「軽いモンでいいわ」
「軽いモンがいいんですね?」
小さなキッチンを、八戒は見渡した。
「残りご飯でチャーハンはすぐに作れますね。でなければ、オムライスか、親子丼…。麺茹でて、冷しゃぶうどんもすぐですよ。勿論、冷しゃぶで…サラダでも作って、それとご飯物でもいいですけど」
手早く作れそうなメニューを提示する。
「んーーー。冷しゃぶうどんで、いいかなぁ」
悟浄は窓の外を眺めつつ言った。
風のない光景は、その日の気温がまだまだ下がる気配を見せないことを示していた。
濡れた髪も重く、シャワーを浴びた後の汗がまだ引かない。
喉越しの冷たいものが欲しい、そう思った瞬間に、頬にひんやりした物が触れた。
振り向くと、缶ビールを持った八戒がすぐ側で微笑んでいた。
「冷しゃぶうどんがいいんですね?」
「ああ、冷しゃぶうどんでいーや…」
伸ばした悟浄の指の先で、缶ビールが、ひょい、と逃げた。
「ン?」
「冷しゃぶうどん、『が』、いいんですね?冷しゃぶうどん、『で』、いい、んだったら、他のもの作りますから。一番食べたい物を言って頂ける方が、どちらかというと嬉しいんですが」
笑顔だった。
笑顔で悟浄の方に、じりじりと詰め寄って来ていた。
「……冷しゃぶうどんが食べたいです。作ってクダサイ」
近付く圧迫感に仰け反る悟浄は、素直に言葉を改めた。
こつ。
汗をかくアルミ缶が、額に軽くぶつけられた。
それと同時に圧迫感が消え、八戒の笑顔から、なにがしかの気配が失せた。
「判りました」
悟浄は、ビールを受け取り、小さく「サンキュ」と呟く。
「……それとですねえ」
「うわ、はい」
息を抜きかけた悟浄は、背筋を伸ばした。
「冷しゃぶのタレ、おろしとキムチと、どっちがいいですか?」
「おろしでっ!おろしで是非ともっ!あ、俺、大根すった方がいい?」
「悟浄……お気遣い、ありがとうございます。助かります」
洗って剥いた大根と下ろし金を受け取った悟浄は、大根を黙っておろし続けた。
自分は、他人と暮らすことに慣れていない。
集団生活に慣れた八戒の方が、日常の摩擦を避けることに長けているのだろう。
概ね、気の利く男なのだ。
それこそ、甘やかしのレベルにまで気を利かせる。
要は……逆らわずにいた方が、何かと良いような気がする。
「長い物には巻かれろ」
「何か言いました?悟浄」
「イヤ、何も…。あ、このタレ、美味い」
「お口に合って、嬉しいです」
穏やかな食卓は、確かにいごこちはよい。
他人と暮らすということは、小さな気遣いが必要なのだろう。
うどんを啜りつつ、悟浄はそう思った。
がっこ。がっこ。がっこ。
旅の最中の野外食。
質素で手早いが身上だが、ごく稀に、多く作りすぎることもある。
自分の作る料理が余って、しかもそれを持ち歩くことが出来ない……
最後までそれを喰らい尽くしてくれる悟空。
がっこ。がっこ。
鍋を逆さにしてお玉を突っ込み、中身を全部浚って悟空の椀に入れる八戒の姿。
……便利なのだろう。
満面の笑みを浮かべ椀を受け取る悟空と、慈しみの笑顔を見せる八戒。
……麗しい図なのだろう。
悟浄は、空になったカップを手持ち不沙汰に持ちながら、ふたりの様子を観察していた。
「悟浄?」
「な、ナニ?」
「コーヒー、お代わりですか?」
「ああ、サンキュ。」
急に声をかけられ、密かな観察を察されたかと悟浄は一瞬の冷や汗をかいたが、特に思うところもなさそうな八戒の様子に安堵する。
「八戒、俺もっ!」
「……俺も、何ですか?」
八戒の『聞き返し』に、悟浄は緊張した。
「俺もコーヒー!」
「コーヒーが。どうかしました?」
八戒はさっきと変わらぬ微笑みのまま、周囲の温度だけが少し下がった。
悟空はすぐさま、先程よりも大きな声でねだる。
「コーヒー、俺にも頂戴!」
「はい。コーヒーお代わりですね」
悟空は。
空気に聡い。
野生の本能で、食事担当者の機嫌におもねることを、躊躇しない。
気遣いや躾に依るものではなく、勘で八戒の求める答えに辿り着く。
そして。
一同の中で、一番、規律正しい集団生活に揉まれている筈の男がいる。
「……」
三蔵が、無言で新聞を捲りつつ、カップを置いた。
カップの取っ手が、ほんの僅かに外を向いていた。
こんな時、八戒は黙ってコーヒーを注ぐ。
三蔵も、黙ってそれを受け取り、口を付ける。
「……悟浄」
「何よ?」
悟浄は、八戒の深い笑みが自分に向けられるのを予感していた。
「コーヒー、丁度無くなりますけど、もっと飲みます?悟浄が飲むんでしたら新しく淹れますけど…」
「ど、どうしようかな」
「三蔵も、まだお代わりします?」
「別にどっちでも」
ぴきーーーーーん。
八戒の、一番嫌う答えだった。
「豆挽くのも水汲むのも、大した手間じゃないので、欲しい方がいらっしゃるなら淹れますけど」
途端に圧迫感を増す空気に、悟浄は息苦しさを覚えた。
目を逸らした悟浄の脳裏で、八戒の笑顔が膨れ上がった。
悟空は素早く鍋を掴み「洗いに行って来る」と、この場を疾うに逃げ出している。
そして三蔵は、少しも動じた風はない。
「……俺、飲もうかなっ?」
ストレスに一番弱い悟浄が、上擦った声をあげた。
「深煎りと浅煎りの豆があるんですが、どちらがいいですか?」
「ふ、深煎りのコーヒーが、飲みたいかなっ?」
「三蔵もそれでいいですか?」
「別にどっちでも……」
「俺がっ!深煎りが飲みたいっ!八戒、コーヒー淹れてくれっ。俺は水汲んで来るからっ!」
「……じゃ、悟浄、お願いしますね」
ポットを手に走りながら、悟浄は心の内で涙を流していた。
三蔵の集団生活慣れは、筋金入りだ。
周囲に合わせ、心遣いをして摩擦を避けるのではなく、何がなんでも自分のペースで押し通す、確信的な我が侭が身に付いている。
今までずっと、周囲が諦めて来たのだろう。
そして八戒は、諦めることをしない。
「頼むから……本人に言ってやれよ」
八戒なりの気の遣いようで、三蔵に対して、人前で直接問い詰めることをしないのだということを、悟浄は気付いていた。
庇護者の前で。
下僕の前で。
三蔵に対して、
「『〜で、いい』のか『〜が、いい』のか、はっきりして下さい」
そう問い詰めることはない。
その分、庇護者である悟空と、下僕(!)である悟浄に向かって、執拗に言い募る……。
「僕もね、不可能な選択を迫っている訳じゃないんです。どちらかを選べるときには、お好きな方を選んで頂いた方が、僕も嬉しいんです。不本意なものを押し付けちゃ、申し訳ないじゃないですか…(微笑)」
三蔵は、「お任せします」のヒトコトも、ない。
「それにね、ほんの小さな言葉の省略の積み重ねって、後々響くと思うんですよね。何ていうんでしょう……要は、ヒト対ヒトじゃないですか。思いやりの問題ですよねえ(激微笑)」
……過去の生活の積み重ねから来るのであろうか、八戒の微笑みは凄味があった。
悟浄には、それを逆撫でる気力はない。
そして。
「孫子の兵法でね。『指桑罵槐』…桑を指さして槐を罵る、ってのがあるんです。直接注意出来ない相手に聞こえるように、他の者を叱りつけるっていう」
「……俺と悟空が、桑の木なんだな?」
「ぶっちゃけ、そういうことかもしれませんね」
「アイツが人の話を聞いて反省するタイプとも思えないんだがな。そもそも、奴は何か感じてんのか、おい!?」
「ええまあ、その辺僕にも判らないんですが。よしんば刷り込むことが出来れば、程度ですかねえ。あはははは……」
空虚な笑い声が、悟浄の脳裏蘇った。
澄んだ川の水にポットを突っ込むと、川下で鍋を抱えた悟空と目が合った。
「俺っ。まだ鍋洗うのに時間かかるからっ。もうちょっとしたら戻るなっ」
悟浄が、天真爛漫ペットポジションの悟空の、世渡りを見た瞬間だった。
「 ―――― おい。煙草が切れた。頼む」
『頼む』
ほんの小さな三蔵の一言に。
ありふれた、消耗品の追加購入を言い付ける言葉に。
八戒がどれだけの満足感を得たのかを、三蔵は知らない。
悟空が、八戒と三蔵の両方の顔に向けた視線を、三蔵は知らない。
何より。
悟浄が長い時間の積み重ねを思い起こし浮かべた涙を、三蔵は知る由も、なかった。