■■■  遍く空の下 

 数多くのいのちを断った僕は、新しい名前を貰い、罪を贖うために生きる。
 月にいち度、長安の三蔵の許へ出向き面談を受けるが、他愛のない話しをするだけで、厳しい保護観察処分の下にいるという実感は、ない。

「生きてたか」
「お陰様で。悟浄も元気に過ごしてますよ。最近は家で食事を摂ることも増えて、規則正しい生活を送る羽目になったことを嘆いてますけど」
「多少人間の生活時間帯に近付いた程度で、『規則正しい』とはおこがましい」
「でも、家にいる時には、掃除や洗濯に協力してくれたり、買い物に付き合ってくれたりもしますし」

 笑いながら、食事を摂り、清潔な環境で生活していることを伝える。
 ちゃんと、まともな人間みたいに生きてますから。
 あなたの庇護者は、社会的に適合してみせてますから。
 雑談を装って、僕はそれを三蔵に報告する。

 百眼魔王城の焼け跡で、からっぽになった僕に染み込んできた、黄金の輝きが今の僕を生かしている。
 生きて変わるものなど、もう僕は持たないかもしれないけれど。
 あの黄金の光が胸にまだ射し込んでいるようで。
 強い輝きに照らされた胸が、まだ明るみを忘れずにいて。

「そのうち就職しようかと思って。これでも各種資格は持ってるんですよ?」
「……『猪悟能』名義の資格をな」
「本当だ。免状千枚を目標にしてたんですけどねえ。また取り直しますか」
「収集癖満足させる閑があるんなら、エキスパート目指せ」

 他愛のない話しを続けるうち、じきに悟空もやって来る筈だ。
 また泥だらけのまま、賑やかな足音で部屋に駆け込み、僕の方に走り寄るのだろう。
 いつも通りに、義眼がちゃんと左目と同じ色をしていることを確かめるように、僕の顔を覗き込みに来るのだろう。
 犯した罪の贄にほじくり出した眼球の、がらんどうの眼窩を見ているクセに、悟空はそれでも僕の目を好きだという。
「きれいだと思ったんだ」
 生きた左目も、埋め込んだガラスの右目も同様に、今でも悟空は覗き込む。
 もしかしたら悟空はビー玉が大好きで、僕は悟空のお気に入りの碧色のビー玉の保管者というだけなのかもしれない。
 割ったり落として失くしたりしないよう、注意しなくてはならない。

 悟空の宝物のビー玉という発想に、僕は自分で可笑しくなって、吹き出すのをこらえるために慌てて席を立った。
 面談中にコーヒーを淹れるのが、僕の役目になったのはいつだったろうか。
 備え付けのコーヒーメーカーにフィルタと粉をセットするだけだけど、それでも三蔵が口にするものに、罪人の僕が手を触れさせてもよいものかと最初は困惑した。
 くだらない文句を言わずにさっさと淹れろ、と、怒鳴りつけられ、それからずっとだ。

 おかしなものだ、おかしなものだ。
 苦みの強いコーヒーに、毒を混ぜることなど容易いのに。
 三蔵に気付かれずにそれを飲ませることも、赤子の手を捻るより簡単なのに。
 コーヒーひとつ淹れることを任せられただけで、僕は喜んでいるのか悲しんでいるのか危ぶんでいるのか嘆いているのか、それが何よりおかしなことだ。

 三蔵に背を向けて静かにため息をつき、落ちきったコーヒーをカップに移した。
 トレイが見あたらないので、両手にソーサーごと二客のカップを持ち、三蔵の座るソファへと近付く。
 陶器の触れる音が、ちりちりと聞こえたような気がした。
 ちりちり。
 かたかた。
 震え出したカップを、支える指がまた震える。
 カップの表面に波立つ黒くて熱い液体が、白い陶器の縁を乗り越え、外壁を伝って落ちる。
 糸底の形の液体が、やがてソーサーから溢れて流れ出す。
 熱さに指が焼けそうになり、耐えきれずに僕は手を離す。

 ソーサーが残像を残してくるりと裏返り、カップは熱い液体をまき散らしながら、離れて落ちる。
 テーブルにぶつかり砕けた破片が、鋭角な切っ先を光らせてスローモーションで飛び散れば、白く輝く薄い破片は、柔らかな皮膚を引き裂いて、きれいな色の鮮血を迸らせるだろう。



 赤く流れる色合いは、きっと白を際立たせるだろう。
 光を吸い込んだような金糸の絡む、青白くすらある膚を、引き立たせるだろう。



「……八戒。八戒! 八戒ッ!!」

 よく通る声に名を呼ばれたことに気付くと、僕はコーヒーメーカーとソファの間で、立ちすくんでいるだけだった。
 熱い液体は無事カップの中に収まったまま、陶器の触れ合う音は小さく、歩む振動に合わせて揺れたに過ぎない。
 指を伝う熱と浮かび上がった赤がまだ体感から消え去り切らずに、カップを置いて座るという簡単な動きがぎこちなくなった。
 三蔵が僕を凝視しているのを感じながら、躯の芯の奮えを抑えようとした。
 ソファに沈み込み、目を瞑って口元を掌で覆う。
 衣擦れの音がした。
 あの白い衣の袂が滑って擦れる音だ。
 カップが持ち上げられる音に釣られて目蓋をあげると、コーヒーに口をつけた三蔵の瞳と視線がぶつかる。
 三蔵は。
 口に出さない。
『どうした?』と聞きもしないのに、僕の痛む所を知られているような気がする。
 何も問わずに、でも見られたくない心の内を、全て透かされてそうな気がする。

 カップの向こう側で、紫暗色の瞳が少し眇められた。

 また心の底を見透かされる。
 息遣いさえ感じられる距離を、一息に詰め寄ってしまいたい欲望を。
 細い首に手をかけて、引き寄せて唇を合わせたくて。
 そのまま抱き寄せ眩い金色の髪を乱れさせ、あの赤い色の似合いそうな素肌を見たくて、引き裂いてしまいたくなる。

 その毅さが、酷いことをされても何時まで壊れずにいられるのか、確かめてみたいと思う気持ちを、見通される。

「……すみません。少し気分が悪くなったみたいです」
 三蔵に向かって腕を伸ばしてしまいそうになるのを堪えて震える、拳を、口元で握り込んだ。
 早目に面談を切り上げてくれと言ったつもりだった。
「付いて来い」
 医務室へでも連れて行かれるのかと思い、断ろうとする言葉が遮られた。
「そのコーヒーを、これに詰めろ」
 見れば、三蔵の手には悟空のものらしい小振りのポットがある。
「外の空気を吸って面談の続きだ。……何を突っ立っている。さっさとしろ!」



 三蔵の執務室の窓から見える中庭を通り、建物の裏手へ抜けた。
 針葉樹の灰色がかった木肌が続き、やがて高い塀の前へ。
「壊れている処がそこにある」
 低い灌木の陰に隠れ、塀の土にぽかりと穴が開いていた。 
 周囲はきれいなままだったから、壊れているというよりも、作為的に壊したというのが正解だろう。
 悟空が穿った穴なのか。
 三蔵も、ここまで来るのに歩みに惑った風はなかったから、脱出用にしばしば利用しているのだろうと思った。
 寺院の裏手に続く林。
 ただ鬱蒼と生い茂る、濃い緑。
 山林を切り開いて寺院を建てたのだ。
 塀の内側の古木は全て、元々この山に生いた樹木を残しただけなのだろう。
 大して見栄えの変わらぬ木立を眺めて、三蔵の後について歩いた。
 天に真っ直ぐ伸びる、針葉樹。
 灌木。
 深い下映えに鮮やかな羊歯。
 踏みしだく毎に立ち上る青い香りを、深く吸い込んだ。
 三蔵はまた黙ったままで僕を見、背の高い木の根本に座り込んだ。
 手を差し出され、ポットのカップにコーヒーを注いで渡す。
 冷めて飲みやすい温度になった飲み物を、三蔵は美味そうに飲んだ。
 空になったカップを返され、僕もまた、コーヒーを飲んだ。
 落とし立ての薫りは幾分とんでしまっていたけれど、自分の淹れたコーヒーは、喉の奥から鼻腔までをしっとり潤す。
 ほう。
 溜息を洩らすと、コーヒーの薫りの湯気が淡く上った。

 何の気配もなかった。
 そこには静けさしかなかった。
 ふたり分の小さな呼吸音しか、なかった。
 三蔵は。
 ゆっくりと背後に躯を倒し、木の幹に身を預けて目を瞑った。
 灰色がかった木の幹と、柔らかく朽ちた落ち葉の絨毯と浅緑の中に、それまで鮮やかに動いていた白い法衣姿が溶け込んだ。
 瞳が隠れるだけで、何故こんなにも穏やかな顔になるのだ。
 先程からおかしな振る舞いばかりの僕の前で、何故そんなにも無防備になれるのだ。
 僕のこの手が多くの命を絶ったことを、充分知っている筈なのに。
 この手を血に浸したことがあるのを、充分承知の筈なのに。

 僕が。
 狂おしくあなたを見るのに、気付いているだろうに。

 今度こそ我慢で出来ずに、僕は三蔵に手を伸ばした。
 
 空になったカップが朽ち葉の上に落ちる、乾いた音がした。
 目を閉じたままの三蔵に、膝で近寄り腕を伸ばした。
 こなれた法衣と隙なく着込んだハイネックから仄見える、細い首筋の後ろに手を掛ける。
 三蔵は、ぴくりとも反応しなかった。
 躯ごと引き寄せられて初めて、目蓋を上げた。
 羊歯の若芽の銀色がかった先端の色が、紫暗色の瞳に映えるのを見ながら唇に触れた。
 噛み付かれるかと思っていたのに、唇に返ってきたのは柔らな感触だけだった。
「どうして逃げないんですか?」
 吐息のかかる距離で尋ねて、また唇を重ねる。 



 どうして逃げないんですか?
 どうして、懐に何時でもしまってある銃で、僕を撃とうとしないんですか?
 僕が怖くはないんですか?
 僕がどんなに惨いことをしたのか、充分ご存じなんでしょう?
 あなたに何をするのかも判らないのに。
 あなたに何をしてしまうのか、自分でも判らず不安なのに。
 唇を舌で割りながら問う言葉を、あなたは理解しているんですか?
 躯を草の上に倒されても、抱き寄せられたままなのは何故なんですか?

 深い下草に躯を押し付け、襟から掌を滑り込ませた瞬間だけ、三蔵は小さく睫毛を震わせた。



「銃を突き付けて止めなくていいんですか?嫌がって逃げないと、怖い目に遭うかもしれないんですよ」
「怖がってるのは、一体誰だ?」
 ほんの少しだけ硬い声で、それでも強い光を湛えた瞳が僕を見た。
「怖がっているのは、お前じゃないのか?」
 捉えた顎に掛けた指から、力が抜けて行く。
「何が怖い?自分がか?」
 掌が震えた。
 三蔵の襟元に潜ませた掌は少し早めの動悸を感じ取ったけれど、彼の瞳は少しも怯みを見せなかった。
「僕は、自分を信じられない」
「奇遇だな。俺は自分しか信じられん」
 無力に押し倒された姿をさらけ出しながら、三蔵は横柄な口調で言った。
「僕もあなたのことなら信じられます」
「嘘だな」
「いいえ。もう信じるものはあなたしかないんです」
「そうは思えねえがな」

 あなたしか信じるものがないから。
 だから僕は怖いんです。
 あなたを壊してしまいそうな自分が、ずっとずっと怖かった。

「僕の心はカラッポで、あの日花喃に手向けを詠んだあなたの声が、たったひとつ、強くて正しい光になって、それに縋って生きてるだけです。あなたが僕に生きる道を示したから、だから死なずにいようと思った。僕の生きる理由は、あなただけです」
「くだらねえ」
「僕自身はくだらない抜け殻です。でもあなたが生きろと言うなら、善良な人間の振りをして一生過ごすことも、出来るんじゃないかと思ってた」
「じゃあ、何故今 ―――― 」



 そんなに必死に取り縋って、苦しそうに泣く?



 三蔵の腕が上がり、僕の頬に触れた。
 指が触れて通った後に、すうっと冷たい風が通った。
 濡れていたのだ。
 三蔵の指に、後から後から伝う水が止まらない。
 指から手の甲へ。
 流れ、ぱたぱたと落ち、溢れ続ける。
 涙が流れて止まらないのだと気付き、僕は義眼を入れた側の涙腺までもがこんなに機能することに、自分で驚くと同時に呆れ果てた。
 ガラス玉を濡らす涙が、こんなにも過剰反応することが恥ずかしく、三蔵の顔を見つめ返すことが出来ずに突っ伏した。
 法衣の覆う胸に額を押し付け、ずっとそうしたがっていた願いが叶ったのだと、気付いた。

「何が怖い」
「あなたを滅茶苦茶にしてしまうことが。とても酷いことをしてしまいそうな自分が」
 三蔵の法衣は、清潔な匂いがした。
 洗い立ての布地の強さと、微かな煙草の匂い、体温を感じた。
 それは幾らでも、後から後から流れ続ける涙を吸い込んだ。
「あなたに酷いことをしてしまいたいと思う自分が、とても怖い」
「人間だからな。醜さなんざ、イヤって程持ってるだろう」
「もう人間じゃないですよ」
「おめでたいな。お前がおきれいな『人間以外のもの』になると、三仏神が期待してたとでも思うのか?」
 ひくり。
 息を吸い込んだ喉が鳴った。
 三蔵の言葉を残らず聞き取ろうと頭を上げかけたけど、三蔵の掌が緩く僕の首を押さえていた。
 身動き出来ずに、鼓動と言葉を直に胸から聞き続ける。
「狡く醜く欲深く、そんな人間として生き続けることがお前の罰だ。苦しいか?生きれば生きるほど、苦しむのが人間だ」
 とても残酷なことを、三蔵は言った。
「お前は狡く醜く欲深い人間だ。既に血にまみれた両手を、必死で隠そうとしている小心者だ。それ以上のサイアクさを、他にまだ持っているのか」
 そっけない声にも関わらず、首にかかる掌から暖かな優しさを感じたような気がした。
 三蔵が自分では決して認めない、柔らかさを感じたと思った。
 僕はその掌をそっと振り切って、三蔵の胸から顔を上げた。
 さっき触れたばかりの唇の上から、紫色の瞳が僕を見ていた。
 他の人にはあり得ない、不思議な紫暗色だった。
「あなただけを信じてる。あなただけが欲しい。あなたを壊してしまいたいと思う、自分の欲が恐ろしい。生々しく生きて、あなたを欲する自分が許せない」
「そうやって苦しむことが、お前に与えられた罰だろう」
「生きれば生きるほど辛いのに、そんな罰を、どうやって耐え続けろというんです?!」
 なんてそっけなく、断罪するんだろう。
 僕は怒りを感じた。
 罪の贖いに新しい生を押し付けた三仏神と、新しい名をくれた三蔵に、怒りを感じた。
 新しい生を受けてからの、初めての、自分以外の者への怒りだった。
「勝手に押し付けられた罰を、大人しく受け止めたままでいる必要もなかろう」
 三蔵の唇のラインの角度が、緩やかに変化した。
 噛み締めていただろう顎の強張りが溶けた。
 その変化に目を瞠る僕の襟元に三蔵の手が掛かり、ぐい、と握り込んだ。
「苦しければ苦しいと叫べ。抗え。自分を許せないと思っているのはてめェ本人だ。クソみてえな自意識だ。……求めろ」

 求めろ。
 自分の言ってる意味が、この人には判っているのかどうか。
 抑え込まれることで恐怖を感じない人間などいないのに、僕を睨みつけて言う。
 どこにも見たことのない不思議な色のきつい瞳で、それを裏切るような唇で。

 襟を掴んだ手に力が籠もり、僕はそのまま引き寄せられる。
「求めろ」
 触れ合った唇が、そう動いた。
「僕の欲しいのは、あなたの全部なんですよ……?」
 応えが返ることなんて期待しなかった。
 ただ、触れた唇の柔らかさに、深く深く溺れたかった。
 割り入り、舌先に触れる全てに僕を憶え込ませたかった。
 刺激に不慣れな粘膜に、触れられる快楽を教えてしまいたかった。
 いつの間にか激しくなった三蔵の動悸を、もっと、胸が壊れるくらいに震えさせようと。
 懐に潜らせた指を這わせた。




 後悔したでしょう?
 求めろなんて言ってしまって。
 こんなに敏感に快感を拾い上げる膚を持っていることに、今まで自分で気付かなかったの?
 震えるほどに感じてしまって、恥ずかしくはないですか?
 知らない快楽に突き落とされるのは、怖くはないの?

 ねえ。

 後悔してませんか?
 あなたをこんな風に乱したいと願っていた僕を、生かそうとしていたことを。

 法衣の布地越しに、軌跡を残すようにして指で触れた。
 裾から差し込んだ手をジーンズに掛けると、緩やかに快楽に酔いかけていた瞳が急に大きく見瞠いた。
 下肢に膝を割り込ませると、僕の襟にかかっていた手が可哀相なくらいに震える。

「……っ」

 声にならないくらいの、声を。
 本能が怖じて溢れた吐息を三蔵は小さく洩らしかけたけど、接吻けで塞いで音にさせなかった。
 襟元を掴んでいた手が、拳の形のままで僕の胸を押し返そうと暴れるので、片手でまとめて両腕を頭上に押し付ける。
 可哀相に。
 閉じようとした両脚は、僕がねじ込んだ膝の所為で腿を摺り合わせることも出来ない。
 接吻けや胸への刺激に勃ち上がったものを撫で上げて、ジーンズのスナップを外してファスナをこじ開けるように指を絡ませる。
「……っ、……っあっ!?」
 淫らがましい指の動きに応え、三蔵は躯を捩らせた。
 仰け反り、腰を浮かす。
 刺激への反応を三蔵は隠そうとしなかった。
 驚いて息を詰める様は、今まで三蔵の素肌に触れた者がいなかったことを伺わせたけど、それでも僕の与える快楽を素直に享受し、表した。




『 ―――― !』

 遠く遠くから、声が聞こえて来た。

『 ―――― 、 ―――― !』

 誰かを呼ぶ高い声。



「 ―――― 、さんぞーお!」
 塀の向こう側からの声が呼んでいた。
 ゆっくり唇を離した僕を、三蔵が見ていた。
 早く上がった吐息に唇が薄く開いているのを眺めながら、僕は躯を離した。
 何かを言おうかと思ったけれど、言葉はすぐに出て来なかった。
 頭上に抑え付けられていた腕を降ろして身を起こし、手首を擦る人に向かって、手を差し出す。
 一瞬、差し出された掌を見て、考えるような表情を三蔵は浮かべた。
 たった今、拘束と愛撫の為に使われていた掌だ。
 戸惑うのも当たり前だろう。
 叩き落とされるかも知れない。
 三蔵は。
 一度眉を思いっ切り顰めてから、腕を差し伸べた。
「……なんだ?」
 動けない僕を睨み付け、さっさと引っ張り起こせと顎をしゃくって見せる。
 三蔵を立たせると、かさかさと枯葉の音がした。
 背中に付いた埃を払い、髪に絡んだ小枝を落とす。

「……さんぞーお!」

 近付く声に耳を澄ませていると、三蔵がまた顔を顰めた。
「おい」
「はい」
「俺に何か言うことはないのか?」
「あなたに言い渡される方だと思ってました。でなかったら、殴られるとか」
「殴られたがってる奴を殴ってやるほど、お人好しじゃねえ。そうじゃなくて……」
 呆れたように、溜息をひとつ。
「俺は、壊れたか?お前に、壊されたか?」
「いいえ」
「今の俺は、もう信じられないか?」
「……いいえ」
「今の俺は、何かが変わってしまったか?」
「いいえ、いいえ」
 僕は首を振るい続けた。
 愛撫に上気した頬で、接吻けに濡れた唇で、潤みの残る瞳で。
 それでも三蔵は、何ひとつ変わらない。
 変えられない。

「お前は……変わったな」



 お前は、変わったな。
 生きて、漸く生きて、変わり始めた。



 欲深く求め、足掻き、苦しむ。
 また新しい欲を得、求め訴え、掴まえようと腕を伸ばし。
 新しく生き始めた。

















「さんぞーお!」
 駆け寄る足音。
 見上げる空は澄んで、針葉樹の頂上には日差しが映える。
 見渡せば深い緑と灰色がかった木肌の色。
 清しい香り。
 羊歯の柔らかな銀色。
 ひこばえの、萌え出したばかりの若葉色。
 手触りの繊細そうな苔。
 枯葉から還ったばかりの、柔らかな黒土。
 金属の擦れる音に振り向けば、三蔵の手許から紫煙が天に立ち上る。
「こんなとこに隠れてるなんてズルイ!抜け穴教えたの俺なんだから、ここ使う時にはちゃんと呼んでよ!」
「お前が付いてくると煩い」
 漸く保護者を見つけた嬉しげな顔に、そっけない返事。
「八戒、来てたんだ!」
 走り寄る勢いのまま、僕の正面に飛びついて、いつも通りに顔を覗き込む子供。
「八戒、元気して……た……?」
 まじまじと見つめる、金色の瞳。
 太陽の様な明るさと、僕の腕を掴まえる小さく力強い手。
「どしたの。三蔵に泣かされたの?」
「え?」
「人聞きの悪いことを言うな」
 慌てて頬を拭ったけれど、涙はもう乾いていた筈で。
 ただ、辺りに見える物全てが美しく感じられて、頬に流れないまでも、それが僕の瞳を濡らし続ける。
「行くぞ」
「どこに?」
 もう背を向けて歩き出した三蔵を、悟空が追った。
「阿呆、面談の続きだ。部屋に戻る」
「なんだァ」
「お前は付いて来なくていい」
「やだ、行く!でもここのがいーじゃん。八戒の目の色と同じ色が沢山あって、すっごくきれいなのに」
「俺はコーヒーが飲みたいんだ!」
 歩き出した法衣の後ろ姿に、日差しが落ちた。
 白く、金に。
 輝く。

「……八戒!」
「はい!?」
 急に振り返った、不機嫌そうに引き締められた口元。
「コーヒーだ」
「はい!」
 僕はふたりを追って、駆け出した。










 終 




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◆ note ◆
カウント10万ヒットを踏んでくださった明生さんへ、感謝を籠めて。
リクエスト内容は「83で幸せならなんでも」とのことでしたが、
幸せを、三蔵様の幸せ、八戒さんの幸せ、と考えて行くと、
果たしてこの人達の「幸せ」って、どんな瞬間なんだろう…?と、
深みにハマってしまったのでした(笑)
悩みまくりの「八戒さんの幸せ」は、余り明るくもならず、既にリクを
半年↑お待たせしている明生さんに、「これでいいっすか?書き直しますか?」と
ご相談させて頂いたりしました。
……駄目出ししにくい聞き方してしまいました。

明生さん、お受け取りと、ご厚意での先行アップのご許可をありがとうございます。
明生さんに八戒さんの淹れたコーヒーとさんぞ様の持ったカップを捧げます。
いつも遊びに来て下さってありがとうございます。
お待たせしました。