■■■ 天花粉
「光明三蔵殿。赤子を連れ帰られたとお聞きしましたが……。何をしておいでで」
「濡れたむつきを、取り替えております。村でやり方を教わって参りました」
金山寺大僧正の目の前で、赤子の尻を拭いていた光明が微笑んだ。
光明の私室には、どこで贖ったのか大量のむつきが運び込まれていた。
「寺の下働きの夫婦者が、丁度赤子の乳が離れたところで、この子の乳母になってくれるそうです。暫くすれば白湯も飲めるし、柔らかいお粥の汁から、離乳食を始めるのだとか」
不慣れながらもむつきを整え、光明は赤子を抱き上げた。
赤子は両手を差し上げ、嬉しげに笑んだ。
開いた掌が頬に触れるのを、光明は眦を下げて喜ぶ。
「川岸に流れ着いたのを拾い上げました。しかし、わたしがこの子を救ったのではなく、この子がわたしを選んだような気が致します」
光明は、赤子を抱いたままで大僧正に向き直った。
「この子をここに置くことを、許しては頂けませんか」
真摯な声だった。
自分を抱く人間の声音が変わったことに気付いた赤子が、目線を動かし大僧正を見つめた。
澄んだ瞳を、大僧正は見つめ返した。
「……やれやれ。駄目だと言ったら諦めるとでも仰るか。いや、そうとなれば赤子ごと、平気でここから出て行き兼ねぬお方ですからな。一度言い出したら聞かぬお人柄は、充分存じ上げております」
大僧正は、小さく溜息をついた。
「急な川を長い間流れていたとも考えにくいし、船から流されたものか…。船を襲う賊が横行しているとも伝え聞きますな。もしや賊から、この子だけでも逃そうとでも……」
光明は大僧正に、赤子が身に付けていた数珠を見せた。
数珠の艶やかな紅に、神仏の加護に赤子の生命を託したのだろう、親の願いが感じられたように、大僧正は思った。
「ここへ流れ着いたのも、御仏のご意志か。そしてあなたの前に現れたのも」
大僧正の呟きに、光明は微笑んだ。
○月○日
赤子というものは面白い。
眠るか泣くかのどちらかで、日々を過ごしているようだ。
かと思うと、眠りに就いたままで、急に微笑む。
真っ直ぐに人を見つめる。
「顔」を認識しているのだ。
ふたつ並んだ目があると、それを人の顔だと思う。
顔を動かすと、目で追い掛ける。
泣いている時に側で見つめてやると、真っ直ぐこちらに腕を伸ばしてくる。
○月○日
赤子のひとりごと。
まだ意味を為さぬ言葉で、延々としゃべり続けている。
返事を返してやると、喉を鳴らして笑う。
『あー』とだけ音を発していたものが、徐々に唇を触れ合わせる『まー』の音を発するようになって来た。
鼻濁音や、破裂音も、嬉しそうに声に出す。
赤子がわたしを見て「まんま」と言うので、小坊主達が歯を噛み締め、後ろを向いて笑っているのをよく見る。
○月○日
冷える日に、寒いかと思って布団を沢山着せかけてやると、泣いてばかり。
真っ赤な顔に、熱でも出たかと心配すれば、暑苦しさに汗をかいていた。
ほんの数刻のことなのに、柔らかい肌が赤く擦れる。
泣きながら赤子の言葉で訴える、その声を聞いていると、酷く可哀相なことをしてしまったような気がした。
乳母は笑いながら赤子を沐浴させてやると、ふわふわの羽根のようなもので、首筋や腕のくびれに粉をはたいた。
薄らと白くなった首筋に、甘い香りがついた。
赤子の匂いだ。
赤子など、初めて接したものなのに、何故か懐かしい香りだと感じた。
「光明様も、お子様の頃にはたいて頂いたのでしょう」
それはどうだろう。
そんなに昔のことなどが、香りの記憶になるのだろうか。
甘くくすぐったいような、どこか切ないような。
そんな香りを、わたしは赤子にはたいてやった。
○月○日
やせっぽちな小さな赤子は、乳をよく呑み、持ち重りがして来た。
乳母には未だ、痩せ気味とは言われるものの、手首のくびれや手の甲のえくぼなど、絵に描いたような赤ん坊の体付きをしている。
よく晴れた暖かな日には、着物を脱がせて遊ばせてやる。
ふわふわと伸びた髪が、日差しを吸って陽光と同じ色に輝く。
菫の瞳は、喜びを以て青空や木々を眺める。
小枝に止まる小鳥を見付けた赤子は、飛び立つ動きを目で追ってそのままころりと躯を転がした。
「おや、寝返りをした」
ついつい手を打つ。
○月○日
寝返りにも、得意不得意があるらしい。
動けるのが嬉しいのか、盛んに寝返りをしては俯せて、それで腹が苦しいと赤子は泣く。
まだ、自力で仰向けには、なれないらしい。
仰向けに寝かせても、寝かせても、何度でも寝返りを打っては、また泣く。
汗をかきながら泣き、人を呼んで訴える。
「仰向けにしろ。
また寝返りを打ちたいのだから」
抱き上げた躯から、また甘い香りが立ち上る。
○月○日
赤子の目の前で、自分の顔を掌で隠す。
「いない、いない、ばあ」
急に現れた顔に、赤子は驚き、大喜びをする。
何度でも、何度でも。
顔を隠すことで、赤子は目の前の人がいなくなったものと思う。
「いない、いない、ばあ」
声と同時に目を見合わせてやると、突然わたしが現れたものと、びっくりしながら笑い出す。
何度でも、求められるままに顔を隠し、おどけた表情で現れることを続けた。
幾らでも、この子を笑わせてやりたいと思った。
柔らかな赤子の音色の笑いは、一体いつ迄続くのだろう。
○月○日
赤子が部屋を這いずり回る。
どこへでも這い、進んで行く。
興味を持った物を、そのまま見逃すなどということを、赤子はしないものだと知った。
何時の間にやら、部屋から庭に落ちかかり、危うく掴まえるなどは茶飯事だ。
怪我をするところを救ってやっても、何故邪魔をするのだと不満げに泣かれる。
やむなく抱き上げ、色んな物を見せてやる。
きれいな色。
小鳥。
虫。
花。
人。
柔らかい。
暖かい。
冷たい。
全て手に触れ、口に入れて確かめようとする。
「虫は美味しくないですよ。そろそろお粥を頂きましょうか」
薄い粥を匙で口に運んでやれば、匙ごと口の中で確かめようと咥え込む。
「おやおや。お匙じゃなくて、お粥を頂きましょう。お粥の方が美味しいですよ。まんま、まんまですよ」
また小坊主達が、こっそりと笑い出す。
○月○日
小坊主が小さな声で教えてくれた。
わたしの留守中、赤子は泣いてわたしの姿を探すのだそうだ。
部屋中を這って回って、呼び続けるのだそうだ。
「まんま、まんま」
泣きながら這い、疲れ果ててその場に伏して眠る。
部屋に戻そうと抱き上げると、眠りながらまた呼ぶのだと。
○月○日
物に掴まり、立ち上がる。
高いところからの視界が嬉しいのか、延々掴まり立ちで歩き回る。
何にでも手を伸ばして引き寄せようとするので、倒して困る物、重たい物をどんどんしまい込んだ。
大僧正が、笑う。
「元々何もないお部屋でしたが、また更に何も無くなりましたな」
そのまま話し込んでいれば、気付くと赤子はじっと眺めていた。
どれだけ言葉を理解しているのか。
大人しく隣に座り込んで話を聞き続ける。
○月○日
声音をずっと、聞き続けている。
まっすぐな眼は、心の奥底まで見通すようだ。
長い時間を、口伝で伝わり来た言葉。
天竺国の王家に生まれ、国を捨て、親を捨て、妻を捨て、子を捨て、自分を捨てた男の、真実の言葉。
それを語り聞かせてやれば、じっと耳を澄ませ続ける。
ひとことも間違わぬよう、言葉のそのままを伝えようと。
男の言葉を聞いた最初のひとりは、きっとこのような瞳をしていたのだろう。
赤子は、じっとわたしを見つめ続けていた。
○月○日
赤子はしきりに何か、話し続ける。
何を伝えたいのだろう。
まっすぐ人を見つめながら、喃語で延々話しかける。
言葉のような。
唄のような。
何を、伝えてくれるのだろう。
わたしに。他の誰かに。
空の青を見つめ、
流れる雲を見つめ、
地を這う蟻や、天に向けて腕を伸ばす木を見つめ、
まっすぐに人の瞳を見つめ、
そして耳を澄ませ続ける。
「おまえはどこから来たのでしょう」
「何の為に、わたしの所へ来たのでしょう」
「わたしだけが、おまえにしてやれることがあるのならば……」
ゆるゆると、記憶が遡る。
何かに呼ばれるような気がし、妙に気の急いたあの日。
赤子がわたしを選び、わたしが赤子の重みを抱き上げた日。
包み込む天花粉の香りを嗅ぎながら、遥か自分の幼い頃までを、眩暈のように感じていた。
今のわたしを、わたしたらしめんとする、全ての出来事、出逢い、別れ。
わたしを生み育てた人と、わたしに智慧を教えた人。
連綿と続く、生命、知識、想い。
「わたしがこの子を救ったのではなく、この子がわたしを選んだのだから」
わたしだけが、おまえにしてやれることがあるのなら、
すべておまえに与えよう
わたしの持てるすべてのものを、おまえの前に捧げよう
いつか喜びもて、捧げよう
*
*
*
声が聞こえた。
気が急いた。
足下の滑る泥土のことなど、気にもしなかった。
ただ、急がねばと。
今急がなければ、今までの自分の人生の時間全てが、無に帰してしまいそうな。
喪失してしまう。
小さな声が、輝かしいものが、どこかへ。
消えてしまう。
川面に浮かんだ小箱は、岸からの倒木に辛うじて引っ掛かり、留まっているだけだった。
他の流木などがぶつかれば、あっと言う間に流れ去ってしまうだろう。
ざぶざぶと川の流れに浸かりながら、少しでも早くと水面を手で掻きながら、進んだ。
「!」
川の中を掴まり進んでいた倒木が、流れに押されて動き出した。
小箱が傾ぎ、ゆらりと流れる……
伸ばした指先が箱の縁に漸く届き、引き寄せる。
倒木が岸から離れ、流れて行くのを小箱を抱き締めながら眺めた。
岸に戻り、小箱の中の赤子の息を確かめてから、腰まで水に浸かった躯が寒さに震え出した。
間に合った。
小さな命が流れて消えるのを、止めることが出来た。
御仏にお仕えする為だけの生の中で、目の前で消えかけていた命を救うことが出来たのが嬉しかった。
何を生み出すこともない生の中で、せめて小さな命をこの世に留めることが出来たことが、嬉しかった。
震える躯で、赤子を抱き上げようと小箱を覗き込んだ。
大きな瞳が、真っ直ぐに見上げていた。
西域からの旅人に見掛けるような、色素の薄い髪がふわふわと頭を覆い、開いた瞳の色も見慣れぬものだった。
後になって、菫色の空に投げ掛かる、曙光の最初のひと筋の色合いのようだと思ったが。
小さな小さな腕が上がった。
薄い皮膚に包まれた、作り物のように小さな拳が、振り上げられた。
赤子は、火がついたように泣き出した。
抱き上げても泣き続ける赤子に、不慣れと畏怖で冷や汗まみれになりながら、近くの村まで急いだ。
途中、村へと向かう荷馬車に出逢い、同乗させて貰った。
泣き続ける赤子の声が、今度は徐々に小さくなって行くのに顔色を変えると、馬を御していた農夫が朗らかに笑った。
ただ、泣き疲れただけだろうと。
「川に流されてて、これだけ大きな泣き声だとは、えらく元気な赤ん坊だ。ええ、赤ん坊なんて、何時だって泣くか眠るかなんですよ。お坊さんとは、確かに縁がなさそうですけどねえ」
笑い続ける農夫を茫然と見ながら、腕の中の重みを感じていた。
そうだ。
先刻腕を振り上げていたではないか。
怒りに腕を、拳を振り上げて、この子は怒りを露わにしていたのだ。
心地よい眠りを妨げたものに。
飢えと乾きに。
濡れて不快なむつきを替えろと。
この、横暴で小さな生き物は、王侯のように自分を処せと怒っていたのだ。
怒りに身を震わせて泣き、訴え、そして疲れ果てて眠りかけて。
今は小さな小さな掌が、わたしの指を掴まえていた。
玩具のような小ささで、それでも五本の指に桜貝の破片のような爪を乗せ、わたしの差し出す指を握り込んでいた。
赤子は指を口元に持って行った。
母親の乳にでもしているつもりなのだろう、目を瞑ったままで、歯のない口で吸い付いた。
小さく顎を動かして、強い力で舌でしごいて吸い上げた。
飴のようにしゃぶるのではない。
赤子が唯一口に出来る、生命の源を欲しての動きだった。
指から乳が出る訳もなく、何も飲み込めずに赤子は噎せた。
苦しげに噎せ、それでも渾身の力で指を掴んで吸い上げ続けた。
「……急いでください。こんなに餓えている。早くしないと死んでしまう。……早く!」
農夫はまた笑いながら、わたしを宥めた。
赤子は元気で、これなら村に戻れば、誰かからの貰い乳をすぐに飲むだろうと。
乾いたむつきに替えてやり、抱いて揺らしてやればすぐ、満足して眠り始めるだろうと。
「俺達が死ぬ時ばかり、世話になるからなあ。生まれたての赤ん坊の泣き声も、自分のガキが育って行くのも、お坊さん達が見たり聞いたりすることは、ないんだものなあ」
牛馬を御し田畑を拓く、荒くれた手を持つ農夫が、優しく言った。
「この子はきっと、大丈夫だよ」
慈愛と憐れみのこもる、目と声だった。
濡れた着物を脱がせ、乾いた布地にくるんでやると、赤子は幸福そうにため息をついた。
村の若い母親に乳を貰い、満腹して乳房を咥えたままで眠りこんだ。
赤子を抱き取ると、暖かな重みが腕に掛かった。
赤子の命、運命そのものの重みだった。
小さな小さな掌が、軽く触れたわたしの髪を、堅く堅くひき掴んだ。
赤子が身を捩った。
わたしの抱き方が下手だとの、もっと居心地よく抱けとの仰せだ。
農婦を倣い、そっと赤子の躯を支えながら胸に抱き締めた。
赤子は、紫色の瞳でじっとわたしを見つめた。
わたしの抱き方に及第点をくれようと、歯のない口で微笑んだ。
「わたしがこの子を救ったのではなく、この子がわたしを選んだような気が致します」
何を生み出すことのない生の中、
ただひとつ、失わさせずに活かした命。
その瞳に何を映そう。
その声を、誰に聞かせよう。
偽りも邪もないその瞳を、まっすぐ誰に向け続けよう。
その瞳に映る物は、君になにを教えよう。
その瞳に映る者は、君になにを為そう。
君は、何を為そう。
◆ endless..... ◆
◆ note ◆
光明様育児日記……
もっと可愛いお話になる筈が、何故かこんなに(涙)