◇◆◇ 雪光白華 


「なんでオレが掃除なんかしなくちゃならないんだ…」
「…無理に頼んでませんよ。たまたま散らかり度マックスの時に現れた貴方がいけない。しかも部屋の主の僕が平気だというのに『この惨状は何だ』なんて怒り出すから、ちょっと片付けてるだけじゃないですか」
「オマエの『片付け』は片付けとは言わねェんだよ!?本の山を移動させる度に別のどこかの山崩しやがって」
「それで『イライラする!』なんて言って自分から手を出したくせに」
「オレの前で惨状を拡大するからだ!オレの目の前で本を取り落とすな!散らかすな!!」
「…勝手に手伝っておいて、勝手にひとりで怒鳴り散らして…。ホント質が悪いったら」
「オレか!?オレなのか!?」

 偶々天蓬の執務室に立ち寄った金蝉は、その惨状に呆れ果て、挙げ句に自主的に片付けを始めてしまったのだ。至る所に、本の山、本の柱、本の壁…。足の踏み場も無い様な状態を放っておけずに手を出したものの、開始10分後には後悔を感じ始めていた。
 どれだけ本を移動しても、その下からまた本が現れる。しゃがみ込んで作業をしていると、恐らく自分よりも大きな質量の本の山が、ぐらりと傾いて来る。革装の巨大な本だの、竹簡を束ねたものだの、巻物だの、とにかく「当たったら確実に痛い」ものが棚の上や隙間に雑多に積み上げられ、突っ込まれている。

「重たい物を高い場所に置くのだけはヤメロ。下手すりゃ死ぬ。てめェだけならともかく、オレはこんな物にアタマぶつけて死ぬくらいなら、豆腐の角にぶつかった方がマシだ」
「…じゃあ、これからは気を付けますよ」
 天蓬はにっこり笑って「貴方がもっとここに来てくれるんならね」と、付け加える。金蝉はその笑顔にまた口をへの時にまげる。
「来るのやめる」
 口から出かかった言葉を押しとどめる。
 いつでも笑顔の天蓬だが、その表情と内心が常に一致しているとは限らない。しかし今、自分に向けられた笑顔は本心から優しそうだった。そして自分は嬉しいときにでも常に笑顔を表せる訳ではない。却って怒り出したい気分になったり、鼻でせせら笑うような事までしてしまう。
 素直ではない。
 分かっているのに、自分の本心を表せられない。「まるでガキだな」金蝉も、そう自分でも思うのだが。

 天蓬の執務室には、久しぶりにやって来た。普段用事がなければ中々自分から人を訪ねることもない金蝉だ。今日は本当にたまたま、近くで用事をしていて天蓬に見つけられたのだ。挨拶程度の立ち話の筈が、歩きながら話しているうちに天蓬の執務室の前まで来てしまった。部屋に呼ばれた訳でもなかったが、天蓬が部屋の扉を開けた瞬間に飛び込んできた光景が…先ほどの惨状だったのだ。
「何事だ」
 そう怒鳴りながら室内に入って…。
 怒りながらも、天蓬ともっと一緒にいられることを喜んでいる自分に気が付いていた。天蓬の傍にいる理由を見つけて、喜んでいた。
「来るのやめる」
 もし言葉に出してそう言ったら、自分がその言葉にこだわってしまうかもしれない。天蓬も流石に誘いを掛けてくるのをやめてしまうかもしれない。…長い間、相当辛抱強く自分に付き合ってくれている彼だが、そろそろ自分のワガママにも飽きている頃だろう…。
  「今日だって、部屋に誘ってくれるのかと思ったのに」
 …自分が期待していることを裏切られた、まるきりの子供のような感傷に、金蝉も自分のことながら呆れ果てる。
 
「…そろそろ真剣に飽きられる頃だろうな」
「え?何か言いましたか?」
「本の下敷きになって死ぬってなァ、天界軍元帥の死に様としては珍しいんだろうなァと思ってな!」
「ははははは。至上初かもしれませんねえ。まあ、レコード作るのは嫌いじゃありません」
「そんな恥ずかしいレコードなんか作ったら、お前の部下達が嫌がるんだよ」
「きっと僕の後任も嫌がるでしょうねえ…」
 天蓬が真剣な表情で「嫌がる人リスト」を数え出す。
「…分かったから。オレも嫌がるから、それでリスト打ち止めにしろ」
 脱力して言うと、また天蓬がにっこりと笑う。
「ねえ、僕が死ぬのが嫌なんですか?レコードの内容が嫌なんですか?」
「…もういい。そこの本の黴で、喘息でも起こしてろ」

「あ、こんな所にあったあ!」
 デスクの下に潜り込んでいた天蓬が、急に立ち上がった。手にはきらきらと輝くもの。
「ほら、水晶のカプセルに閉じ込めてあるんですよ」
「…なんだ?この…六角形のもの…?」
 掌に乗るくらいの柱状の水晶のカプセルの内部に、何かが入っている。それは室内の灯りを微妙に反射して、虹色に煌めいていた。
「雪ですよ。雪の結晶。地上に、この小さなかけらが沢山舞い落ちるんです。そうすると真っ白になって積もるんですよ」
「雪か…。ばばあンところで水鏡に映る物は見たことがあるが…。これがそうなのか」
「実物は見たことはありませんか」
「…滅多に下界になんか行くことがねェからな。…オマエはあるのか?」
「僕は取り敢えず気になった物は調べますから。実地検分しましたよ。冷たくて重たくて、とてつもなく美しかった」
「冷たいのか」
「ええ。そして儚い」
 金蝉は水晶の柱を手に取り、窓の傍で光にかざした。きらきらと輝く結晶は、天界の柔らかな陽の光に、燃えるような彩りを見せる。
「…これ、生きているみたいな光り方だ…」
「これは特別なんです。北方の氷の精の涙だと言われてますから」
「…そうか…」
 金蝉はその輝きに魅せられた様に見入る。水晶の輝きが、自分の白皙の頬に彩りを添えていることに気付きもせずに。
「きれいじゃないか」
「ええ、とてもきれいですね」
 天蓬が、自分のことだけを見つめながら言ってるということにも、気付きもせずに。

「金蝉、雪を見たいですか?」
 自分のすぐ後ろから声を掛けられ、水晶から目を戻す。
「今なら下界に行けば見られますよ」
「…見てみたいとは思うが…。特に下界に用事もないしな」
「見てみたいというのが用事でしょう。それが一番の理由じゃないですか。貴方、本当に観世音菩薩の甥っ子なんですよね?」
 観世音菩薩は、常に人の世を見つめ、願う者に救いの手を差し伸べる。衆生を救う為に、下界に現れることも多いと知られている。
「あのばばあは、何でも無責任に面白がって見てるだけだ!アレと一緒にするなよ!」
「はいはい。…でも行きましょう?」
 天蓬が金蝉の手を取る。暖かい掌が、水晶のカプセルごと金蝉の薄い掌を包み込む。そして、また優しげな笑顔。絶対に金蝉が逆らえない、いつもの笑顔。

「僕は、貴方と雪景色を見てみたい」

 繋いだ手をぐいと引き寄せられ、金蝉は躯ごと天蓬の胸にぶつかる。金蝉は体温を頬に感じて一瞬呼吸を止め…ゆっくりと吸い込んだ。瞳を閉じて天蓬の暖かな匂いを嗅いだ。

 一瞬の無重力感。地上に顕現する神は、その瞬間光りに包まれる。それは軽い目眩に似たようなものをもたらす。しかし今回の目眩は質が違った様だ。
「眩しい…」
「地上は太陽も激しいですからね。雪が反射して…ほらあんなにきらきらしている」
 一面の雪景色だった。
 金蝉は天蓬の肩に頬を預けたまま、煌めきの中に立っていた。
 広い雪の原野に、林が雪化粧している。青みすら感じるましろな輝きと、濃い緑。空が、目に痛いほど青い。濃密な大気には、植物の香りが混じり込んでいる。

「ああ、下界は…。地上は美しいな。息づいているのが判る」
「この雪の下に、全て眠っていますよ。今は死の様に眠っていますよ。そして春には、生き生きと動き出すんです。一斉に眠りから覚めるんです」
「今は眠っているのか。静かに静かに眠っているのか」

 金蝉は、光りの真っ只に歩みだした。華奢な足が、雪の上に微かな窪みを作る。陶然としたままで周囲を見渡すと…天と地の境目が、きっぱりと分かれていることに気付く。
 天界の、霞の漂う世界とは別の、もっと激しい世界。
 生あるもの達の、濃密さ。死あるもの達の、静けさ。輝きの鮮烈さと、それにも勝る優美。

「ここはなんて美しい。なんて恐ろしい世界なんだ」

 金蝉はもう、口には出さずに、唯見つめていた。

   この美しさは、なんてオレを惹き付けるんだろう
   この世界は……きっと何時かオレに近いものとなるだろう
   オレはこの世界に何時か呼ばれるのだろう

 微かだが、はっきりとした予感が、あった。

「…金蝉。金蝉!」
「あ、呼んだのか?」
「呼んだのかじゃありませんよ。ほら、こんなに冷え切って…指先が氷の様になってますよ」
「ああ。空気が冷たいな」
 金蝉は、未だ茫然と雪の地平線に心を奪われたままだ。銀世界の中の、純白の薄物を纏った華奢な躯。陽光を照り返す金糸の髪。
   まるで雪の精みたいですよ…
 神々の眷属である彼らには、下界の暑さ寒さは本来影響しない。指先も髪の一本までも意識を保っていれば、下界の全てから障壁で守ることが出来るからだ。それなのに金蝉は、自分の身を下界から切り離そうという意識を捨ててしまったのだろうか。茫然としたままで、冷えた所為か頬と唇だけが普段より鮮やかさを増している。
 天蓬は、金蝉の躯が空に溶けていってしまいそうに思え、白衣の中にくるみ込む。そのまま体温を移したくて、強く、強くかき抱く。
「…きっと、この世界も、貴方のことを離したくなくなってしまってるんでしょうね」

「…この先に、城跡があるんですよ。そこで休みましょう」
 天蓬に誘われて金蝉はまた躯を密着させる。
 軽い目眩と同時に、崩れ掛けた高楼にいる自分に気付く。白亜の土台も、朽ちかけの高楼も、雪に覆われている。人間に作られ、うち捨てられた侘びしさは、全て雪の下に眠っているようだった。
 高楼の天守は半分屋根が落ち、空が望めた。古い卓と椅子が残されている。この城が、まだ人間の生活する場所だった時には、高貴な人物がここに座っていたのだろう。紫檀に典雅な彫刻が為されて、螺鈿の細工がまだ輝きを留めている。天蓬が卓の上に酒壷と翡翠の杯を出現させる。
「雪を愛でながら、一献受けて下さい」
「貰おう」
 ぽってりとしたシルエットの杯に、琥珀の酒を注ぐ。金蝉はそれを朱唇に寄せる。
「旨いな」
 金蝉も、天蓬の杯に酒を満たす。とろりとした酒が、溢れんばかりに満たされ、天空の輝きを映し込む。
「旨いですね」
 唯静かに、唯雪景色を眺めながら。
 ふたりは口も利かずに、目も合わさずに、ゆっくりと杯を傾ける。
 唯同じ方向を眺めながら。

「…蘭陵の美酒 鬱金の香、 玉椀盛り来る 琥珀の光、か…」
「…共に飲む主が心より歓待してくれるならば、ここがどこであろうと、故郷でなかろうと、そんなことは構わないのだ、という…古い歌ですね。」
 突然、ぽつりと語る金蝉に、天蓬は返す。故郷を離れた男が、酒を飲みながら歌った歌だ。
「ああ。古い、古い歌だ」
 陽が傾き、蒼天に藍色が混じり込み、やがて群青に暮れて行く。冴え冴えとした真冬の星が現れる。近くにいる筈の互いの姿が、薄らと暗がりに見えるだけになるが、それでも杯を挟んだ向こう側には温もりが感じられる。
「…金蝉。先刻の水晶のカプセル、ありますか?」
「ああ」
 金蝉は着衣の隠しから、硬質な輝きの水晶を取り出す。夜の暗がりの中、水晶に閉じ込められた雪の結晶が、ちりちりと音を立てて光を放っている。卓の中央に出されたそれを、ふたりとも両手で支えていた。ぼんやりとした輝きに、額を寄せるようにして眺め入った。
「ねえ、綺麗でしょう?」
「…そうだな」
「この雪の結晶は、特別なものだと言ったでしょう?氷の精の涙だと。これは、綺麗なものが大好きなんだそうですよ。それで、自分が溶ける時には綺麗な涙になって流れるんだそうです」
「水晶に閉じ込められていたら、溶けないんだろう?」
「僕もそう思っていたんですけど…。ほら、先刻からのちりちりという音。水晶の内部で共鳴が起こっているみたいだ。あ…音が変わった」
 ちりちりちり、りりりりり
 りいいいいいいいいいいん………
 雪の結晶の輝きが強くなり、水晶の内部で振動を起こしているらしい。水晶は今ではハッキリとした音を立てている。
 りいいいいいいいイイイイイン!
 水晶の音が一際響いた、と思った瞬間、煌めきながら粉々に飛び散った。きらきらと輝く細かな欠片たち。それは床に落ちることなく空に消えて行く。そして、中心にあった結晶のみが宙にぼんやりと浮かび上がる。脈動するかの様に、眩しいくらいに光輝く…。

 金蝉は、思わず結晶に向かって手を差し伸べる。すると結晶は、その白い掌に吸い込まれるように近付き…留まる。

 真昼の太陽の下に、高楼の朱色が眩しい。
 大勢の人間のざわめき。自分の座っている卓を、美丈夫と、たおやかな美女、そして嬌声をあげはしゃぐ童が囲んでいる姿が見えた。先ほどの静かな銀世界が、緑に覆われて花の香が立ちこめ、野ウサギが走り回る姿が見えた。空に遊ぶ小鳥の声。どこかで流れる水音。
 …この地が生命に満ちあふれていた時間の幻影。
 ゆっくりとそれが雪に隠されて行く、時間の流れの幻影。
 そして、目の前の男の、変わらぬ笑顔で自分を待ち続けている姿。
 常に自分に向ける瞳は、永い時間にも変わらない。それは脳裏に浮かぶ幻影から、現在の姿に移っても変わらない。

「金蝉?」

 その変わらぬ声音の問いかけを、自分は本当に聞いて来ていたのであろうか。そして本当にそれに応えて来ていたのであろうか…?
 雪の結晶が、掌でゆっくりと姿を消し…金蝉の頬に涙となって現れた。それは綺麗な綺麗な涙だった。自分の中のかたくなな部分が、ひとつ姿を消したことに金蝉は気付いた。

 金蝉は、天蓬と瞳を合わせる。酒に薄紅に染まった頬に、紫水晶の瞳が真摯さを添える。
「オレは…ここがどこだろうが、いや、こんなに美しく厳しい場所だからこそ、オマエと…杯を交わせることが嬉しい」
 頬の紅が僅かに増した。
「…共に過ごせることが、嬉しいんだ」
「金蝉」
 耳に親しんだその声が、染み通るように感じられる。
「貴方と過ごす『時』が…僕にとってどれだけの価値のあるものか判って貰えたら。どれだけ大事なものかを感じて貰えたら」
 天蓬は金蝉の顎に手を添え、上向かせる。美しい顔に流れる涙を吸い取る。流れ続ける綺麗な甘い涙の熱を、感じ取る。
「…貴方もそう思ってくれていたら……」

 紅に染まった唇から甘い吐息が漏れ、それはすぐにもうひとつの唇に吸い取られた。

 むき出しの床に横たわり、優しい接吻けを交わす。解かれた髪が、ふたりの躯に絡み付く。あえかなため息と、低い声だけが、高楼の空気を震わせる。

 天蓬の肩越しに天上が広がる。金蝉がきつく閉じていた目蓋を開けると、光る雪が舞い落ちて来るところだった。
「ああ、先刻の涙の雪が、呼んだのだ」
 脈絡もなくそう思い、自分の唇に触れた雪が熱い吐息に溶けるのを感じる。雪の冷たさよりも自分の熱が強く感じられ……金蝉はまた目蓋を閉じた。

 卓の上に残された杯にまたひとひらの雪が舞い込み、それはすぐに姿を消した。








「……どうしてまた掃除なんだ……」
「だってこの間と同じように怒り出したの、貴方じゃないですか」
「問題なのは、相も変わらぬこの惨状の方だろうが!?」
「本は増えるものなんです。何時でも手に取れる方が便利じゃないですか」
「せめて自分の寝床の確保くらいしてから、そういうことを言うんだな」
「…こっちの方が落ち着くのに」
「……そんなの、オマエだけだ。絶対ェ」
 例によって例のごとくの片付けが始まっていた。ただ、金蝉は、今度は自分から天蓬の部屋に足を運んだ。
「でもほら。高い所に重たい物を置くのだけはやめましたよ」
「ああ、そうだな」
「だから、また来て下さいねv」
「……」
 抜け抜けとした笑顔ではあるものの、やはり天蓬の目には優しさがこめられている。
 皮肉を言おうとして、考え直す。

「次は机の上を広々使えるようにしろ。…たまにはチェックしに来てやる」
 金蝉は、天蓬が心から嬉しそうに笑うのを見て、また自分も微笑んでいることに気付いた。













◆◇ 終 ◇◆







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◆ ATOGAKI ◆
…ああ、本片付けなくちゃ…じゃなくって(切実)
和泉歩しゃんの3000 HITリクエストで「天金あまあま、雪見酒希望」でした
リクエストを伺ったときには「まったり雪見障子に熱燗」なんて浮かんだんですが…
無理だって(笑)自分の飲みたいものばっか想像するんだから…自分
あまあまになってますか?3000HITありがとうのおめでとうです
蘭陵の美酒…は、王翰さんの涼州詞でしたあ!
(酒飲む詞ばっかり目に付くワタクシ)