■■■  old songs 

*** Lay your hand on me ***

「何が嬉しいんだ?」

 風に紛れそうな三蔵の呟きが、三人の耳に届いた。
 三蔵は、独り言を自分が口に出して言ってしまったことにも気付かない様子で、通り過ぎる親子連れを眺めていた。
 小さな子供が、両手をそれぞれ両親の大きな掌に預け、歌うような笑い声を上げていた。
 よく晴れた日の日差しに柔らかな髪が輝いていた。
 踊るように歩み、時々道に足を取られかけても、しっかりと包み込まれた両腕が必ずその身を引き上げる。
 暖かな掌が自分の躯を持ち上げて、ぶらんこのように揺らすのを、子供は喜び更に高く笑う。

 太陽を見上げ、自分を支える両手を信じ切って、歌うように、甲高い笑い声が通りに響き渡る。

「メシでも食いに行くのかな」
 予想通りの悟空の言葉に、悟浄と八戒は目を見合わせて苦笑した。
「だって、楽しくって嬉しくって、しょうがないって感じじゃんか!」
 悟空は突然、三蔵の袖に飛びついた。
「何しやがる!?」
「こんな感じ?」
 親子連れを見たまま、首を背ける角度で立っていた三蔵の腕を、悟空は振り回した。
 子供のようにぶら下がることが出来るのならば、三蔵の腕で支えて欲しいとでも思っていたのかも知れない。
 白い法衣と、それに包まれた細い腕をきつく握り締めて、金色の瞳が笑った。 
「俺もこのままメシ食いに行きてえ!」
「やめろ、この食欲猿!!」
 何の気構えもなく立っていた三蔵は、自分の育て子に強く掴まれた腕に、躯をよろめかせながら叫んだ。
 力強い掌に振り回され、額に青筋を立てる。

 子供が見上げるのと同じ陽光の下、悟空は嬉しげに笑った。
 信じ切って見上げる視線が、子供と同じだと八戒は思った。
 幸福な光景。
 縋る腕、応える掌。

「三蔵も笑えばいいじゃん」
「笑う理由が判んねえってんだろうが!」

 子供の声が、離れる間際に一際高く響いた。
 両手を高く引っ張り上げられ、そのまま父親の腕に抱き取られたのだ。
 父親の首にしがみつき、笑いながら手足をばたつかせる。
 危ないと叱る声音も、喜びに満ちたものだった。

 信じ切った見上げる瞳。 
 愛しげに微笑む見守る瞳。

『一体、何が嬉しいんだ?』

 三蔵の見ていたのが、子供ではなく親の方であったことに、八戒は気付いた。

*** You spin me alound ***

 その日三蔵は、黙り込むことが多かったように、八戒には感じられた。
 宿の食堂での悟空と悟浄のおふざけにも、神経質そうに眉を顰めるだけ。
「静かに食えねえのか」
 不機嫌な声を聞くうちに、悟空の背すじも空気が抜けるように小さくカーヴを描くようになった。
 面白がる表情を浮かべる悟浄に、三蔵は一瞥をくれる。
「……なァんだよ、何にも言ってねーじゃん」
 三蔵にはそれしか言わなかった悟浄は、その後悟空をからかうことにかかり切りになった。
 青菜に塩の悟空を悟浄が笑う。
「取り柄のバカ元気はどこにやったんだよ、サル」
 箸を握り込んだままの悟空の頭に大きな掌を乗せ、ぐしゃぐしゃと手荒に髪をかき混ぜる。
 すぐにまた騒々しくなった食卓を、三蔵は黙って後にした。
 去る間際、悟空が鼻に皺を寄せて悟浄を睨む、その顔を眺めて。
 悟空の、悟浄を見上げる視線を眺めて。

 三蔵が自室に引き取ってすぐに、悟空も食欲を満たし、睡眠欲に負けて部屋に戻って行った。
 後に残った八戒、悟浄の呼んだウェイターが、忙しそうに追加オーダーのメモを取り、皿を素早く片付けて行く。

「『笑う理由』ねえ」
 悟浄が呟く。
「俺も、少しでも笑って欲しくて空回りしてたタイプだから、ヒトのことなんざ言えねえけどな。……不器用な最高僧サマだよなあ」
 この場にいない最高僧のしかめっ面を思い描いているのだろう、頬杖を突いて小さく笑う悟浄に、八戒は来たばかりのボトルの封を切るとグラスに琥珀を注いでテーブルを滑らせた。
 無骨なグラスの中、バーボンが氷を揺らして小さな音を立てる。
「笑って欲しいヒトは振り向いてもくれなくて。ああ、あの女性も不器用だったんだろうな。代わりに笑顔見せてくれたのは、更に不器用な言葉しか出て来ないようなヤツで。……やっぱり俺にも、気持ちなんか判んなかったけどよ。不器用な奴が集まって、すれ違いだらけだったんだなあ」
 グラスを揺らして氷の音を楽しむ。
「でもあなたの笑顔は、僕は好きですよ。ふとした時に見せてくれる笑顔も、悟空を構って馬鹿笑いしてる時の顔も。通りすがりのグラマーに必ず見せる、唇の片端だけ上げる笑顔も結構好きですよ。たまーに三蔵に流し目くれてる笑顔は、内心穏やかじゃありませんけどね」
「……お前サンの笑顔は、しばしば怖いけどなあ」
 自分のグラスに口を付けたまま上目遣いをして見せる八戒に、悟浄は引き攣るような笑顔を返した。

「僕は。笑ってくれる理由が判っているのに、自分が笑えない子供だったから。同じ神の子を慈しもうと微笑んでくれているのが判るから、それが辛くて。でも」
 グラスに顔を伏せたままの八戒の、小さな声に悟浄が耳を傾ける。
「施設の子供達全員に向けての、平等に与えられる慈愛の微笑みではなくて。無条件の笑顔を向けて貰えたとして。素直にそれを受け止め、返すことが、僕に出来ただろうかとも思います」
 八戒が両手に抱えるようにして持つグラスの中で、琥珀が波を立てた。
 波頭が金色に輝く、小さく緩い波だった。
「微笑みを向けられることが嬉しくて、でも本当に自分に対しての、自分だけの為の笑顔だと、信じ切ることが出来るか。信じ切る勇気を持てるか。何時かその笑顔を失うことを怖れるばかりで、微笑みを返すことが出来るかどうか……」
「そうかもな」
 紅い色の映り込むグラスの中でも、海がたゆたった。
「ある日、欲しくて欲しくて堪らなかったものが、目の前に現れたら。願い続けていたものが現れたら。それが夢のように消えちまうんじゃねえかって、怖くてしょうがねえかもしれねえな」
 悟浄もグラスの海を覗き込み、波を揺らして金色の輝きを見つめた。
「手ェ伸ばして、逃さないように力一杯掴んで、もう離さないってしがみついて。怖くて怖くて、しょうがないかもしれねえな」

 どうして微笑んでくれるの?
 ずっとその笑顔を向けてくれるの?
 訊ねる言葉すら、胸の中で膨らむばかりできっと、音にならない ―――― 。

「ねえ、僕ら。相当不幸な生まれ付きなんでしょうか?」
「幸福とは、言えねえな」
 畏まった声で問う八戒に、悟浄は吹き出した。
「結構失礼じゃありません?」
「だあってよ!」
 咥え煙草に火を着ける悟浄の、掌の中で氷が小さな音を立てる。
「生まれ付きの分、現在好き放題のヤツが何言ってもなあ!」
「その言葉、そっくり悟浄にお返ししますよ」

 願っても得られなかったものがあるから。
 だから今、この手にあるものがどれだけ愛しいか判る。
 この手から離したくないと、伝える勇気をもう、僕らは ――――

 喉を心地よく、琥珀の液体が通り過ぎた。
 喉の奥から、甘く強い香りが立ち上り、躯を満たしていった。

*** Say you will ***

 どうして俺に微笑んでくれるんですか?



 優しい笑顔の理由を知りたくて、でも決して口には出せなくて。
 立ちすくんで見上げる子供。
 答えを聞きたくて、聞くのが怖くて、何時まで経っても言葉に出来ない。
 聞きたい答えが、形作られぬまま胸に膨らむ。
 都合の良い答えばかりを期待してしまいそうな自分が判り、子供は更に口をつぐむ。
 柔らかな眼差しが、そんな子供を見下ろす。
 瞳の色の穏やかさに包まれて、期待が勝手に膨らむ怖ろしさ。

 どうして俺を、そんな風な目で見るんですか?
 まるで俺のこと ――――



     『ねえ、江流。わたしは……』




 音もない部屋で、三蔵はベッドに躯を投げ出し、天井を眺めていた。
 養父の瞳を思い出していた。
 養父が自分に抱いてくれた感情を言葉に変換すると、大事なものを陳腐にしてしまいそうで怖かった。
 あの笑顔を、薄っぺらい感情を現す言葉にすることに抵抗があった。
 薄っぺらく、安っぽい言葉。
 自分の願望と切望と羨望が、ぬっと、姿を現しそうだった。

 部屋のドアの脇に、縁のない鏡が掛かっていた。
 室内に戻ってすぐに、三蔵が覗き込んだ鏡だった。
 眉の顰められていることの多い、どちらかというと表情が面に現れにくい顔が映っていた。
 表情を表すことに不器用なこの顔に向かって、信じ切った笑みを向けるもうひとつの顔を、思い描いた。
『なあなあ、三蔵っ』
 自分が過去に表せなかった想いそのままを、具現化したような、金色の瞳。

 三蔵の脳裏で、幾つもの顔が重なった。

 微笑む養父。
 視線を逸らす幼い自分。
 まっすぐな金瞳。
 そして今、鏡に映したばかりの不器用な顔。

「判んねえって言ってんだよ」

 心の奥に秘めた言葉が、そっと頭をもたげる。
 言えなかった言葉。
 自分に今向けられる瞳が表している、心。

「何で俺を、そんな目で見る。俺は問うことも出来ず、そして返してやることも出来ない」

 天井に向けた顔の、額に腕を押し付けた。
 安っぽい蛍光灯に照らされた部屋が眩し過ぎるように、三蔵には感じられた。
 息苦しかった。
 自分に向けられた瞳も感情も、太陽のように眩しい。
 明るい。
 照らし透かされる。

 表し方を知らない自分の胸の奥、深く深くに存在する感情が、暴かれる。

「俺が知らないのは、『理由』じゃない。 ―――― 応え方だ。心の奥でわだかまる、この気持ちを名付けることも、外に表すことも知らない」



 膨れ上がって行く想いに、ちっぽけな名前を付けることも出来ずに。
 ただただ、苦しい程に感情が。
 表に出せぬまま、今まで受け取った微笑みや今も向けられる明るい瞳の訴えるものが、名付けられぬまま溜まって行く。

*** Invisible touch ***

 ノックが響いた。
 三蔵はベッドに躯を沈めたまま、額から腕を少しだけずらした。
 蛍光灯の明かりからはもう、過ぎた眩しさを感じ取ることはなかった。
「入るな」
 短く答えるのと同時にドアが開いて、黒髪の男が室内に滑り込んだ。
 八戒だった。
 不機嫌の滲む低い声音にもひるまず、歩を進める。
「入るなと言って……」
 歩み寄り、横たわったままの三蔵の躯を覆うように、身を被せる。
 軽い驚きに開かれた三蔵の瞳の、瞳孔が一瞬収縮して光彩の紫暗色が僅かに明るみ、すぐに陰る。
 逆光で柔らかな影を帯びた翡翠が、間近から三蔵を見下ろした。
 深い翡翠が微笑み、穏やかな光が一瞬踊った。


『知らないのは、判らないのは、『理由』じゃない。 ―――― 応え方だ』
『何で俺を、そんな目で見る』
『まるで俺のこと ―――― 』


 三蔵は小さく息を吸った。
 胸がわなないた。
 翡翠の色の瞳に見つめられるのが苦しかった。
 瞳が繰り返し訴えて来る想いに、その返し方もまた判らぬと。
 胸が苦しかった。

「三蔵」

 翡翠色が逸れ、三蔵の頬をかすめてシーツに落ちた。
 八戒は三蔵の首筋に顔を埋めるように、覆い被さる躯を更に密着させた。
 伝わる重みと体温の心地さが、三蔵にはその時いたたまれなく感じられた。
 押し返そうとどれ程藻掻いても、包み込むような抱擁は解けない。

「少しぐらい嫌がられても、離す気なんてありません」
「なんだ、それは」
「強引に過ぎるくらいでないと、あなたにくっついてなんていられませんから」
 三蔵の頬と耳に、少し強い髪が触れる。
 首筋からのくぐもる声には、どこか楽しげな響きがあった。
「殺されなきゃ。いえ、殺されても離れませんから。そっぽ向かれようが、蹴飛ばされようが、何度でも付いて行きますから」
 抱え込む腕の力が強まり、三蔵の息が洩れた。
「押し殺せない気持ちが僕の中に確かにあって、それを表に出すのはとても怖くて、伝えても撥ね付けられたらと思うと不安で不安でしょうがなくて。でも隠したままじゃ、苦し過ぎるんです。膨らみ続ける形のないものに押し潰されそうになるんです」
 肩を掴む八戒の指先に力が籠もった。
「だからうんと我が儘に、僕はあなたを愛してると言うんです」
 三蔵は息を飲んだ。
「あなたが困って知らん振りしても、僕はあなたを抱き締めるんです。あなたが何度ハリセンで打とうと、怒鳴りつけようと、悟空はあなたにぶつかって行くんです」
「おい、それは」
「だってねえ、何も言わずにいて察してくれるヒトじゃなし。何度でも何度でも、繰り返して訴えなくちゃ、簡単になかったことにされそうだし」
「……俺はヒトデナシか?」
「たまには、全部信じ切ってくれたらとは思いますが」
 愛の言葉も抱擁も、接吻ける熱も何もかも。
「抑え続けられるほどの余裕なんてもうなくて。小心者だから怖いけど、我が儘にあなたを抱き締めるんです。あなたが困っても、離したくないんです」
「誰が小心者だよ」
「僕が」
 八戒は上半身を起き上がらせ、三蔵から躯を離して、その手を取った。
「ほら、どきどきしてる。あなたに好きと言う度に、いつも心臓が悲鳴を上げるほどどきどきしてる」
 三蔵は掌から鼓動を感じた。
 真っ正直な程その心臓は心拍数があがっていて、三蔵は吹き出した。
「……こういう場面で笑うなんて、心底ヒトデナシなんじゃないですか?」
「お前の心臓には毛が生えてると思ってたからな」
 三蔵は顔を背けて笑い続けた。
「押し潰されそうな小心者か。……ああ、信じてやるよ。こんなに可哀相な心臓の持ち主だなんて、知らなかったんだ。ああ、信じてやるよ」


 こんなにも。
 伝えることを恐ろしいと。
 誰もが怯えているだなんて、知らなかった。
 怖さを越えて伝えることの、強さを漸く知ったから。
 返し方なんて、知らない。
 伝えられる気持ちも自分の胸に脹らむ気持ちも、名前など知らぬままだが。


「我が儘に、か」


 胸に溢れる感情に、未だ名を付けることも出来ぬままだが。
 
 
「八戒、目ェ瞑れ」
「え?」
 三蔵は舌打ちをして、八戒の目蓋を掌で塞いだ。
 茫然としたままの男の唇に、自分の唇をそっと重ねる。
「さんっ……」
 掌で睫毛が上がるのを感じ、すぐさま唇を離して顔を押し除けた。
「目ェ瞑れって言ったろうが。……いつまでそこにいる? これで仕舞いだ」
「仕舞いって……。でも三蔵が自分から僕に……」
「一々口に出すな」
 心底嫌そうな声を出されて、八戒は黙る。
 ふと気付いて、八戒は掌を三蔵の胸に当てた。
「可哀相な心臓だって判ったか?」
「……どきどきしてる。三蔵が」
「判ったら今日は満足しろ」
「心臓が落ち着くまで、触れさせていてください」
「それじゃいつまで経っても、落ち着く訳がない」
「僕もまだ、胸が苦しいままです」
「……そうなのか?」





 早い鼓動を感じながら、眠りに落ちる。
 拙い接吻けで伝わったもの。
 拙くとも、漸く伝え方を覚え始めた。
 拙くとも、言葉にならぬ想いを伝える方法を。
 伝えられた想いを信じる強さを。










 終 




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◆ note ◆
伝えられなかった言葉の方が、多いから。
胸の中の感情も、きれいも汚いもごちゃまぜで、名前付けちゃうと却ってマズイことの方が多いし。
どれだけ伝えられるんだろう?