■■■  天花粉 - BAD BABY - 

「光明三蔵殿。赤子はその後健やかにお育ちで……。何をしておいでで」
「負ぶっております。下に下ろすと寝ないんです」
 金山寺大僧正の目の前で、赤子を負ぶい紐で背にくくりつけた光明が微笑んだ。
 大僧正には、光明が窶れているように見えた。
「光明三蔵殿。もしやお疲れなのでは」
「疲れと言う程のことではありません。ただ、寝ないんですよ、この子が。夜泣きの癖がついてしまったらしく、一晩中抱き上げて庭を散歩してあやしたり。昼間は疲れ果てて眠るのですが、それも布団に下ろしてやると、途端に火がついたように泣き出して」
 へらっ。
 普段から穏やかで笑みを絶やさぬ光明だが、これだけ力無い笑みは初めて見たと、大僧正は思った。
「……そういう訳で、こうやって背負って経を写したり、手紙を書いたり……。ですから今は、余所の寺院にまで出掛ける気力と体力には、あまり自信が……」
「あ、いや。そこまでのご無理をさせるつもりはございません。と、申しますか。この間も申し上げましたが、子守りを雇っては如何でしょうかな」
「それは駄目ですっ!」
 光明は突然、毅然とした声を出した。…本人はそのつもりだったが、大僧正には、その声がひっくり返ったように聞こえた。
「この子には、既に乳母がおります。お乳を貰う間は、他の方のお世話になっているんです。充分人様に助けを受けて、それで更にというのは、わたしの甘えになってしまいます。わたしはっ」
 赤子がぐずった声をあげたので、光明は躯を揺らした。
「わたしはこの手で立派にこの子を育てて見せます!」
 目が据わっていた。

 後になってから、光明はこの頃の自分の心理を思い出すことがあった。
  ―――― ノイローゼ気味だったのだ。
 男手で赤子を育てる。
 始めての、しかも計画にない育児。
 母乳育児が出来ない自分を、当然と思わずに、思い詰めてしまっていたのだ。
 (それについて、乳母の授乳の度にぐっすりと眠り込む赤子を見るうちに、自分に豊かな乳房がない所為で赤子が夜泣きをするのだと、酷く悲しい思いをしたことが原因だったのではないかと思い当たった)
 切実に子守りが欲しいと思うようになった頃には、赤子が人見知りを始めてしまった。
 見知らぬ顔を見る度に泣きながら縋り付く姿には、胸に迫るものもあったし、『自力で育児宣言』を覆すのも業腹だった。

 ともかく、光明は赤子を背負って職に就いていた。
 子連れ三蔵である。 
「光明殿。せめて今だけでもお子を下ろされては?わたくしが抱いておりますから」
「……そーですかー?いーですかーー?すみませんね、助かります。実はちょっと肩が凝って、首が軋んで、背が張って、腰が痛んで……」
 光明の腕から大僧正の腕へ。
 抱き取られようとした瞬間、赤子の躯が強張った。
 宙ぶらりんで息を詰め、顔が紅潮している。
「……気張っておりますな」
「……気張ってます」
「わたくしは、このまま赤子を受け取ってよいものでしょうかな?」
「どう思われます?」
「いや、何とも……」
「もしや、赤子を受け取ってもむつきを替えるおつもりがないと仰るので在れば、いっそ手出しをしてくれない方が、却って気が楽かもしれません」
「はっはっは」
 大僧正は、赤子に伸ばした腕を引っ込めた。
「笑うと、怒りますよ?」
「………。」
 そそくさと立ち上がり、大僧正は光明の私室を辞することにした。
 扉を潜ってから、顔だけ覗かせて小さな声で言った。
「今度、『小』からお手伝いさせて頂くことに致します。初っ端から『大』は、わたくしにはちと荷が重いように思えます」
「いーですから。早く行かないと、おむつ開けますよ」
「ではまた」
 大僧正の、早足の足音が遠離って行った。
 光明は、赤子の顔を見詰めた。
 既に顔色は平常に戻り、すっきりとした所為か、気分良く笑っている。
「……可愛い可愛い、赤ちゃん。きれいにしましょうね」
 むつきを外し、拭き浄める。
「……桃みたいなお尻なのにねえ。あんな意地悪なおじーちゃんには、もう見せてあげなくていいですよねえ。ほおら、きれいになりましたよーー」
 赤子は喉を鳴らして笑い、布地に抑え込まれていない手足を、嬉しげに動かした。
「匂いだってねえ。お乳しか呑んでない赤子のは、臭くないのに。ばっちくないのにねえ」
 光明が話しかけると、赤子はそれを尤もだと言うように、瞳を見詰め返して来た。
「ところで赤ちゃん。むつきが無ければ機嫌がよいのですか?あなたが笑っていてくれるのは、わたしとしても大変嬉しいのですが、やはりむつきをして貰わない訳には行かないのですが」
 光明は清潔なむつきを手に取ったが、紫色の瞳をじっと見ているうちに、笑い出した。
「判りましたよ。何も縛るものがない方がよいのは、当たり前ですね。暫くそのままでいいですよ」
 そのまま赤子の隣に寝転がった。
 赤子は首を回して、光明の姿を目で追った。
「ふう。やっと楽になった」
 光明は気楽そうに微笑み、天井を見上げた。
 真っ昼間に室内でごろごろと転がることなど、久し振りのことだった。
 赤子の柔らかな声音を聞き続けるのが、純粋に楽しかった。

「今だけですよ?甘えちゃいけません。むつきは、後でしっかりつけさせて貰いますからね。……今だけは、そのままで、よろしい」

 真冬の間の、暖かな日のことだった。

○月○日

 赤子というものは面白い。
 何時でも拳を握り込んでいる。
 小さな掌を広げてやると、何故か常に埃を握り締めている。
 幾ら取っても、いつの間にか指の関節や掌の皺に、細かな埃を掴まえている。
「お風呂できれいにしたんですけどねえ」
 大僧正殿は、毎度赤子に会う度、試験のように確かめる。
「今日のは、紙の繊維のようですな」
「毎日きれいにしてるんですけどねえ」
「おや、爪が伸びて来ているようですな」
「赤子の爪は、薄くて切るのが怖いんですよ」
 むつきも取り替えられない癖に、相変わらず口だけは挟む方だ。
 別れた後に、特に丁寧に爪を切る。

○月○日

 赤子の最初の言葉は「まんま」だった。
 わたしを呼ぶ時、食事のお匙を見た時、若しくは何も無くても、ひとりごとで言い続ける。
 次の言葉は「ぱっぱ」。
 どうやら、唇を触れ合わせる音が楽しいので、意味もなく発しているらしい。
 が、「葉っぱ」を指して言っているのだと説明すると、小坊主達は全員納得した。
 この分なら、大僧正殿も絶対信じる。

○月○日

 寝ない。
 徹底的に寝ない。
 徹夜で庭を散歩。
 赤子を中に抱いて外套を着込むと、寒空でも暖かい。いや、暑い。
 夜中に白々と、霜柱が立ち上がって行くのを初めて見た。
 そのようなものを、自分の目で確かめる日が来ようとは、思ってもみなかったのだが。

○月○日

 離乳食開始。
 白湯や薄い果汁から始めて、漸く固形のものを口にする。
 薄い粥だが、匙で口に運んだ瞬間、舌で押し出された。
 まだ乳に負けるようだ。
 敗北感。

○月○日

 粥を吐き出すのを初めて見た時に、酷く驚いた。
 驚くその様が面白かったのか、赤子は延々それを繰り返した。
 気付くと、わたしも意地になって粥を口に運び続けていた。
 ほぼ、勝負事。

○月○日

 口から、だーーー。
 きーーー。

○月○日

 すり下ろした林檎を、好んで食べる。
 作り過ぎた分は自分が頂く。
 ほの甘い。

○月○日

 赤子と共に入浴。
 入浴時だけは、普段小坊主に手伝いを頼むのだが、今日は誰もいなかった。
 赤子を洗い、共に湯に浸かり、風呂から上がって着物を着せてやる。
 自分の躯をろくに洗えなかった。
 赤子に着物を着せ付ける間も、自分は濡れたままだった。
 その後、相変わらず赤子眠らず。
 完全にひとりで育児をする親は、一体どうやって風呂に入るのだろう。
 謎が深まる。

○月○日

 きっちりと部屋の戸を閉め切り、離乳食。
 本日のメニュー、白味魚のほぐし身入りの粥。
 食べ物を粗末にしてはいけません。
 残りの粥を頂きました。

○月○日

 仰向けからうつぶせへの寝返りをうつようになる。
 まだ逆は出来ない。
 腹が苦しいと泣くが、よく泣いた後には、よく眠る。
 そういえば、睡眠時間が漸くまとまってきたようだ。
 ……4時間連続で眠れることが、こんなにも幸福だとは。
 夢も見ぬ。

○月○日

 赤子も夢を見る。
 一晩中、夢で何かをしゃべり続けている。
 もしかしたら唄っているのかも知れない。
 本当に躯が休まっているのか、時折不安になる。

○月○日

 擦り這いが出来るようになってから、気の休まる間もない。
 厠へはひとりで向かいたい。

○月○日

 はいはいに始まり、掴まり立ちが出来るようになって、赤子の世界は一気に広がった。
 今まで見ているだけだった物が、手に取れる。
 今の赤子は知識欲の固まりだ。
 本日の被害、掛け軸(引っ張られて紐が切れた)、花瓶(ひっくり返して床も赤子も水浸し)。

○月○日

 本日の被害、墨汁!

○月○日

 本日は物損は無くも、赤子が何気なく起き上がった、その頭突きにて鼻血の小坊主一名。

○月○日

 赤子の頬が膨らんでいた。
 何事かと思えば、丸い小石を口に含んでいた。
 口中に入れ、舌で探る。
 これが、赤子の物の識別の仕方だ。
 それが、手に取って触るだけで、自分の掌の中の物が何物かを理解出来るようになり、やがて、遠目に見るだけで判断が付くようになる。
 今当然と思って為していることも、経験を経て可能になったのだと。
 すべすべの小石を舐めながら、赤子は教えてくれた。
 生えかけの小さな歯で、かりかりと石を囓って音を立てるのも、楽しいらしい。
「わたしに理解出来ないところで、あなたが楽しんでいることだけは、通じます。でも石は駄目です。出しなさい。赤ちゃん、ぺっぺっ、してください。ぺっぺっ……」
 中々小石を吐き出さぬ赤子に困っていると、大僧正殿がまた口出しをする。
「逆さに振ってお尻を叩くとよいのでは……?」
「あなたにはお尻叩かせませんから」
 言い合っている間に、小坊主が赤子の鼻を摘み、口を開けさせた。
 感心していたが、気付くとまた別の小石を口に入れる。
 エンドレス。

○月○日

 本日の被害、天花粉。
 目を離した隙に置き忘れた天花粉の容れ物をひっくり返し、転がした。
 部屋中に広がる白い粉、漂う甘い薫り。
 その真ん中で、驚いて目を見瞠る赤子がおかしく、笑う。
 わたしが笑ったことで安心した赤子は、真っ白い粉にまみれたままで、這い寄り抱きつく。
 赤子の香りがくすぐったく、わたしの頬にはきっと真っ白な手形が残る。
 小さな小さな赤子の掌の、その形のままに手形が残る。

○月○日

 赤子を負ぶって肩凝り腰痛、抱けば腱鞘炎、睡眠不足は慢性化、生傷は絶えず。
 人ひとり育てることが、こんなに肉体的に過酷だとは知らなかった。
 が、それもこれまでか。
 這い、伝い歩き、そしておぼつかぬまでも、一歩一歩歩み出した。
 ふらふらと上体を揺らし、両手を前に出し、足を踏み出す。
 支えようとつい出したくなる手を、抑えるのに苦労する。
 一歩歩んではこけ、二歩歩んではまろび、掌も膝も顎も、擦り傷だらけになっても、まだ歩む。
「あんよでここまで来られますか?」
 離れた所で待ちかまえるわたしに、掌を差し出しながら近寄って来る。
 はいはいの方が、断然早く移動出来るのに。
 転んでも、何度でも立ち上がる。
 立ち上がって歩み寄ってくる。

 もう、わたしだけの赤子ではないのだ。
 何処へでも行く、ひとりの人間なのだ。
 わたしには見守ることしか出来ぬ、一個の個性。
 さあ、どこまで歩むのか。
 さあ、どこまで共に、歩めるのか。
 例え束の間でも、それは最高の歓びの時間。

「お師匠様、お出掛けのお支度はお済みで……、何を、していらっしゃるんですか」
「ああ、江流。よい所に」
 光明は自室で、柳行李を開けていた。
「荷を探していたら、ほら。あなたの使っていた物がこんなに」
「この忙しいのに、何だっていうんですか……」
 初めて光明三蔵法師の旅に供をすることになった江流は、朝から金山寺内を忙しく走り回っていた。
 身の回りに置いて貰い、役に立つのだと。
 旅の間もお師匠様に何ひとつ不便な思いなどさせぬようにと、張り切っていたのだ。
「ほら、産着。こんなに小さい」
「……。」
 確かに、光明の手に取る着物は、小さかった。
 その柔らかな布地に、光明が頬ずりをするのを見て、江流は俄に照れ臭さを感じた。
「こちらのは何なんです?」
「それはね、わたしが書いている手紙にあなたが押した、手形です」
 くるくると巻かれた紙を広げると、確かに書きかけの書簡に、べったりと墨の手形が残っている。
「そしてこちらは、あなたが初めて筆を持って書いた文字」
 紙からはみ出す勢いの、線状の墨痕と、雫と、やはり小さな掌の跡。
 光明は古びた紙束を愛しそうに眺め、また行李の中から他の物を取り出そうとする。
「こちらはあなたのお茶碗と、お匙。小さな口に合う匙が無くて、粥を炊いてから慌てて探し回ったんですよ」
「お師匠様」
「おや、こんな物まで。鈴のついた玩具を、あなたは大層喜んで振り回して……」
「お師匠様っ。今日の所はお出掛けの支度をなさってくださいっ」
 色褪せた玩具を嬉しそうに眺める光明に、とうとう江流は音を上げた。
「じゃあね、これだけ」
 そそくさと部屋を出て行こうとする江流に、光明は小さな物をつまんで渡した。
 受け取る江流の掌に、丁寧に拵えられた小さな草履。
「あなたの最初の履き物」
 もう、江流の爪先すら、通すことも叶わない。
 無言の江流の頭に、大きな掌が触れた。
「本当に、大きくなりましたね」
 長い間しまい込まれていた草履の、草の香りが蘇ったようだった。
 光明はまたそれを手に取ると、大事に大事に紙に包んで、空になった天花粉の容器の隣に置いた。
 行李の蓋を閉める間際に、最後にまた、微笑んで。

『まんま』
甲高い笑い声と、おぼつかない歩み
真っ直ぐに向けられた、笑顔と掌

「さて…と。行きますよ、江流」
 手早く行李を片付けた光明が部屋を出ようとする。
「はい!」
 まだまだ自分よりも背の低い子供が後から駆けて来るのを、光明は微笑んで待った。

 例え束の間でも、それは最高の歓びの時間。







 endless..... 




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◆ note ◆
光明様お疲れさま編の『ウラ天花粉』です