LONG WAY HOME 




「悟能、あなたの学力を買って、名高い学院からも声が掛かっているの。でも…ここを出ても上手くやっていけるの?」
 どこだって同じだ。
 ここでさえ長い時間を過ごして来たんだ。どこでも平気だ。
 もうこれ以上他人のお情けにすがって生きるのも真っ平だ。
 探すモノのないここで、これ以上過ごすのもうんざりだ。

 シスター、貴女は心から善良だったが、僕の飢えを本当には理解出来なかった。
 子供の僕が、どれだけ自分の手で、足で、生きて行きたかったかを。 
 たったひとつの必要なモノを、どうやって手に入れられるかも判らない歯がゆさを。
 たったひとりを求める切実さを。
「そこに行きます」


「悟能。あなたが自分の扉を開きさえすれば、いつでも朝の光が射し込むのよ…」


 僕は15の春に、孤児院を出た。
 有名な学院の奨学生として迎え入れられることが決まったとき、僕は他人にすがる生活からやっと解放された。それまでは、いっそ野垂れ死んでも構わないから、孤児院をオン出てやろうかと思うこともない訳ではなかったが、その勇気もなかった。
 たったひとつの希望があったから、なんとしてでも死ぬ訳には行かなかった。
 「カナン…かなん………」
 たったひとつの名前があったから、なんとしてでも確かめたかった。

 僕たちは、双子の姉弟だった。
 微かな記憶に残る両親。そして、いつも一緒に過ごした姉、カナン。彼女が今、生きているのか死んでしまったのかも判らない。僕とよく似た顔。よく似た髪質。同じ身長。一緒に覚えた歌。
 「どこにいるのだろう」「何をしているのだろう」「生きているのだろうか」「それとも死んでしまったのだろうか」或いは、「幸せに過ごしてくれているといいが」
 僕は彼女のことをよく考えていた。今までの人生で、彼女だけが僕の支えだった。両親が揃い、幸福だった時代。なんと遙か昔のことだろう。もう僕は老人の様に永い永い時間を過ごしてしまったような気がする。
 彼女も…僕のことを考えてくれるのだろうか?
 いや、彼女は僕のことを覚えてくれているのだろうか?
 あの「幸福な時代」は、僕だけの記憶にしかないのだろうか?
 あの「幸福な時代」は、僕だけの幻だったのだろうか…?

 鏡を見る度、カナンは今どうなっているのかを考える。幼い頃は、自分とよく似た顔だけを思い浮かべていたけれど、身長が伸び、骨格が変化し、体毛が生える頃には流石に想像も付かなくなってしまった。
 それほど体格がごつい訳ではない僕だが、女性より一回りも二回りも身体の大きさが違う。学校の女の子達の手指の華奢さと比べると、僕の手はとても大きい。
 自分の掌を眺める。多分、その中に包めるだろう、カナンの手。彼女の腕はか細いだろうか?首は白鳥のように繊細だろうか?しなやかな躯だろうか?ほっそりした爪をしているだろうか?
 そこまで考えて、気付く。僕の思い描くカナンは、母と似ているような気がする。既に顔も思い出せない母に。
 それに気付いたのが、18の春だった。



「猪、悟能さん…?」
 学院の事務室で、彼女と出逢ったのは偶然だった。
「この名簿でお名前を見て…ごのうさん。私、同じ名前の人を捜しているんです。幼い頃に別れ別れになった弟を捜しているんです」
 彼女は、畏る畏る、僕の顔を見る。僕の瞳、輪郭、髪、体格…。
「私は、カナン。花喃です」
「カナン…花喃。花喃!花喃だ!!」
「…悟能、悟能!あなたなのね!?本当にあなたに会えたのね!」
 名前を覚えていなかったら、多分一生出会えなかった。それほどまでに彼女は僕に似ていない。こんなにも細い躯?柔らかい肌。抱きしめた時に香る髪。顔のない母とよく似たパーツ。
「ねえ、悟能。あなた、私の記憶の中のお父さんに似ているわ」
 ああ、僕たちはよく似た双子から、両親の遺伝を受け継いだ姉弟になってしまっていたのか。


「ねえ、覚えている?私たちのお父さんは教師だったのよ。あなたも勉強して先生になるの?」
「そうだね。このまま行ったら教師になるのが一番自然かな」
「お母さんは、お父さんのいた学校の事務をしていたの。だから私も学校の事務員になりたかったの。学校をお花で一杯にしていたというお母さんのようになりたかったのよ」
 彼女はよく笑う娘だった。薄れた記憶を手繰りながら、快活に話す。僕たちはしばらく夢中になって父と母と、幸福だった頃の自分達の話をした。

「そうよ、悟能ったら私のお気に入りのクマの縫いぐるみ、すぐにとるんだもの」
「花喃の縫いぐるみはウサギじゃなかったっけ?」
「ウサギはオルゴールよ。誕生日に貰ったんだもの。覚えてるわ」
「僕の誕生日のプレゼントのイヌの玩具は、すぐに壊れちゃったんだもの。花喃が意地悪して僕には貸してくれないから、勝手に遊んでたんだよ」
「あら、私は悟能ほど意地悪じゃなかったわ」
 過去がいきなり姿を変えてやって来たけれど、それはすぐに繋がったかのように思えた。
「ねえ、今のあなたのことをもっと教えて。ずっと会えなかった分、私たち解り合いたいわ」
「僕は孤児院でよく君のことを考えていたよ。大人になったらいつか会いたいと思って」
「…そうね。私もあなたに出会えることを願っていたわ。だって私たち、たったふたりの姉弟だもの。あの幸せだった子供の頃を、一緒に過ごしたんですものね。時折思ったわ。あの幸せだった時代は…」
「…自分の記憶の中にしか、ないんじゃないかって」
 彼女の言葉を、僕は横取りする。そしてまた、彼女は続ける。
「幻だったんじゃないかって…」
 僕たちは、長い間、見つめ合っていた。
 彼女は、やはり僕の思っていた通りのカナンだった。



 彼女の部屋は、微かに懐かしい香りがした。単に清潔で花の飾られた部屋が懐かしかっただけかもしれない。でも、出窓のカーテンの色や、本棚に飾られたガラスの動物や、壁に飾られた絵画の雰囲気は、確かに覚えのあるものだ。
「…そうよ。私『自分の家』みたいにしたかったのね。孤児院にいる間、ずっとずっと欲しかった『自分の家』を作りたかったの。悟能は笑う?」
 どうして僕が君を笑えるだろう?花喃。僕と同じものを記憶する花喃を。同じ記憶を欲しがっていた君を。
「いいや、僕も同じだよ。ずっと子供の頃の幸福の続きを探していた。失ったモノの続きを探していたんだから。君を…花喃を…」
 僕は花喃を抱きしめる。僕のカナン。僕と同じ身長だった君がこんなにも自分より小さいなんてこと、思わなかった。こんなにも顎のラインが儚げになるなんて思いもよらなかった。
 僕たちは、なんて違って来てしまったのだろう。
 強く抱きしめる腕の中で、カナンは言った。
「私、ホントウの『自分の家』を持つの。来月結婚するのよ。悟能」
 呼吸が急に止まった。
「どうしても欲しかったもの、今度こそホントウに手に入れるの。お母さんみたいになりたいの。そして、私たちみたいな子供が欲しいの。もう一度、失ったモノを手に入れたいの。今度は、今度こそは、大事に壊さないようにするのよ…!」
 彼女は嗚咽をかみ殺しながら、僕に言う。
「ねえ?可笑しい?こんなやり方。とっくになくなったモノを取り返そうとする私がオカシイかしら?でも、駄目なの。私の中のどこかで、時間が止まっているのよ。小さな時のままで、泣いてるの。もう一度昔に帰って、その時からやり直さないと、きっと私の時間は始まらないの!」
 震えるカナンの躯が、余計に小さく感じた。なんてか弱いんだろう。そしてなんて僕と似てるんだろう。失くしたものを欲しがって、何でもしようとする彼女が、前よりもずっと親しく感じられる。
「もしも…」
 僕の胸に頭をもたせかけたまま、カナンは言った。
「もしも、もっと早く悟能と会えてたら…。ふたりで『自分の家』の続きをやれてたら…」

 きっとそうだね。
 そうしたら、例え生活はラクでなくても『幸福な双子』の続きが出来ていたのかもしれないね。
 こんなにもきしみを感じないで。



 十日程してカナンに引き合わされた婚約者は、ごく平凡な男だった。
 中肉中背、特に覇気がある訳でもなく、優しく、気弱そうな。平凡な男と、平凡な結婚をして、とても平凡で幸せな家庭を築くだろう。それは確実な予想だと思う。
 なんだか落胆を感じながらも、僕はそれが何故だか判らない。花喃と続きを作る役目を盗られた、という気分が大きいのだと、それだけは判る。
「悟能。会って貰えて嬉しいわ。遅くなってしまってゴメンね。最近この人、お仕事が忙しかったんですって。でもこの人があなたにとってもお兄さんになるのよ」
 当たり障りがない程度に、談笑をし、引き上げる。
 兄、か…。
 今まで思ってもみなかった存在。僕が長い間欲しがっていた記憶の中にはない存在。
 僕は、たったひとり、取り残された気分になった。
 今までずっと求めていたものが、永遠に遠のいてしまったのだと、思った。



 数日の間、僕はカナンと会わなかった。特に会う用事もなかったということもあったけど、どうしても彼女のいそうな場所には足が向かなかった。僕の姉。手の届かない僕の夢の続き。
 飲んでも酔えない酒を軽く飲み、ベッドに転がる。
 暗くて殺風景な部屋。
 孤児院で躾られていたのを反発するかのように、数日替えていないベッドのシーツ。
 ずっと前にカナンが持って来たコップの花。
 …換えていない水はにごった色をして、花はしおれている。
「くすくすくす…」
 自分が自分を嗤う声だけが聞こえる。
 子供みたいだ。欲しがるだけ欲しがって、泣きそうな自分。もとから手に入るようなモノじゃなかっただろうに。こんなにも長い間、僕はナニを求めていたんだろう。
 急にドアを激しくノックされた。真夜中に響き渡る音に、なんだか胸が騒ぐ。
「…カナン!」
 鍵を開けたドアから転がり込んできたのはカナンだった。
「悟能!悟能!私、大変なことをしてしまった…!」
 彼女の両腕は、朱に染まっていた。
「あの人、結婚は取りやめようって。ご両親も親戚も、孤児なんか要らないんだって。今までどう生きてきたか、判ったものじゃない、ですって。これからどんな親類が出て来るか判ったものじゃないですって!!」
 …僕が、会ったことがいけなかったというのか?
 僕たちが、今までどんな思いを抱えて生きて来たのかも知らずに否定するのか?
「どうして奴は、カナンを…君を庇わなかったのか?」
「…親戚が…身元のちゃんとしているお嬢さんを会わせたんですって。会ったんですって!あの人…!もうずっと前に!!」
 カナンは震える声で叫ぶ。
「だから…私、刺しちゃったの。血が沢山出たの。私、多分殺しちゃったわ。どうしよう。悟能、どうしよう…」
 血の気の引いた顔の彼女を何とかなだめ、どこで刺したのかを聞き出す。相手の部屋。深夜。出入り口は人目に付きにくい。郊外?
 もしかしたら、何とかなるかも知れない…。
 僕は何の説明もせずに、彼女を僕のベッドに寝かせた。何日も替えていないシーツは、こなれた優しさで彼女を包んだ。僕の匂いの中で、少し待っていて。
「…もう、どうやっても手に入らないの。駄目なの。どうしても戻って来ないの…」
 カナンはつぶやき続けている。僕のシーツで。



 カナンから聞き出した住所に、こっそりと忍び込む。開きっぱなしの鍵。倒れている人間。大量の血液。失禁の匂い。…彼の胸は、血に溢れていた。
 傍らのナイフ。血塗れの。
 僕はそれを拾い上げて布に包んで懐にしまい込む。適当にクロゼットや引き出しを乱す。金目の物を持ち出す。上手くいけば、強盗の仕業に見えるだろう。運が良ければ。駄目だったら、僕がやったことにしてしまえばいい。カナンだけは酷い目に遭わせたくはなかった。
 ふと、ベッドに目が止まる。
 乱れたシーツに。
 カナンがつぶやいていた言葉が蘇る。「普段通りに過ごして、話をしていたの。そうしたら突然、そんな話が出て来たの…」
 カナンが抱かれたベッド。カナンが掴んだシーツ。
 僕は躾られた几帳面さで新しいシーツに取り替える。古いシーツはくしゃくしゃに丸めてその辺の籠に突っ込んだ。



 拍子抜けするくらいに、上手く行った。もとから殺人も強盗も、ありふれたことだ。僕たちの両親が死んだように。僕たちが孤児になったように。
 カナンは婚約者に先立たれた可哀想な女になった。
 物も食べられず、水もロクに飲まない。
 田舎の役人が強盗の仕業と発表したよ、と伝えても、彼女の血の気は戻らない。
「でも、殺しちゃったの、私よ。私、自分で壊しちゃったの…」
 カナンはあれから僕の部屋にずっといる。呆然と時間を過ごしている。僕が唇を寄せても、逃げもしない。そのままゆっくり躯を倒しても、暴れもしない。

「カナン、僕たちやり直そう。続きを自分達で作ろう」
 彼女の目が大きく見開く。
「僕たち、また『自分の家』を作ろう」
 大きな目を開けたまま、カナンは涙を流す。僕はひとつひとつ丁寧にカナンのボタンを外す。
「出来るのかな」
「出来るよ。僕たち、あんなに同じ物を欲しがっていたんだ。失くした物を取り返したかったんだ。もう一度、続きをしよう」
 カナンは声を上げて泣いた。
 僕は、乾いた目のままで泣いた。
 彼女の唇を塞いだままの形で笑った。
 僕の永い間欲しかった物を手に入れた。





「悟能!掃除済んだわ」
「こっちも荷物まとめ終わったよ」
 僕は学院を中途退学して、ふたりで遠くに行く。教員の職が、多分見つかるだろう。
 カナンは婚約者を亡くした悲しみに、慣れた土地を離れるのだと言われる。
 僕たちは、だあれも僕らを知らない土地に行く。
「行こうか」
「行きましょうか」
 多分、僕たちの両親も、何も持たずに出発したのだろう。お互いの他、何もなかったろう。こんなにもお互いを必要とし合っていたかは、僕たちの方が上なのかもしれない。



 遠くから、僕たちの乗る汽車が近づいて来る。
 僕たちの運命ごと、未来ごと乗せる汽車の汽笛は
 鋭く悲しく聞こえた。



























 終 







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◆ アトガキ ◆

「10 years ago」以降、花喃と共に過ごすまで、です
彼らが過ごした、ほんの一瞬が、幸せに満ちていたのは言うまでもありませんが
例えば花喃が懐妊でもしたら、一瞬のうちに壊れそうな幸せだと、そういう風に思ったんです
近親相姦に至るまでに、どれだけ沢山のもの、壊したかな、とかも思った
花喃ちゃんのご冥福をお祈りいたします