えずに、僕はやっぱり羨望の気持ちを抑えることが出来なかった。
再び接吻けようと頬を捉えると、今度は首を捩られた。
少し悲しくなったので、唇に触れず、頬の涙を吸い取った。
『それでも僕は、君が羨ましい』
ベッドに肘を突いたまま、組んだ指に額を乗せるように僕は眠っていたらしい。
暁の光を片頬に受け、たった今まで見ていた夢を、反芻しようとする傍から忘却して行く。
組んだ手を、ゆっくりと開いた。
朝焼けにほの紅く染まった掌は、夢の名残か、僕の望みか。
「喪いたくないものを……いつか僕も手にすることがあるのだろうか」
微かに残る夢の中で、彼の繰り返していた仕草を僕もまた。
両手を握り締めては開き、また握り込んでは空手のままであることを哀しみながら開き見た。
早朝呼ばれた礼拝堂で、シスターと並び祈った十字架に、僕はまともに目を遣ることが出来なかった。
願いを全て知られているようで、それでも僕の罪をも背負おうと、十字架に架けられたまま見つめる瞳を、もう見返すことが出来なかった。
背く心を止めることは、もう出来ないのだと思い知った。
程なくして僕は育った場所を離れた。
見つめる掌は、
何時かの暁の色。
◆ 終 ◆
◆ note ◆
暗い、悟能でした
暗いっ
うーん、暗いぞうっ
これから花喃と出会うと考えたら、更に暗いぞうっ