月皓桜影 







水面に映る月が一瞬さざ波にかき消され、そしてまた映る 
波紋の消えた水面には、
ただ浮かぶ花びらだけが残っていた









 天界人の中にあっても、観世音菩薩の甥にあたるという地位は、飛び抜けたものだった。ましてや、釈迦如来の庇護をも受けるという噂もあり…それはこのよどんだ空気の中にも刺激を与えるものだった。

 刺激。
 劣等感の裏返しの悪意。

 勿論、表だってそんなことを口に出すほどの無粋者はいない。ただ、誰もがあの無表情を「変わり者だ」と笑うことのみでウサを晴らしていた。
「やはり我らとは違うのさ。おキレイなことだな」

「やはり金蝉童子殿には、この手の店は性に合いませんでしたな。いや、申し訳ないことをした。次からはもうちょっとお上品な場所を選ばなけりゃな」
「いやいや。金蝉殿には、却ってこういう場所にも慣れて頂かねば。将来はもっともっと上の地位に就かれるのだろう?人の上に立つ者がこう堅物なままでは、我らが困るさ。おや、堅物などと言ってしまって…」
 どっと下卑た笑いが湧く。
「ほら、黙っていないで呑んだ呑んだ。金蝉殿は我らが酌は受けられんと申されるか?」
 無理矢理に酒を勧められて、金蝉は仕方なく杯を乾す。
 新しく瑠璃の酒杯と酒壷を持ってきた女がしなを作る。金蝉の隣の男がそれを膝の上に座らせて, また笑う。金蝉がほんの一瞬だけ眉を顰めた、その様子が可笑しいと言って。

 金蝉がこういう席に顔を出すことは稀だ。職務上の会合がたまたま酒を出す店で行われたのだ。思えば多少のからかいの意味もあったのだろう。食事も美味いし良い酒を出す店ではあったが、店の女達は時には男達に身を任せることもあるらしい。仕事の話が終わった頃から雰囲気が変わりだしたのだ。

 天界といえども、全ての人間が上品だったり達観している訳ではない。下界の人間と同じ様な泥のような感情にまみれている。それに気付かぬ振りで、自分達天界人が下界の人間とは違うと言い張っている。
 観世音菩薩が常に見ているという、下界の汚泥の中からすっくと立ち上がり開く蓮華の花。その蓮華の花の開く世界とて、汚泥に満ちている。
 だからこそ、蓮華は美しく儚く咲くのだろう。
 観世音菩薩は、人の世を見守り続けているのだろう。

 会合に出席したうちの良識派が、そろそろ場の空気の悪さにうんざりして来たようだ。さりげなく金蝉を誘って退席を申し出る。それをありがたがる訳でもなく、変わらぬ無表情でそのまま立ち上がる金蝉。

 僕と金蝉の目が合った。
「…フン」
 おや?僕が面白がって見ていたことに気付いていたんですか?

 後ろ手で閉めた扉の向こう側で、大きな笑い声が上がった。

「ずっと見ていて気分のいいものじゃない。だが金蝉殿が暖簾に腕押しなままだから、こうなるのは分かり切っていたことだ。自分でし向けているのと同じことですぞ」
 頑固そうな老人が、苦々しげに金蝉に向かって吐き捨て、そのまま歩き去る。
「……なんでオレが怒られなきゃならんのだ。別に、くだらなさ過ぎるから放ってあるだけのことじゃねェか。あれだけ判り易い奴ら、腹も立ちゃしねェ」
「それが駄目だと言ってるんですよ。あのご老体は」
「チッ」

 黙って立っているだけならば、この人に好意を向ける人間も多い。しかしいつ迄経っても変化のないこの人の態度に、誰もが自分の価値に不安を覚えるのだ。苛立ちを覚えるのだ。先ほどのご老体は、かなり金蝉に対して好意的な方だ。そんな彼に対して歯がゆさを感じてくれているのだから。

 自分はまともに相手をされていないのではないか?
 …自分で築いた地位に就いている訳でもないのに、この若造は自分のことを見下しているのではないか…?

 鏡を見るのと同じこと。
 自分の価値を信じられぬ者は、金蝉の無表情に映し出された自分の真の姿を見つけてしまう。

 その様子が面白くって、僕は彼のことをずっと見ている。様々な人達が、彼の前でさらけ出す本性を見ている。彼もそのことを知っている。
「いやなヤツだな」
 以前ひとことだけ、言われた。
 それだけ。そのまま僕のことを避ける訳でもなく、寄って来る訳でもない。

 寄り道を誘っても、彼はそのまま付いてくる。断る理由がないからだ。
 川沿いの、桜の並木。まだまだ蕾も堅く、枯れ枝が並んでいるのと同じようなものだった。
「下界の桜がまだ咲きませんからね。天界の桜もまだまだですよ」
 天界に厳しい四季はない。ただ花達は、下界の様子を映し出すかのように同時期に咲き出す。単にシンクロしているらしい。黒々と桜の枯れ枝を映し出す、その月さえもが、下界の月の反映したものだった。
「ああ。こんなものを見せに寄ったのか?本当にお前は物好きだな」
「ええ、楽しいですよ。ほら、花は咲かなくとも息吹は感じるじゃないですか。桜の枝が随分赤みを帯びて来ていますよ」
「…そうだな」
 川面に、月灯りと桜の影が映る。共に、並び歩くふたつの人影も。

「お前も大概の変わり者だな。オレのことなんか見ていて飽きないのか?楽しいのか?」
 彼は僕の方を見ないまま言う。
「楽しいですよ。飽きるなんてこと、あと何百年もないでしょうね。貴方が嫌だと言えばやめてもいいですよ」
 金蝉は暫く考える。
「嫌だ、というのとも違うな。ただ…本当に楽しいのかと思ってな。オレに苛立つ奴らなんか見て、どうするんだ?」
「…なに?自己嫌悪してるんですか?彼らは勝手にあなたのことを見て、勝手に幻想に負けて自分を嫌いになってるだけですよ?そんな自分の姿、気付かなかったらそのままで済んでたんでしょうがね…」
 川面に映る自分達の影を見て、金蝉は黙ったままだ。
「人はね、他人に反映された自分を信じるんですよ。自分だけを信じ切ることなんて、難しいんですよ。…あなたは反対に、他人に映る自分というものが…よく判らなさ過ぎるんですね。どうでもいいんでしょう?本当は。自分のことも、他人のことも」

 風が揺れた。

「…どうでもいいと思っている訳じゃない。ただ、そう、本当によく判らんのだ。大きな望みを持つとか、必死に何事かを成し遂げようとするとか。妬んだりそねんだり忙しい奴らのことが」
 金蝉が振り返ると、肩から髪が流れ月光を返した。
「そう…。まるで小さな子供のようですね。可哀想な」
「可哀想か。…別に自分が可哀想だとも思えんがな。子供呼ばわりされて嬉しい訳でもないぞ」
「ははは。僕も失礼でしたね。…もう少し、この川の先まで付き合ってください。お詫びにいいもの見せてあげますよ」
 また歩き始めた僕たちが川面に映る。水の流れは、ふたつの影をさらさらと流し去る。

「ほら、その先ですよ」
 川から水の引かれた池の畔に、ほっそりした樹影が見えてきた。か細いくらいの枝が枝垂れている。
「…花が…桜か。咲いてるんだな」
「ええ、ここにだけ、数本。これだけ他のものと時季はずれで咲くんですよ。小さな小さな花ですけどね。満開にはならずに、ぽつぽつと絶えることがない」
「狂い咲き、というのでもないのか」
「どうでしょうね。満開に咲く桜の妖艶さはないですけど、一途に堪え忍ぶ少女の様で可愛いでしょう?」
「さあな。その例えはワカランがな」
 僕が桜の下の椅子に座ると、彼も隣に腰を下ろした。後ろに手をついて上を見上げると、彼も同じように上を見た。
「…淋しげに見えるな」
「そうですね」
 ひらりと一枚だけ花びらが舞い、金蝉の唇に触れた。彼がそれに伸ばそうとした腕を、僕は宙で止めると、そっと接吻ける。接吻けで花びらを取る。
 彼が目を見瞠く。
「淋しげに見えたんですよ」
「……勝手なことばかりいうな、オマエは」
「まあね、僕くらいに勝手に出来るようになったら、貴方に苛立つ人も減るんでしょうよ。敵も増えるかな」
 掴んだ腕を放さずに、引き寄せ、抱きしめる。
「…おい。何の真似だ」
「悲しいんですよ、子供のような貴方が。悲しいんですよ、そんな貴方の廻りの人達が」
 月光に青白く染まった髪に、唇を押し当てる。
「可哀想なんですよ、そんな貴方を見る僕が。…可哀想なんですよ、誰よりも貴方が」

 金蝉はされるがままに僕の腕の中にいる。彼は何を考えているのだろう。

 また花びらが舞い、水面に浮いた。小さな波紋が円を描き、風のさざ波にすぐに消される。そしてさざ波も消えた水面には、ただ花びらと桜の影だけが落ちている。

 何も残らない。
 映すだけの鏡。

 腕の中の人と同じだ。全てを映し、何も留めないまま。だからこそ美しいままで。だからこそ、悲しいままで。この人の鏡に映るだけでなくて、その底に残りたくて。僕の影を焼き付けたくて、強く抱いた。痛みでもいいから僕を感じさせたくて、強く強く抱いた。

 金蝉の細い躯は、弓なりになったまま僕の腕の中にあった。

「…悲しいのか。……オマエも可哀想なのか」
 ゆっくりと腕が上がり、僕の髪を撫でる。抱きしめている間中、彼は僕の髪を撫でていた。
 それは少し、慈しみに似ていた。

 蓮華の池に月が映る。
 黒々とした水に月光に照らされた下界が映る。
「…ああ、こんな晩だったな」
 数百年前の記憶が蘇る。

 釈迦如来と観世音菩薩が並んで水面に映る下界を眺めていたのだった。夜の間中、眺める世界は眠りに落ちながらも生きていることをやめない。生も死もある世界は常に動き続けていた。
 ふと目に留まったのは小さな命。
 生まれ落ちた瞬間に終わった、赤子の生命。
「何も見ぬまま、何も聞かぬまま、何もせぬまま、終わってしまった」
「だからこそ、誰よりもキレイだろうよ」
「だからこそ、誰よりも哀れだろうよ」
 釈迦如来は終わってしまった命をすくい上げ、一滴の涙を落とした。
「誰よりも美しい子だ。何も映し込まずにいる魂だ。何もかも見せておやり。何もかも聞かせておやり。…何事かを遂げさせておやり」
 勝手なことを言う、と、ひとこと付け加えながら、観世音菩薩はひとつの命を受け取った。
「……ああ。そうだな。何もかも、見せてやろう。何もかも、見届けてやろう。未だなにも映し込まぬ瞳に。何も映し込まぬ瞳を」
 魂は赤子の形をとると声をあげて泣き出した。

 釈迦如来は命の声を聞き、微笑んだ。
「声をおあげ。世界にお前の声を聞かせておやり」
 観世音菩薩は眉を顰めながら、やはり微笑んだ。
「目を開けな。世界がお前の前に広がってるんだぜ。お前の瞳に焼き付けろ。お前の魂に焼き付けろ」

 記憶の底の赤子の顔から、ふと大人の顔に想いが移る。
 未だ赤子のままの魂が、徐々に動き始めたことを感じながら。
「いいんだぜ。ゆっくりで。全て見ていてやるんだからさ。何百年かけて、真実の想いを覚えればいいんだからさ。何百年かけて、喜びも悲しみもその魂に焼き付ければいいんだからさ」
 朱唇が、笑みの形をとる。

「すべて、見ていてやるよ。すべて、な……。」



























 終 







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◆ アトガキ ◆
しんしあさん1538カウントゲットすぺさるでリクエスト「天金」でございました
あ、今メモ見たらもう半月も経ってる…(汗)遅くなってごめんなさい
…『外伝』1巻読んで、雑誌での金蝉見て…どんどん印象が深くなって来てます
悲しいのと、愛しいのと
さて、↑は『外伝』以前ではあるものの、果たしてどのくらい前でしょうね
100年前とでも、300年前とでも取ってくださいね
3日前かもしれません
出来るだけ長い時間、彼らが同じ時間を過ごしてくれていたらいいと思います
…でもホントウに金蝉が「生きて」来出すのは悟空と出会ってからなのね…(ちょっと元帥不甲斐ないか)