■■■ 水色の空
「あ、セミ」
じじ、と鳴いて落ちて来た蝉を見て、悟空が声をあげた。
長安から三蔵と共に訪れた悟空と僕は、ギラつく太陽の下、散策をしていた。
雑木林へと続く細く埃っぽい道に落ちた蝉は、飛び立てもせぬのに翅を動かし、腹から鳴動を続ける。
じ、じじっ。
音と動きが止まり、蝉はもう死んでしまったのかと、悟空は真上から覗き込んだ。
白茶けた埃にまみれた蝉は、悟空の落とした陰が躯にかかった瞬間、またばたばたと暴れ始める。
「うわ、びっくりした」
一歩退き、慌てた声。
蝉は一度羽ばたき、ほんの一メートル程先に落ちて一層酷く翅を振るわせる。
「悟空」
「飛べっ。がんばれっ」
大きな鳴き声を響かせる蝉の、その音の大きさが、尽きる生命への必死の抵抗だと、悟空は判っているのかどうか。
抵抗の儚さを知っているのかどうか。
「もうちょっとだ! 飛べ!」
蝉は、悟空の目の前では命尽きなかった。
飛んでは落ち、飛んでは落ちして、やがて雑木林の茂みの中に隠れてしまった。
僕は悟空の目の前で小さな命が果てなかったことを、安堵した。
小さな子供の目の前に、死がありありと姿を現さないで済んだ、と。
「ああ、ここにも」
雑木林の隅っこに、蝶の翅が落ちていた。
その隣には、茶色の蝉、薄緑の蝉、赤いトンボ、黄色と黒のダンダラのトンボ。
なんて儚い。
静かな瞳の悟空が指さす先を、僕も黙って眺めた。
「八戒、このちょうちょ、コイツ食べれる?」
小さな掌に蝶を拾い上げた悟空が、また別の場所を指さした。
そこには若草色のかまきりが、ゆらゆらと細身の躯を揺らして待っていた。
「かまきりも蜘蛛も、生き餌しか食べないと思いますよ」
『餌』と言葉にした時に、僕は自分の声に耳が小さく抵抗したことを感じた。
「じゃあ、こいつのお墓を作ってあげようよ」
「お墓?」
「そう。ちゃんとうめて、ここにこいつが眠ってるんだって目印を立ててあげるんだ。お墓になるような、きれいな石はないかなあ」
悟空は蝶を元の場所に置き、周囲をきょろきょろと眺めだした。
生憎、辺りには灰色でざらざらした肌の小石しか見付からない。
地べたを覗き込む悟空が、諦めの溜息を洩らしたのをきっかけに、僕は彼をよそへと連れ出した。
小さな街の片隅に残る、小さな雑木林だった。
悟空と共に歩かなければ、こんなにも生物の息吹と死があるだなんて、気付かなかった。
「八戒、きれいな石見つけたら拾おうね」
とても重要な契約であるかのように、雑木林から離れる間中、悟空は繰り返した。
儚い翅のある蟲を弔ってやる。
悟空の頭の中は今、埋葬への関心に占められている。
「ねえ、八戒」
くらくらと眩暈を感じそうな日差しの下、僕はぼんやりとしていたらしい。
シャツの背を小さな手に引っ張られ、声を掛けられたことに漸く気付いた。
「あれ欲しい」
悟空の指さす先に、駄菓子屋があった。
店先の、赤と白に塗り分けられた横長の冷蔵庫に、悟空は駆け寄った。
「アイスが欲しい」
「どれ? それでいいんですか?」
悟空の選んだのは、水色に着色されたソーダ味のアイスキャンディだった。
「八戒もいっしょに食べよう」
「僕も?」
べたべたの砂糖味のアイスを口にするのは余り気が進まなかったけれど、額と鼻の頭に粒の汗を浮かべる悟空の顔を見るうちに、冷たいものが欲しいような気がして来て、同じアイスキャンディを二本買った。
袋を剥がすようにして外すとすぐに、悟空は水色のアイスキャンディにかじり付いた。
「うまい!」
嬉しそうな笑顔を見て、僕も溶け出す前にと、慌ててかじり付く。
久しぶりに食べるアイスキャンディは、歯を立てると氷の砕ける音がして、口中に甘さを残して消えて行った。
「懐かしい味ですね。冷たい……」
行儀悪く食べながら歩く悟空の後を追おうとすれば。
「悟空? これじゃ先刻の場所に戻っちゃいますよ?」
「うん」
アイスにかぶりつきながらの空返事で、悟空はもう自分の進む先しか見てない。
ああ、アイスの棒を墓標にする気で。
石の替わりに。
真っ白か、真っ黒かの、艶々の石があればよかったのに。
そうでなければ、きらきら光る大理石。
そういう『とくべつな石』を、子供の頃は幾つも持っていた。
大事なものを埋めた、その目印に出来るくらい特別な石を。
草に埋もれても、自分だけはひと目で判る石を、持っていたのに。
明るい水色の甘い味の染み込んだ棒は、特別な石の替わりになるんだっけ。
「あ。蟻が持ってっちゃう」
雑木林に戻ると、悟空がそっと置いたばかりの蝶を、小さな蟻が運び出そうと行列を為していた。
大きな三角の翅が蟻に引っ張られて、時々ヨットの帆のように立ち上がる。
「もっと美味しいものやるから、ちょうちょは食べるなよ」
悟空は残り少なくなったアイスを噛み割ると、屈み込んで行列の傍に吐き出し、蝶の翅を取り上げた。
「仲間んとこもどれよ。迷子になっちゃうぜ」
翅にしがみついた蟻に説き伏せるような声をかけ、指で丁寧に行列の上に払い落とす。
「俺の指かむなよ」
ぴん。
払い切れずに悟空の指に取り付いた蟻を、爪の先で弾いて飛ばした。
足下には、悟空が吐き出した砂糖味の氷菓子に群がる蟻の集団。
とろけた水色を囲むように、小さな黒点が。
尚も惹き寄せられ続け。
蟲 が。
蠢く。
「はっかい?」
不思議そうに僕を眺める、大きな瞳。
無邪気で残酷な遊びに乗って来ない、大きな友人を、心配している。
気温が下がった訳でもないのに、汗に貼り付くシャツの不自然な冷たさが気持ち悪い。
「あ、あ。え? 大丈夫ですよ。さあ、そろそろちゃんと埋めてあげましょうか」
上手に笑えなかったような気がして気が咎め、却って大きな声を悟空に掛けた。
厳かな表情を浮かべ、掌に蟲達の死骸を掲げた悟空が柔らかそうな土を求めて歩き回り、僕はその後を付いて歩きながら、土を掘るのに手頃な棒や石を物色する。
「八戒、また見つけた。ほら、きれいな緑色のセミのはね」
アイスの棒を咥える悟空の掌には、今や祭壇のように様々な蟲が並ぶ。
「ここにする!」
悟空は雑木林の中に小さな陽溜まりを見つけた。
陽が巡ればそこも周囲と同じ薄暗い日陰になるのだと、そんなことは言わない方がよいような気がした。
「八戒、これあずかってて」
言われるままに差し出した、僕の掌にはらはらと。
儚い翅。
透明に翠。
黒地に黄、紅、煌めく鱗粉のサファイア色。
まだらの黒と黄。
薄緑。
軽い。
僅か数グラムの重みで、空気ばかりを載せているような気すらするのに。
生命の重たさを載せているのに。
この、死骸を拾い埋葬をしてやるという
グロテスクさすら感じさせる遊びを、
遙か昔の子供の頃に、僕もやった。
夏の終わりの終わりの昆虫達は、花に負けない色鮮やかさで、はらはらと命散らしていた。
見事な巣を張る女郎蜘蛛に見蕩れ、そこに絡み取られた薄羽蜻蛉の残滓の翅に見惚れ、森の中の池に身体ごと突っ込み小魚を捕らえる翡翠に魂を奪われ。
いきいきと、なまなましく、続いたり終わったりする命を知っていたのに。
あの時も空は高く水色に、水平に広がりを見せていた。
真夏の終わりの明るさの中、命の密度に気付いて眩暈に襲われるような感覚のただ中にいた。
蟲の翅の複雑な文様の迷路に迷い込み、時間まで遡って行くような錯覚が。
「八戒、ここに」
墓堀の役を終えた悟空が子供特有の甲高い声で言い、僕はそれに従い埋葬を続けた。
汗の滲むシャツを纏い、薄暗い森の中で。
過ぎた暑さに眩暈を感じながら。
甘い香りのする記憶通りの手順で僕は、悟空と並んで祈り続けた。
その日、夏が苦手な理由がひとつ、加わった。
◆ 終 ◆
◆ note ◆
夏休みの記憶を遡ると、空き地や公園の茂みの中で
蟲くん達が蠢く姿に見蕩れた覚えが。
死んだ蝶を可哀相と思い、でも同時に、蟻の触覚を抜くような遊びも
してました。
そんなことを思い出しながら。
でもいまでも蟲見るの好きだけど。