罪ト、アガナイ ト、マタ 罪ト 






 沢山の、沢山の血を流した碧の目の男は、それでもきれいに感じられた。

 自分の身を、狂気に任せて大きな流れに投じてしまった男は、それはそれは美しい涙を流した。
 無くしてしまった半身を、自分の涙で作り上げようとでも思っていたのかも知れない。涙で作った鏡に映る自分の姿が、亡くした人に変わることを願っていたのかも知れない。 
 沢山の命を奪ったことによる後悔の涙ではなく、こんなに奪い尽くしても帰らぬ人を求めて流す涙。彼の思考は、目の前で喪ったモノの大きさに打ちのめされ、自らの身を変容させることをも望み、叶い、それでも流し続けた血の中で止まったままだ。

 『帰ってきて』
 『戻ってきて』

 もし時が戻り、同じことが再び起こったら、彼は迷わず同じ道を選ぶのだろう。三度、四度選ぶのだろう。
 沢山の、沢山の血を浴びて、沢山の、沢山の涙を流すのだろう。それはそれは美しい姿だろう。

 正気ではないのだから。
 自らの充足のみを求めているのだから。
 他のことなど何も考えていないのだから。
 他者をずたずたにしてでも欲しいものを取り返そうとするのだから。
 自分さえも壊そうとしているのだから。
 否、それを一番望んでいるのだから。

 人の想いの中でも、最も醜い想い、…『執着』。ヒトは、それがあるからカミにもホトケにもなれない。ヒトは、それがあるからカミにもホトケにも手出し出来ない強さを持つ。
 こんなにも醜い感情を周囲に放射し続ける彼の姿は…美しかった。壮絶に。 
 自分がなりたくても、なれなかった姿。明らかに自分の中のどこかに存在する姿。周りを壊し、自分を壊すことを望んでいる自分に、露骨に気付かされた恐怖に満ちた姿。

 オレは、彼の醜悪さに、焦がれた。

 そんな醜悪な彼の為だけに、読経した。




 
 碧の瞳の虜囚を、オレは連れ帰った。連行、した。手放したくなかった。彼はそのまま自分を壊してしまいそうだった。そんなことはさせない、と思った。

「なに?ヤツが食事を摂らない、だと?」
「はい」
 彼の監視役の僧が報告に来た。
「正確には、摂れない、様子です」
「食えない…か」
「えずきながらなんとか咀嚼しようとはするんですが、どうしても飲み込めないみたいです」
「チッ」
 崩壊が、進んでいるのか。

 「罰せられる」という望みで、彼は今生きている。喜んで死に赴こうとしている。亡くした人の傍に行ける。これほどの歓喜は、彼にはないだろう。囚われの日々など、その歓喜を何倍にも増幅するだけの砂時計の砂だ。
 端からは、落ち着いた、反省して諦め切った虜囚に見えるだろう。でもオレは知っている。彼は自分の喜悦に満ちた一瞬を待っている。
 何故だろう。何故ここまで彼の望みが判るのだろう。オレには、彼の悦びに登り詰めるその顔さえ目に浮かぶかのようだ。

「面会する。人払いさせろ」
「は、はい」
 オレの身分や地位が、きっと彼を救いに行こうとする僧の誠意に見えるのだろう。誰もが信じ切っている。例え破戒僧とはいえ、このまま地獄に堕ちるだけの罪人の苦痛を、見捨てることが出来ないのだ、と。

 大笑イシテヤロウカ、奴ノ目ノ前デ。
 ウットリト見蕩レテヤロウカ、奴ノ顔ヲミテ。

 何でもしたかった。彼が消えてしまわない為なら。いっそ跪いて懇願してもよかった。

 消えてしまわないで。
 いなくならないで。
 オレをこの世でひとりの存在にしないで。
 同じタマシイを持つ君よ。
 同じ醜さを持つ君よ。

 ああ、なんてこの気持ちは恋に似てるのだろう。自分の知らない恋という感情に。この欲求は。この欲望は。この喪失の予感は。この期待感は。





「猪、悟能」
「三蔵さん…」
 目の前で、にっこりと微笑む。心のない人形の様な笑顔。少し控え目に、目を伏せて、これから訪れる罰を待つ従順さの様に。死刑囚の達観した清浄さの様に。
「会いに来てくれて嬉しいです。あなたには大変世話になったし…」
「目はどうだ」
「ああ、こんなモノ…。別に放っておいてもいいくらいです」
 笑顔に少し嘲笑が入る。
「まあな。オマエを収監している側の体裁ってモンもあるのさ。オマエのとっくに捨てちまったモンがな。オマエには可笑しいだろうよ。反吐が出そうな程」
 悟能の笑顔が、影が揺らぐ程度に微妙に変わる。
「…ええ。可笑しいですよ。体裁も人間であることも全部捨ててしまった僕にはね。それが解るあなたもおかしな人ですね。僕を慰めてくれたのに」
「ああ、あの読経か。罪人を連行するのが仕事だったからな。任務遂行の前に死なれちゃメンドウなんでな」
 くすくすと笑い始める。ああ、そういう笑い方の方が悪魔の様で似合ってる。
「そうですか。酷いなあ。あの時は本当に感謝したのに。あの読経のお陰で、花喃に手向けらしいことが少しでも出来たって、嬉しかったのに。僕はあなたのこと、本当にイイヒトだと思ったんですよ」
「けッ。胸クソ悪ィこと、言うな。本心からでもねェくせに」
「いいえぇ。心からですよ。三蔵さん」
 役職名の「三蔵」にアクセントをつけた、からかうような言い方。
「でもねえ、やっぱりダメなんですよ。僕タチ」
 そのまま、悟能は夢を見るように話し始める。
「僕が血みどろになって駆けつけた時、花喃は妖怪の子を身ごもったから僕の元へは帰れない、と言った。自分の身は汚されてしまったからと。彼女は僕の独占欲を知っていたから」
 悟能はうっとりとした顔を見せる。
「彼女は僕のことを誰よりも一番知っていたから。僕の姿を確認するまでは生きていたのに。僕がやって来ることを待っていたのに。…彼女は知っていたんですよ、僕が人を殺してでもやって来ることを」
 悟能の目には彼女の姿が映っているのだろう。
「彼女は、それこそ死にもの狂いでやって来た僕を見て、満足して死んで行ったんです。僕を待ち、僕が彼女だけのモノだと確信してから。そして僕は、彼女が僕だけのモノなままで死んで行ったのを見ました。…花喃がもし生きていたら、その場で服をはぎ取って陵辱の跡を確かめてしまったかもしれなかったけど」
 うっとりと幻の女の姿を見つめながら、悟能はひと筋の涙を流した。
「それすらもさせないまま、花喃は死んでしまったから、彼女は未だ僕だけのモノだ」
 ゆっくりと、悟能はオレに視線を向けた。
「ねえ、三蔵さん。こんな風に執着してるから、彼女はまだ僕を支配してるんです。折角花喃と僕の為にありがたいお経を読んでくれたのに、僕タチ、駄目なんですよ…」
「フン、嬉しそうじゃねェか」
「ええ、僕が花喃のことだけを考えて、感じていたいと思うのに、あなたが邪魔するものだから、何か傷つけることを言いたくてしょうがないみたいです。本当に僕はしょうがないなあ」
 くすくす、くすくす、と、悪意に満ちた微笑みに溢れる。涙を流したまま。

「…飯を食わんそうだな」
「それで心配して来てくれたんですか?すみません。一応努力はしてるんですよ。そうでないと、皆さんお困りになるみたいだし。でも躯が早く死にたがってるみたいで、受け付けてくれなくなっちゃったんですよ」
「それはまっとうな心理だな」
 冷たく言い捨てるように言ってみる。
「死にたくて、死にたくてしょうがなくって、躯がハンストするってのは。ありふれた人間的な精神の病気だな」
「人間的って言ってくれるんですか」
 呆れた様な顔だ。しかも喜ばずに、不快そうな。
「ああ。幼稚な独占欲で縛りあって、幼稚な反応で心中するなんざ、あんまりにも人間的過ぎるくれェだぜ。クソ面白くもねェ。妖怪千人の血を浴びて変化した様なヤツにしてはよ」
「…僕を怒らせたいんですか?無理ですよ。もう」
「怒らせる?今更オマエみたいな奴、怒らせてどうするんだ。弱々しい精神の、只の人間を怒らせて、何が楽しいってんだ。オレがしたいのはな、オマエを本当の自分に返らせたいだけなんだよ」

 オレは、悟能の座るベッドに寄る。ハンストの影響は弱々しさには表れず、却って削ぎ落とした鋭さになっている。険を含んだその瞳。オレは袂から光るものを取り出した。鋭いナイフ。それを自分の掌に当て、滑らす。
 一瞬、悟能が目を見開いた。
「なあ、オレの血だ。オマエが流すのに狂乱した血だ。もう一度その味を思い出せ」
 悟能の目の前に、突き付ける。
 血が溢れ、流れる。むき出しの腕を伝う。…滴る。
 目の前の深紅の液体に、悟能の目が惹き付けられる。
「舐メロ」
 オレは悟能の顔の上に自分の腕を持っていった。滴る、オレの血。彼の口元に。彼が舐めた。

「味わえよ。オレの血だ。こんなにもオマエに執着しているオレの血だ。憶えろよ」
 悟能はオレの腕に舌をはわす。流れ落ちる血液を遡り舐め尽くす。掌に辿り着き、傷口をなぞる。
「なあ、オマエなんか幸せに死なせてやらないんだよ。自分の女の許に行くのに歓喜してるヤツ、楽に死なせてなんかやらないんだよ。この世に未練持たせて悔しがらせて死なすのが罰なんだよ」
 悟能がオレの掌に舌をはわせたまま、鋭い視線を寄越す。
「これは、罰、なんだよ」
 血にまみれた唇に、自分の唇を寄せた。舐め取る。弾力のある下唇に噛み付く。血がにじんだが、彼は身じろぎひとつしなかった。そのまま、オレも悟能に接吻けて、血の味を感じる。唇を割って舌先で触れると、一瞬彼はびくりとしたが、そのままオレの方に延びてきた。
 彼の腕が肩を強く掴んで、オレは引き倒された。

「もっとオレに執着しろよ」

「オマエに執着してるヤツがこの世にいるってのは、どういうカンジかよ」

 オレは悟能に至る所を噛み付かれながら、問うた。うっとりしながら問うた。
 彼はオレを貪りながら涙を流していた。相変わらず、美しくて醜悪な涙だった。

「あなたを憶えて死ぬのが罰なら、花喃の為以外の罰なら、彼女以外のモノになってしまうのが罰なら…こんなに辛い罰はありませんね…」





「…ッ痛ゥ…!」
 激痛に顔をしかめながら、壁伝いに歩く。ハイネックに隠された襟元も、ゆったりした法衣の下も、痣は全身に渡っているのだろう。躯の中心にも疼痛が走る。悟能の個室から出てきたオレの姿を確認して、監視役の僧が飛んできた。
「三蔵様、いかがなされましたか!?まさか奴が暴力を…?」
 肩に伸ばされた手を払いのけ、怒鳴りつける。
「なんでもない!それより、三仏神と至急で面談だ!話したいことがある!なんとか緊急で会わなくては…」
 急に視界が暗くなって、目の前の僧の位置が高くなった。自分が崩れ落ちているのが判ったが、そのまま意識は暗闇に落ちて行った。





 死なせはしない
 ヤツをこのまま死なせはしない
 どうしてもオレの目の前でこの命を喪う訳にはいかない
 オレの世の中で欲しいもの、これ以上喪いたくない

 暗闇の中、自分の躯が横たわっているのが判る。どこにも、何もない空間。あるのは自分の焦燥感のみ。どこかから声が聞こえる様な気がする。

 「いいんだぜぇ?お前の好きなようにして
 お前にはその権利があるだろうよ
 何百年も変わらぬお前のことだから
 またポンコツパーツどもが集まるんだろうから

 お前の本当に欲しいモノくらい、ひとつくらいはやるよ
 アイしてるぜェ?なあ…」
 ……なあ、金蝉?………





 誰かに衣服を緩められそうになって、弾けるように起きあがった。目眩が襲いかかる。自室の寝台の上の様だった。
「三蔵様!急に動かれては…」
「三蔵!顔色、すごい。俺、水持って来るからそれまで動くなよ!」
 悟空が翻る姿が見えた。
「…いや。こんな所でトロトロしてる暇はねェんだ!三仏神に会わないと…」
「はっ!その三仏神様からご下命がありました!」
「なにィ」
「妖怪千人殺しの大罪人、猪悟能の処分については玄奘三蔵法師に一任すると…、いかなる理由も三蔵様の決定の妨げになること、罷りならん、とのことです」
「なんだあ?そりゃあ?」
 水を満たしたコップを持った悟空が呆れ顔で傍らに立つ。
「苦労して探し出したのに、後はどうでもいいのかよ。カミサマもいい加減だなあ」
「…そんな、不敬なことを!三蔵様の責任において処分なされよ、とのことです」
「同じだよなあ?三蔵。な、三蔵はあいつのこと、殺さないんだろ?」
 疑いもしない悟空の目。コップをひっつかむと一気に水を飲み干す。
「うるさい。オレは疲れた。寝る」
「なあああんだよ!人が心配してんのにさあ!三蔵!三蔵ったら!」
「うるせェ!寝るったら寝るんだ!てめェは人じゃなくってサル山のサルだ!」
 それだけ怒鳴ると悟空の文句も耳に入らず、オレは泥の様な眠りに落ちて行った。





「なあ、三蔵。八戒、元気かなあ?」
「あぁ?」
 オレは報告書から目を上げる。悟空が窓の外、高い空を見たままで話しかけて来る。
「八戒も悟浄も、最近会ってないじゃない?今頃何してんだろ」
「相変わらず女の尻追っかけたり、のほほんと笑ってやがんだろ」
 また書類に視線を戻す。最近の世の乱れは顕著だった。地方毎に貧富の差が大きくなり、凶悪化した妖怪が交易の妨げとなり、物資の滞りも著しくなってきている。何事かが起こっているようだった。
 あれから三年近い時が過ぎた。今では普段彼のことを思い出すこともない。ただ、時折胸苦しいくらいに彼の顔が浮かび上がる。涙を流した、醜くて、世界で一番美しい顔が。
「元気かなあ、って思ったんだ。何やってんだろってさ。思ったんだ」
 オレに話しかける、という訳ではない口調にまた悟空を見る。悟空はただ目の前にある真実をそのままコトバにしただけ、という様子だった。心に浮かび上がったことをそのままオレに伝えただけ、だった様子だった。





 三仏神から旅に出ろとの命が下ったのは、その日のことだった。

















 終 








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