雨 

 廃墟の街に、静かに雨が降りしきる
 人々の匂いまでを、雨が濡らす
 蘇る記憶を、濡らして行く

「生きているものの存在しない場所…か。瓦礫だけ残りやがる。いっそすっきり更地にでもなっちまえばいい」
 黒く濡れた地面に転がる壊れた玩具が、いやでも往時の姿を想像させる。
 小さな子供の茶碗や、水鉄砲。ひしゃげた一輪車に、叩き割られ、へし折られた遊具。小さな街の小さな公園には、嘗ての時間の幻影のみが往き来する。

 大きな影が、小さな影の手を引く。
 小さな影は、嬉しそうな仕草で大きな影を見上げる。

 三蔵は目を瞑った。雨に奪われた体温を取り戻すかのように、不随意筋が震える。鳥肌が立ち、全身が総毛立つ。ぐっしょりと芯まで濡れた髪までが立ち上がり、頭皮がちりちりした。
「…ナクナレ…キエロ…」
 呪いを強く叩き付けるように口にした筈だったが、喉の奥からは呻き声しか出て来なかった。
 口元に片手をやり、もう片方の腕で自分の躯を抱く。
 呼吸を整え、冷えた躯に刺激を与える為に。
 漏れる呻きを抑え、くずおれそうになる躯を支える為に。

 胃の腑が躯の中心で、重たく冷え切っては自己主張する。その感覚に捕らわれっぱなしになっていた三蔵の後ろから、名前を呼ぶ声がした。
「三蔵!」
 自分と同じようにぐっしょりと濡れた八戒が、泥水を跳ね飛ばしながら駆け寄って来た。その水音を聞いて、三蔵は自分の感覚が現実に戻って来たことを感じる。自分以外の者の立てる物音に、自分の躯が内部から冷えているという感覚が、遠離った。
「三蔵!!」
 また呼ばれた自分の名前が聴覚を刺激し、喉を締め付けるような筋肉の強ばりがゆるりと溶けた。深く息を吸い込む。呼吸も、発声も、元通りになったのだろう…。
「予告ナシで単独行動するのはやめてください!万が一のことがあったらどうするんです!?」
「生憎だったな。オレはオレの好きなように行動する。それが厭ならサッサと帰るんだな。オレも、延々鬱陶しい奴らに囲まれて、耐え続けられるほど忍耐強くない」
「三蔵!?…どうしたんです、一体。……一体いつからここにいるんです?冷え切ってるじゃないですか」
 八戒に触れられた手を振り払った。
「馴れ馴れしく触るな」
 言い終えぬうちに、八戒が今度は三蔵の両腕を強く掴む。痛みさえ感じるその力に、三蔵は瞋恚のこもる眼を向けた。
「…やっと…」
 睨み付けられた八戒は、僅かに口元の筋肉の緊張を解く。
「やっとこっちを見てくれましたね。自分が冷え切ってるってコト、自覚あります?」
 自分の強ばる腕を掴む強い力と、向けられる瞳には、暖かさしか感じられない。
「…何故、睨まれても、跳ね返されても…?何故オレに微笑むんだ?」
「…さあ、どうなんでしょうね。あなたがそれを待ってるからかもしれませんよ。…ああ、怒らないでくださいよ。とにかく雨やどり、しませんか?」
 三蔵の腕を掴まえたまま、静かに八戒は囁いた。
 優しい音色が、記憶の赤い色をゆっくりと溶かして行く。幻の様に浮かび上がった、この街の過ぎ去った時間の影達も、薄れて消えて行く。

「雨のあたらない場所があるなら、オレを連れてけ」

 時折蘇っては微笑む、喪った人の面影は、優しさと苦しさの両方で三蔵の心を染める。過ぎた時間に少しずつ褪せて行きながら、より鮮やかに慈しみと悲しみを浮き上がらせる。

「雨の降らない所へ、オレを連れて行け」

 屋根のある廃屋に駆け込んだ八戒は、ようやく三蔵の腕を放した。
「あーあ。本当にずぶ濡れですよ。それ、躯冷やすだけだから脱いじゃってくださいね」
 そう三蔵に言い放つと、転がるダスト缶を見つけて廃材を集め出した。周囲の壁や椅子の脚を引き剥がしては、ダストバケツに無造作に突っ込んで行く。
 それに火を着けてから、振り向いてまた三蔵に声を掛ける。
「自分で脱がないと、脱がしちゃいますよ?」
「…呆れたヤツ。不法侵入の挙げ句、勝手に何でも燃やしやがって…。モラルねェのな」
「僕の中の優先順位が決まってますから。…雨に濡れて、冷え切ったままのヒトを放置する方が、僕にとっては罪深い行為ですね。あなただって、雨の中で泣いてる迷子を見たら、暖かくしてあげるでしょう?」
「誰が泣いてる迷子だ」
「あなた」
「殺すぞ」
「殺されてもいいから、暖かくしましょう。僕の手に引かれてではあったけれど、自分の足で、雨の降らない所へ来たんですから。ちゃんと雨に濡れない所まで、来てくれたんですから」
 無表情なまま火の側にただ立つ三蔵に、八戒はゆっくりと手を差し伸ばした。
「幾らでも雨のあたらない場所を探しますから。迷子になったら探しに行きますから」
 ゆっくりと三蔵の頬に指を沿わした。
「…オレをどうこう言う割りには、てめェも冷てェんだよ。馬鹿じゃないのか?他人探してここまで冷え切るってのは」
 自分の手を重ねながら、三蔵は八戒を見る。
「我ながら馬鹿ですねえ。雨の中でふらつく馬鹿と、雨の中に飛び出す馬鹿。馬鹿の度合いでいうと、どちらが上なんでしょうねえ?」
「悪かったな」
 不機嫌そうな顔で、それでも手を重ねたままの三蔵に、八戒は笑う。
「何度雨に濡れても、冷え切っても、僕は何度でも…」
 三蔵を引き寄せ、強く抱きしめる。
「ここ数年はあまり見なくなってはいたが…オレを助けて死んだ人の夢を見ることがある。オレは何度でも繰り返し夢に見る。優しさと共に、その人を喪った時のことを夢に見る。その度にオレはその人を助けられない自分を見る」
 八戒に肩を抱き寄せられたまま、三蔵は火の前に座っていた。ぱちぱちと木の爆ぜる音が続き、廃屋の中で影が揺れる。
「何度も何度も夢を見る中で、攻撃が来るタイミングも、あの人がオレをどう庇おうとするのかも、すっかり覚え込んでいるのに動けない。その人はオレを庇って死ぬ。幾度夢の中のシミュレートを繰り返しても、オレの躯を庇う人を押しのけて、自分が前に出ることが出来ない」
 三蔵の瞳に炎の影が踊り、暗い紫暗が時折不思議な色を帯びる。
「夢の中だけでも、その人を守り切りたいのかもしれない。自分の過去を変えたい願望があるから、同じ夢を繰り返すのかもしれない。…挙げ句にいつまで経ってもあの人を救えず、変えようのない過去だけがまざまざと蘇るだけってのが、お笑い草なんだがな」
 自分を嗤いながらも、亡くした人を思い出す三蔵の目は優しかった。
「…それは弱さではないでしょう?別にその人との思い出を、自分が否定したがっている訳でもないでしょう?夢でその人を助けることが出来たとして…それですっきりと忘れ去ってしまう訳でもないでしょう?」
「ああ、忘れないだろう。忘れることなど出来ないし、…忘れたくない。どんなに、あの人を守れなかった自分を責めることがあっても、あの人と出会ったことがオレの人生の始まりだから。あの人と過ごした時間が、どれだけ自分の中で大きいものか…」
 火明かりの中の三蔵は、夢を見ているように話し続ける。
「子供の頃には理解しきっていなかったあの人の言葉が、突然明瞭な意味を持って心の中に浮かび上がることもある。オレの為に、どれだけ優しさと厳しさを語っていてくれたかが、時間が経つほどに判ってくる」
 三蔵はゆっくりと頸を回すと、八戒の腕に頭をもたれさせた。
 濡れて素肌に張り付いた黒のインナーから、青白い首筋が鮮やかに浮かび上がる。それはまるで子供の頸のように、頼りなげなラインだった。八戒の目には、うなだれる子供の首筋のように儚く映った。

「突然、その言葉がもうかけられることはないのだと、喪失感に圧倒されることがある」
 目蓋が閉じられ、金色の睫毛が濃い翳りを落とす。
「…迷子だったんだよ。本当に」
 八戒の腕に頭を預けたままで、ゆっくりと目蓋が開かれた。紫暗の瞳が現れ、八戒を見つめる。
「先刻のオレは、雨の中の迷子だったんだよ。自分の喪ったものの大きさに打ちのめされたままの、迷子だったんだよ。…そしてオマエが見つけてくれた…」
 見瞠かれた瞳は、生真面目なまでに八戒を見つめる。
「手を引いて、雨の当たらないところに連れて来て、暖かくしろと言う。オレが自分の足で歩いて、雨の降らぬ所まで来たと言う」
「そう…。あなたの求めることをしたくて。雨に濡れて壊れてしまいそうなあなたが、本当は自分で自分を救える強い人だということは判っていたのに」
 八戒は三蔵の頬に触れ、そのまま指を髪まで滑らした。三蔵の儚くて強い瞳を見たくて、重たく濡れる金糸を掻き分けた。
「あなたに求められたくて」
 火明かりが踊る度に睫毛の影も揺れ、紫玉の色が変化する。
「……オマエが……?」

『鳥が北へ 還って行きますよ』
『たとえ思うがままに 空を飛べたとて
 辿り着く地も…羽を休める枝もなければ
 翼を持ったことさえ 悔やむかもしれない』

『本当の自由は
 還るべき場所の あることかもしれませんね…』

「……オマエが、オレの……?」

 雨は、大地を黒く濡らし続ける
 うち捨てられた玩具を、人々の生活の痕跡を、
 二人の宿る廃墟を、雨は叩き続ける

「オマエがそうなら……オレは……」

 塞がれた唇の、隙間からため息が漏れる。
 床に広がる金糸が、翳りを帯びては八戒の唇を誘う。湿りを帯びた空気が入り込まないように、二人は躯を重ね合わせる。
 二人を照らす火が時折音を立てて大きく燃えさかり、火の粉がゆらりと舞い上がる。
「何度雨に濡れても、僕は何度でも…」
 八戒が誓うように繰り返す言葉が、三蔵の肌に染み込む。芯まで冷え切っていた躯が、二人の熱に浮かされて暖まる。

 薄い壁を隔てた世界ではまだ雨が降り続いていたが、二人の呼吸の音と火の爆ぜる音しか、三蔵の耳には届かない。
 叩き付ける雨音は、もう三蔵を傷付けない。















 終 







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◆ アトガキ ◆
カウンター8000を踏んでくださったshellyさんからのリクエストで、お題は
尾崎豊氏の歌(アルバム「誕生」)でした
「LONLY ROSE」と「音のない部屋」辺りの詞のイメージからもやもやっと浮かんできたお話です
次点のリク「恋に無自覚な三蔵様に、心地良く振り回されつつ、最後はしっかり三蔵様をペースにはめてゆく八戒さん」まで含めようと欲張ったのですが…あれで心地よかったら八戒マゾですな(笑)
shellyさん含め、尾崎のファンの方々のイメージを破戒していたら、ごめんなさい
相当お待たせしてしまったshellyさんには、ちょっと八戒にすくわれた姫三蔵と、ヌケヌケ美味しいところは外さない八戒さん、付録で光明さんのセリフを捧げます。
遅くなってごめんね、いつもありがとう