cage 
 穏やかな笑顔の青年だった。
 血に染まった姿を見ている三蔵ですら、時折彼の過去を忘れている自分に気付くくらいだった。
 八戒が大罪人の『悟能』であることを忘れないのは長安の僧達くらいで、だからこそ、悟空と八戒と悟浄を供に西方へ向かえという三仏神の命が下った時には、三蔵は安堵を覚えたくらいだった。
 自分の後任が、八戒が定期的に義務づけられている長安での面談で、彼に対して如何な視線を向けるかが、想像に難くなかった。
 汚らわしいものを見下すような視線に、八戒を晒させる気は無かった。

 面談の度に、苦みの成分の混じり込む笑顔で、八戒は言った。
「しょうがないことだと思いますよ。だって、コワイじゃないですか」
 自分の、殺傷能力の高い掌を眺め、苦笑う。
「僕と過ごして平気でいられる、あなたや、悟空や悟浄の神経の方がヘンなんですよ」
 おかしげに、さもおかしげに、笑う。

 手土産に、四季折々の花々を携えやって来る、監視された男。
「近所の方に頂いたんです」
 庭木の花枝を大事に抱えた、笑顔の青年。
 長安を離れさえすれば、八戒は何処だろうが土地と人々の間に溶け込めるのだと、思い知る。
「三蔵法師様にお会いすると言ったら、持たされました。僕が何の為に長安に出頭してるか知ったら、きっと驚くんでしょうねえ」
「自分からべらべらしゃべる必要は、ねえだろ。何の為の三仏神の処分だ」
「完全に、新しい生を生きる為……」
「判ってんなら、くだんねえことをぐだぐだ言ってんじゃねえよ」
 そっぽを向いて煙草に火を着けると、小さく笑う気配がした。
「花、活けて行きますね。花瓶、使いますよ」
「ああ」
 振り向けば、花に向ける八戒の眼は、穏やかな優しさに満ちていた。

 繊細な作業に向いた指が、花に触れる。
 薄い花びらを、ずたずたに引き裂いてしまわない自分を確かめるように、そっと。
 儚いほどに、嬉しげな微笑みを浮かべて。

「じゃ、お水貰って来ます」
 花を抱えた、穏やかな青年。

 経文奪回さえ済めば、長安への帰路の途中で、八戒を遠く離れた地に逃すことも出来るだろう。
 斜陽殿へは、旅の途中で命を落としたとでも報告すればよい。却ってその報せは、喜ばれるのだろうから。
 長安は、『悟能』の血と罪に彩られた人生が、結局繋がり続けることを現在の八戒に思い知らせるだけの存在だ。
 何処か遠くの地で、完全に新しい人生を送らせることが出来るかもしれない。

 自分に、彼を手放すことが出来るのならば。

 宿の部屋で荷物の整理をしていた八戒が、備え付けのテーブルに飾られた花に目を止めた。
「あ。」
 自分の考えに耽っていた三蔵は、新聞から目を上げた。
「なんだ」
「あ、いえ。ちょっと忘れ物を思い出しちゃったんです。窓辺にコップに差した花を、置いたままにしちゃって……。かれこれ、数日経ってますからね。もう萎れちゃったんだろうなあ」
 旅を始めて数日で、すっかり習慣になっている通りに、八戒は三蔵の分もコーヒーを淹れた。
 新聞を読む手許に邪魔にならないように、灰皿の灰が飛ばない位置に、注意深くカップを置く。
 自分の前にもカップを置き、意外に大きな掌と細く長い指で、暖かさを抱え込むように持った。
「まだ蕾が残ってたんです。それでついつい、最後まで置いておいてしまって…。可哀想な目に合わせてしまいました」
「どうせ、花なんぞ枯れるだけだろ」
「それはそうですけど、やっぱり最後まで面倒見てやれないのは可哀想です。まあ、生き物じゃないだけよかったですけど」
「オマエ、オレの替わりに悟空を飼え。奴なら煩いから、餌を遣り忘れることもない」
「悟空が聞いたら怒りますよ」
「3分で忘れる」
「益々酷いなあ……」
 三蔵は新聞を片手に畳み持ち、コーヒーに口を付けた。目線は新聞にやったまま、他愛のない会話を続ける。

「本当は小鳥を飼おうと思ってたんですよ。あそこのうち、悟浄は陽のある内に起き出すことも少ないし、何か生きてるものの気配が欲しくって。でも、小鳥を飼っていたんじゃなくて、良かった」
「1日で飢え死ぬからな」
「生き物だったら、流石に置き忘れることはないですよ」
 八戒は困ったような笑顔を浮かべた。
「そうじゃなくて。……きっと、旅に出るって決まっても、ヒトに遣るのが惜しくなってただろうから」

 自分だけの、小さな小鳥を、誰の手にも渡したくなくなって。

 かと言って、閉じ込めて飢えて死なせることも出来ずに。

 誰のものにもならないように、籠から逃して遣ったとて、野生に戻れる訳もなく。

 そんな思いをおくびにも出さず、誰かに小鳥を委ねることが、
 果たして自分に出来たかどうか。

「こんなじゃ、生きてるものを飼える筈、ないですよね」
 資格、ないですよねえ、と。
 カップに向けたままだった笑顔を、三蔵に向けた。
「本当は、自分のものは、誰の目も届かない所に閉じ込めてしまいたいんですよ」
 うち明けるように低く囁くと、翡翠の色が煌めいて、三蔵を捉えた。

 三蔵は気付いていた。
 別に自分は、大量殺戮者である八戒が、恐ろしくない訳ではないのだと。
 その腕が、自分をいとも簡単に引き裂くことが出来るのを、充分感じているのだと。
 それでも。
 平穏の中、時折生々しく顔出すその翡翠の揺らぎに、自分は強く惹かれているのだと。
 翡翠の色した籠の中、扉が閉まるのを、感じ、感じ、感じ………

   テバナセナイ、テバナサレタクナイ オモイヲ、
   ヒソヤカニブ、オノレノ ココロト、カラダ、ヲ

「……コーヒー。お代わり入れましょうか」
 八戒の目線が逸れ、三蔵は漸く息を止めていた自分に気付いた。
 八戒は丁寧な仕草でビーカーからカップにコーヒーを注ぎ、三蔵は黙ってそれを受け取った。
 席を立った八戒は、ビーカーを片付けながら、また苦笑った。
「まだまだ駄目ですね、僕は」
 たった今、自分の視界を占めた三蔵の瞳を脳裏から振り払う。
 三蔵の座るテーブルに戻った時には、八戒は普段通りの笑顔を浮かべていた。

 二人の間で花が揺れ、花弁が一枚、静かに散った。






 fin 



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