■■■ 浅い夢
優しい掌をしていた。
微笑みながら触れ、頬に付いた泥を拭い落としてくれた。
寺の近くの子供達と馬が合わずに、喧嘩をして帰って来ても、何も言わない。
かなり仕返しは徹底していたから、流石の三蔵法師と謂えども村の親達からの苦情のひとつやふたつ、喰らっていたかもしれないと。
何年もしてから気付いたのは、自分の養い子のとんでもない悪戯を、苦り切った表情の長安の寺院の僧から報告を受けるようになった後だったのだが。
「今日は何をやったんだ?」
「俺、悪いことなんかしてないよ。拾った犬が泥んこだったから、風呂に入れてやっただけだもん。……風呂場に連れて行こうとしたのに、泥んこの犬を持ち込むなって言われたから、お鍋ひとつ借りて、お湯湧かして使っただけだもん」
「火傷をしなかったのも、犬鍋にしてしまわなかったのも、お前にしては上出来だったんだろうよ。……だが鍋を犬の湯船にすることはなかろう」
「だってタライみんな使ってる最中だったし。それに俺、鍋ちゃんと洗って返したよ」
悪意のない悪戯は、それだけに天然小猿によって繰り返され。
……果たして、自分の悪辣な喧嘩っぷりと、持ち込まれた苦情の件数で行くとどちらが上なのか。
こっそり溜息をつきながら、お小言を喰らっていることだけは理解している小猿の前に立ち上がる。
「三蔵、怒ってる?」
「うんざりしているだけだ」
嫌味のひとつも通じて欲しい。
見上げる瞳の間、眉間を狙って指を弾いて叩き付ける。
「イテッ!」
「痛くしてるんだ。見つからんようにするくらいの知恵をつけろ」
通り過ぎかけて、まだ目に涙を滲ませている子供の前に戻る。
親指と人差し指で輪を作り、思いっ切り撓らせて眉間に宛てる。
「……。」
「……?」
「馬鹿か。逃げろ。眉間は急所なんだよ」
これからやってくるだろう痛みに、眉をうんと寄せておきながらじっと耐えて待ってる子供に、思わず呆れ声が出る。
「普通、目くらい閉じるだろうが。本能だけで生きてるドーブツの癖に」
「俺だって普通は逃げるし目ェ閉じるてるよっ!でも三蔵は……」
「あ!?」
「三蔵はさ、逃げたら怒るし。それに、目、閉じなくても平気じゃん」
ものの試しにライターを顔に向けて放れば、即座に反応してキャッチする。
瞬間、目を閉じて。
間髪入れずに掌を、目の前を覆うように近付けて。
「え……?」
きょとんと見上げる、金晴眼。
「だから目くらい閉じろと言ってるだろうが!」
「イテエッ!?」
自分でも謂われの判らぬ腹立ちに、普段よりスピード三割増しのでこぴんを。
頬に、額に、泥をそっと拭って触れた、目を閉じる必要を感じなかったあの掌と、自分の掌が同じものだなんて。
そんなことを信じることも出来ずに。
「単にお前が馬鹿だというだけだな」
「何だよ、三蔵!?」
「どうしました、三蔵?」
「いや」
くだらぬ夢を見ていた。
まだ暗い部屋に、カーテンがうっすらと明るみを伝え始める。
夜が明けきるまでは、まだ少し時間があるのだろう。
眠り直す為に毛布に深く潜り込めば、隣の体温が僅かに近付く。
ぼんやりと目蓋を開ければ、ふいに優しい暗がりと温度。
焦点の合わぬ目に、額から目蓋に触れる掌が映り。
「もうひと眠り」
低い声を心地よく感じる自分に気付き、たった今見たばかりの夢の、最後のことばを思い出す。
「サルも馬鹿だが。俺が延々馬鹿を続けてるってだけか」
記憶に残る掌と、今触れてくる掌とは、全く違うものだけど。
毛布に向かって呟く言葉は、くぐもって吐息に紛れて消える。
くだらぬ夢ごと、目覚めたときには。
忘れてしまっていますよう。
◆ 終 ◆
◆ note ◆
なんとなく、気の抜けたさんぞさま
八戒さんの前では、色っぽくないトコでも、気を抜いてくれるかな