皓々と照らす月に桜がほの白く光る。
山中奥深くにうち捨てられた、集落。貴人の別荘地ででもあったのだろうか、その中心には広がる塀に囲まれた館跡があった。
妖怪か夜盗か、何れかに襲われ破戒され尽くした地ではあるが、そこにも季節は巡り来る。
「桜の古木に棲む、孤独な鬼がいるんですって。どこにも行けずにただ淋しく暮らす鬼の為に、桜がきれいに咲くんですって」
崩れた塀の内側にジープを泊め、一夜の休息を取る。無人のままで放置された館は、むき出しになった礎石と、火に掛けられたことを物語る炭化した柱が林立していた。
門があったと思われる跡から、館に向かって石畳が続く。その周辺には上品に配されていた植栽と睡蓮の浮かぶ池。その池に掛けられた橋を渡りながら、八戒は静かな声で続けた。
「満開の桜の枝に座って桜を眺める鬼は、その美しさの為だけに生きて行けるんですって」
塀に沿ってぐるりと桜が植えられていた。月夜の桜が、はらはらと舞い散る。手入れする者のいない庭園に、桜の絨毯は敷き詰められる。それを踏みしだきながら三蔵は応えた。
「…それをオシアワセに感じるんだろ、てめェは?」
「ははは…。物語の悲しい鬼ですよ。儚い喜びをよすがに生きる憐れな生き物のお話ですもん。可哀想だけど、幸せだろうと思っちゃいますよ」
自分の為だけに生きると明言する三蔵には、いけ好かない物語だろう。そう思いながらも八戒は続ける。
「百年、千年の孤独を癒す桜の花って、きっと綺麗ですよ」
「それでもう何百年かしたら、枯れるんだろう?それで仕舞いか」
「…本当に意地悪な人ですねえ…」
橋を渡る三蔵に手を差し出す。重なる落ち葉に足下を取られそうになっていた三蔵は、逡巡の後、尊大な表情でその手を取った。八戒は満足げにその手を引く。
「2、3日早くここに来られていたら、満開だったでしょうね」
「大した差はないさ。どうせ一重の桜は、ぱっと咲いてぱっと散ってあっという間に終わる」
「そういう潔いのが好きだと思ってましたけど」
「桜の風情ってのはな…。まあ、どうでもいい」
灯籠や四阿の残骸が残る庭園を、八戒は三蔵の手を取りながら進んだ。至る所に桜が散っている。黒々とした池の水にもそれは散りばめられ、僅かな隙間に月が映えた。
「ここの木も相当古そうだからな。枯れかかってる。ここ数年が最後の桜だろう」
「樹齢がそんなに長くない品種なんでしょうね。それでも百年近くもここに立っていたんでしょうね」
「人間の仕業を越えたところで咲き続けるってのは、いいけどな」
月明かりに星が霞む。ただ桜だけがその光を透かし、映す。そよ、と風が起こり、桜の枝と三蔵の法衣が揺らめく。
八戒が急に立ち止まったので三蔵が訝しげに振り向いた。
「あなたの髪も、法衣も月に照らされて桜の様に綺麗ですよ」
ゆっくりと手を伸ばし、髪に差し入れる。さらさらと指を掠め落ちる金糸が、月光の蒼を帯びる。
「ああ、どんな桜よりも綺麗だ」
もう一度髪をすくい取ると、八戒は唇を押し当てた。
「…オマエの髪は、夜の闇に溶け込そうだな。見えなくなってしまいそうだな」
「あなたの傍に。見えますか、あなたの傍に」
「もっと控えててもいいくらいに、無遠慮に傍にいやがるな。…ああ、見えてる」
それだけ言うと、三蔵は八戒から躯を引き離すように歩き出した。
中庭の中心には桜の巨木が立っていた。満開の八重桜が重たげに枝をしならせている。紅の色を濃く帯びた花びらが、ぎっしりと手鞠のような房を形作る。
樹齢が何百年か、或いは千年近くを経ているのであろう。黒い幹にはごつごつと瘤が盛り上がり、根本近くからも若枝が多く伸び上がっている。
その上の桜の天蓋。夜闇を覆い尽くす、桜の天蓋。若枝の柔らかい芽の色と対照的な、古木の桜の紅の色だった。
暫く茫然とその立ち姿を眺め、やがて三蔵が歩みだした。
「延々散り続けるだろう。時間が判らなくなるくらいに、延々と。無くならないんじゃないかと思えるくらいに、この花びらが降り続けるんだ。…それが桜だよ」
近付くと枝垂れた桜に手を伸ばす。三蔵が触れると僅かに房が揺らされ、花びらが降る。白い指が通った跡を、桜の帳が追いかける。
「いつ迄も舞い続けそうですね。この桜がいつ迄も咲き続けるような気がしてしまいますね。この時間が永遠に続きそうな…そんな気がして来ますよ」
八戒は、舞い散る桜を受ける。髪に、手に、体中にまとわりつく桜を、見上げながら受け続ける。
闇は藍色。月は銀。
それに映える桜は紅を帯び、周辺は月光を透かし浮かび上がる。
漂う香の中を、動く人影。
ぼんやりと輝く白い姿。
戯れに触れて行く指に、袂が残像になり、舞い散る桜がそれを隠して行く。
「あなたが鬼なのか、それとも桜の精なのか」
そのどちらででもあるような気が、八戒にはした。そのどちらででも、似つかわしい。淋しく美しい存在だから。
幹に背を凭れかけ、三蔵は桜の重なりを見上げた。薄暗い紫に陰る紅の色の濃密。藍色と銀。
光の隙間に、何か揺れながら動くような気がした。
桜鬼と、その躯に回されたたよやかな白い腕。花の香に閉じこもり、永遠の一瞬に成就する快楽。また巡り来る筈の永遠の一瞬。永遠に降りしきる桜の帳。
「…鬼…」
ふたりを閉じ込める桜の帳。桜の香。囲む花びら。銀の光の檻。
「オマエは鬼なのか、桜なのか…?」
三蔵は八戒の闇色の髪に指を差し入れると、自分から引き離した。
「…さあ…?では、あなたは?」
「オレ…?」
「ええ。…でも、どちらでもいいんです。もう、あなたなしではいられない自分が判り切ってますから。鬼も桜も、どちらにしても互いなしではいられないんですから」
八戒の指が三蔵の顎にかけられる。見つめ返す瞳が、互いの瞳を映し込むとまた閉じられる。引き寄せられるのか、引き寄せるのか。ただ桜の香に酔う。
「鬼か、桜か…?タマシイを喰われたのは」
見上げる桜闇に、三蔵は鬼と桜の残した吐息を感じた。
立ちこめる桜の香に、八戒は鬼と桜の笑みを聞いた。
永遠の一瞬の為に。
「…寝損ねたな」
「…そのようですね」
夜明けの空に、雲の色がめくるめく変化を見せる。三蔵の金糸の髪も、朝の光の中輝きを見せる。八戒がそれに触れると、つい、と頭を逸らされた。
「風が出て来たな」
「桜の香と共に、あなたの気も飛んで行っちゃいましたか」
「朝っぱらからサカる気は起こらんというだけだ」
見上げても、もう桜闇も見えず、桜鬼の声も聞こえない。
「オマエは運転があるからな。メシまで仮眠しろ。起こすまで起きるな」
「…メシ、あなたが作ってくれるんですか…?」
「缶詰を悟浄に開けさせるだけだ」
「ああ、やっぱりね…」
きっぱりと言い切ると、三蔵は木から飛び降り歩き出す。八戒もそれに続く。
明るみの中、桜はただ散り続ける。
桜帳の中にはもう誰も入れない。
誰にも聞こえない悦びの声が、遠くから微かに響いた。