三蔵は遠くに目を遣った。
三蔵の視力は、よい方ではない。
書類や新聞の細かな文字を長く見続けていると、時には頭痛を引き起こすこともある。
「遠くを眺めるんです。
遠くの景色を」
隻眼で眼精疲労が蓄積しっぱなしの男は、自分のことなどおくびにも出さずに言った。
「特に緑の山々を」
目には一番穏やかだからと。
しかして、現在目に入る光景はと言えば、雪原の白ばかり。
「予定が狂ってしょうがねえ」
「しょうがないじゃないですか。こんな大雪、ジープのタイヤも埋まっちゃいますし。……いいんですよ、天気の所為でもなければ、三蔵、休まないじゃないですか」
倒木に腰掛けた三蔵に、八戒が声を掛けた。
「きっと天の恵みですよ」
「天が個人ケアまで面倒見るとは、思えんがな」
「……意地悪ですね。それじゃ。玄奘三蔵法師が天竺まで無事辿り着けるように、強制的に躯を休める骨休みデイを、押し付けて来た」
「可能性として、そちらの方がより高いだろう」
困ったように、八戒が笑った。
「別に何だっていいですよ。 ―――― あなたがゆっくり出来るんだったら」
密やかに付け加える声を、三蔵は聞こえなかった振りをした。
袂に腕を突っ込み、マルボロを取り出す。
パッケージを軽く揺すりあげると茶色いフィルタが飛び出し、三蔵はそれを咥えた。
「吸い過ぎですよ、って言いたいところなんですけど。気分良さそうですね」
ライターから顔を上げた三蔵が、目を眇めながらも機嫌がよさそうなことを、八戒は見て取り言った。
「広々とした所で、のんびり煙草をふかして。こういう場所で吸う煙草って、とっても旨そうに見えますね」
期待したように、三蔵の肩に顔を近付ける。
「旨そうに見えますね」
にこやかに繰り返す八戒に、三蔵は眉間にしわを寄せながら、マルボロのパッケージを差し出した。
「……僕、味見だけで充分なんですけど。ひと口吸ったら、捨てちゃいますよ?雪に降りこめられて、次どこで煙草の補充出来るか、判らないんですよ?」
三蔵は、逡巡した。
味見。
マルボロをひと口吸わせればよいのか。
それとも八戒の欲しがっているのは、マルボロ味の……?
三蔵の視線が、周囲に走った。
離れた場所に、雪遊びに興じる子供達の姿が見えた。
子供に交じって、悟空が駆け回っていた。
悟浄がからかったのか、悟空が雪玉を投げ付け、子供達の歓声が上がった。
間近から、吹き出す笑い声がした。
「あなたが恥ずかしがりなのは知ってますから」
おかしげに笑うその瞳が、柔らかに三蔵に向けられた。
三蔵は紅潮した頬を隠し、また遠くに視線をやった。
マルボロを挟んだ指先だけを八戒の方にやり、視線を遥か遠くに投げた。
八戒は、屈み込むようにして差し出されたマルボロに顔を寄せた。
「唇は、また今度」
囁くような声に勢い良く振り向くと、八戒はもう、三蔵の指先のマルボロだけを見つめていた。
たった今囁いた唇が薄く開き、摘むように茶色のフィルタを挟んだ。
伏せた目蓋の睫毛が、今にも触れそうだった。
ゆっくりと紫煙を吸い込み、離れ際に三蔵の瞳を捉えた。
紫煙を深く吸い込み、細く吐く。
「……もうちょっと、甘いかと思ってました」
碧の瞳が、少し煙たそうに眇められた。
朝日が斜めに射し込んでいた。
青白ささえ感じさせる雪景色のそこかしこに、金色の輝きが宿った。
二人の前で、冴え冴えとした空気に光の粒子が舞った。
「きれいですね」
「ああ」
「煙草、旨かったですよ」
「ああ」
「あなたと一緒にこんな朝の光景を、」
言いかけて途切れさせる。
「コーヒーが少しだけあるんです。後で入れましょうか?」
「……ああ」
悟空と悟浄の諍う声は、まだ続いていた。
「あの二人、いつまで続けるんでしょうね。仕事終わりませんよ」
雪の宿りを貸して貰った恩義を、薪割りで返す筈だった。
二人の様子を眺めていても、いつまでもその諍いは終わる気配を見せない。
「……ガキ。」
「サボってる人よりマシです」
八戒はそう言い放ち、また悟浄達の方を向いた。
「そろそろ、せっつきますか……」
三蔵から離れる間際に、また碧の瞳が覗き込んだ。
「雪も朝日も。眩しいですから疲れない程度に見てくださいね」
ひやりとした指が、三蔵のまぶたに触れた。
太陽の残像と、ひやりとした指の優しい感触に、三蔵の感覚が占められた。
乾燥気味の瞳に、生理現象の涙がじわりと熱く滲みた。
薪を抱えて、悟空と悟浄の元へ八戒が向かっても、三蔵は暫く目を閉じていた。