akai tori nigeta -7-
 乾いた砂漠にも、水は存在する。
 乾燥しきった荒野に点在するオアシスは、旅人が立ち寄り、やがて街になることもある。
 水が涸れればオアシスも消え、街すら砂に埋もれてしまう。
 しかし水は、移動しつつ何時かまた、違うオアシスを作り出す。
 桃源郷の砂漠には、山脈からの豊かな水が流れているのだ。
  ―――― 遥か、地下深くに。

「地下水脈の流れに、流砂の引き起こされるポイントがある。これはこの地に住まう者にしか、判らぬ」
 ふたり乗りの騎馬が一頭、夜闇を疾走していた。
 悟浄達が、娘から流砂の話を聞き出しているのと同じ頃、騎乗の三蔵も、老人から同様の話を聞かされていた。
「砂の中に引きずり込まれ、窒息するか、その重みに圧死する。そしてある日 ―――― 、忽然と現れたりもする。湧き水のほとりの、砂に紛れてぽかりと。駱駝も人間も等しく、真っ白に晒されたされこうべが」
 馬を駆る老人は、三蔵の返事を気にすることもなく、淡々と語り続けた。
「流砂は妖怪とて、等しく呑み込むだろう。人間も妖怪も、されこうべとなれば等しく、更に太陽に晒されるだろう」
 老人は、三蔵を振り返った。
 闇夜にも、瞳の力を感じられる。
 自分が三蔵に与えた薬物の効き目が薄れて来たのを感じ、安堵に微笑む。
 異教の若い聖職者の、本来の姿に戻りつつある。目蓋を閉ざせば少年めいた部分を残す顔が、こんなにも苛烈な眼の持ち主であったとは、思いも寄らなかった。
 この若々しい膚の下に自分と同じされこうべがあるにしても、それが晒されるのは、まだ遥か先、この若者が何かをやり遂げた、その後でなくてはならないのだろうと思った。

 気配を感じた三蔵が、剣を真横に向けた。
 ふたりの騎乗する馬は、岩盤の露出が長く高く続く、その崖際を駆けていた。険しい岩肌の、幾分緩やかな斜面を見つけ、駆け登る。
 峰まで登り切り、開けた視界には。

 砂漠の静寂を切り裂く咆吼。
 人馬の上げる砂煙。

 松明をくくりつけた空馬が遥か先を走り、それに続く妖怪の戦闘集団が奇声を発していた。
 火矢が囮の馬を掠め、一頭が転倒した。緩く縄で繋がれ、今まで走り通しに走って来た馬達が、縺れ合って転倒を続けた。
 悲痛な嘶きが響いた。
 妖怪の集団がそこに殺到し、馬にくくりつけられていたのが、偽装の荷であることに気付いた。
「時間稼ぎか!?」
 その間も、異常な興奮状態にある妖怪達の騎馬は暴れ続けた。後ろ足だった馬を制御しようとした妖怪が、切り立つ崖の上に灯りが灯ったことに気付いた。
 松明を掲げた騎馬だ。
 騎手が掲げた松明に照らし出されるのは、その後ろに騎乗した、金の髪をした……

「三蔵だ!!」
「三蔵法師が、あんな所に…!」
 火灯りを受けた金糸が、眩しく振られた。垣間見えた顔に浮かんだ、嘲笑。
「追え!捉えろ!!玄奘三蔵だ!今度こそ、引き裂け!」

 三蔵と老人の馬は、峰の上を走った。
 妖怪達からは、見上げる崖の上に位置していた。崖の腹は抉られ、馬で登るのは不可能だった。妖怪達は、自分達の駆る馬の狂乱が乗り移ったかのように、叫びを上げながら頭上の宿敵を追い、矢を射かけた。
 集中した矢は、雨の如く降った。
 三蔵は剣を振るい、降り注ぐ矢を薙ぎ払い続けた。
 下方から上方への攻撃であるから、弓勢は弱い。だが三蔵には、止まぬ雨に、慣れぬ馬上で振るう剣が、徐々に重たく感じられて来た。

『玄奘三蔵!』
『今度こそ…!』
 狂った音程で叫ばれる名が、自分の物であるらしいことが判った。
 三蔵は、その声音に呼び起こされる感情が、恐怖であることに気付いた。
 躯が怯える。

   『三蔵の、肉だあ!』
   『引き裂け!』
   『喰らい尽くせ!!』

 憎しみと嘲りの有りっ丈を、この名は受けたのだ。
 躯がばらばらになると思うほどの暴力を、この名の下に……。
 蘇った恐怖に背が強張りかけ、その瞬間に別の声を思い出した。

『三蔵』
『三蔵』
『 ―――― 三蔵』
『俺のこと、思い出せよ』
 真摯な、紅い瞳。
「……クッ!」
 弾いたやじりが、小さく火花を散らした。
「もう少し。もう少しで、流砂地帯に到着する。それまで持ちこたえてくだされ」
 松明の、揺らぐ灯りだけで足場の悪い峰を駆る不安定に、馬も恐怖を感じているらしく、老人は手綱をさばくのに必死だった。
 三蔵は舌打ちし、剣を振るう右腕に力を込め直した。空いた左手が自分の鳩尾を探り、その空虚を、驚愕に近い意外と感じたことに、後から気付いた。
 苛立った。
 苛立ちが、混乱を招かずに言葉に出た。
『クソッ!』
 微かに涸れた声音に、三蔵は自分で驚いた。今まで言葉を発しようとする度に感じていた、喉を絞められるような圧迫感が、緩やかなものになっていた。
『……!』
 続けて、何を言おうと思ったのか。誰を呼ぼうと思ったのか。
 三蔵は自分でも判らずに、また苛立った。

「………!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!クソッ!!………」
 背後で連発して叫び、その度に剣を振るう三蔵に、老人が笑った。

 どのくらい、剣を振り続けていたのだろう。
 三蔵が、叫び続けの喉が砂にひりつき、もう剣を持った腕を上げるのも難しく、それどころか馬上で背を伸ばすことにすら疲労を感じるようになった頃。

「 ―――― この、クソ……ッ!!」
 誰かの名を、明確に呼びたいと思った、その時。

 砂煙舞う夜空を、真っ白い輝きが切り裂いた。
 ジープのライトだった。

 エンジンが吼え、ジープは猛スピードで馬達を追い上げた。
 ハイビームのライトが、辺りを切り裂くように輝いた。
 強烈な光に照らされた視界は、暗闇に再び順応するまでに時間を必要とした。妖怪の騎馬は狂乱から一気に恐慌状態に陥り、制御を受け付けなくなった。
 駆けた。
 あぶくを吹きながら、見えぬ目で駆けた。
 そして妖怪のうちのひとりが、騎馬の足の進みが今までと変化したと気付いた、その時には。

 砂が流れ。

 蹄が捉えられていた。 

 がくりと落ちた速度を、馬は受け止められなかった。
 つんのめるようにバランスを崩し、倒れた。
 騎乗していた妖怪が投げ出された。
 落馬した妖怪の上に、自重の何倍もの重量を持つ馬の躯が倒れた。
 重なる躯は、押し潰され、ひしゃげた。
 潰れた。
 脚を骨折した馬が、もがき起き上がろうとした。
 その上に、悲鳴を上げるように嘶く馬が、横倒れた。
 それが続いた。

 百名近い妖怪と、百頭近い騎馬が、砂に埋もれつつあった。
 最後に妖怪を追い込んだ、ジープに乗り込んだ八戒、悟浄、悟空はただ黙ってその光景を見つめた。崖から俯瞰していた老人と三蔵は、呻いた。
 砂に埋もれ行く誰もが、深く埋まれば埋もれる程に、甲高い悲鳴を上げて行った。
 圧倒的な重量の砂に呑まれ、身動きもままならずに押し潰されて行く、恐怖の声だった。
 妖怪も動物も人間も区別ない、紛れもない断末魔だった。

 だから。

 その阿鼻叫喚中で矢を射た妖怪が、その時何を考えていたのか、誰も知らない。
 紅孩児率いる妖怪帝国の夢を見ていたのか、それとも単なる私怨から射たものか。
 誰も知らない。

 矢音が後を引いていたと、三蔵は時が経ってから思い至った。
 矢を腹部に受け、老人は驚いたようにそれを見、ゆっくりと躯から力を脱いた。
 鉄片と木片が腹膜を突き破る苦痛よりも、それを待ち兼ねていた歓びの表情で、自分の腹に生えた矢柄を見た。
 落馬しかける老人を、三蔵は背後から抱きかかえた。
「 ―――― !!」
 言葉にならない怒りを、三蔵は双の眼に溢れさせていた。
「申し訳、な…」
 言い終わる前に老人は、三蔵を突き離すと自ら鐙から足を抜き、崖下に飛んだ。

 三蔵は即座にそれを追い、白いヴェールの端が、落下する躯に尾のように従った。

「三蔵ォォォォォ!」

 悟空が叫びながらジープを飛び降りようとするのを、悟浄が肩を掴んで止めた。
「このバカ!たった今見たろーが!?」
 現在進行形で砂に呑み込まれつつある、妖怪の集団を指さす。
 悟空は一瞬悟浄を見、また振り返った。三蔵の落下地点を、探す。
 崖下に蹲る、夜目にも白く浮かび上がる一点。
 それが、動いた。起き上がった。
「ア……ア」
 思わず洩れた吐息は、悟空のものだったか、悟浄のものだったか、それとも八戒のものだったか。ジープがパッシングしたのは、八戒の誤操作だったのか。
 三蔵の許へ。
 旅の同行者三名を乗せたジープは、残りのひとりを回収する為に、また走り出した。

 流砂の一帯を大きく迂回し、三蔵に近付く。
 未だ砂に呑み込まれ続ける妖怪と馬の、助けを呼ぶ声を聞きながらジープを走らせる。
「……オイ、八戒」
 続く声音に気鬱そうな表情をしていた八戒の肩を、悟浄は揺さぶった。
「…オイ!三蔵、流砂に呑まれてるぞ!?」

 砂が流れていた。
 三蔵はそれに気付き、やはり舌打ちをした。
 老人の躯を宙で抱き、三蔵は腹に刺さっていた矢を引き抜いた。落下の衝撃で、矢が何処を傷付けるか判らなかったからだ。腹壁から矢が抜かれた瞬間に、血が飛沫いた。
 舌打ちをする間もなく崖の土手っ腹に躯を打たれ、そこから転がり落ちるのに、碌に受け身を取る事もできなかった。
 躯の下でゆっくりと流れる砂に気付き、三蔵は慌てて老人の胸に手をやった。
 呼吸を確かめた。
 浅く早い呼吸。生きている。
 続いて傷口に触れ、匂いをかいだ。
 まだ溢れ続ける血液の、鉄の匂いがした。内臓を傷付け溢れた、内容物の、ではない。
 傷が塞がり、流れた血液を時間をかけて取り戻せば、生き延びる。
 この程度の傷口ならば、………が、すぐに。安堵を伴う判断。

「!」  ダレガ、ナニヲ

 じれったさに、また苛立った。
「……クソッ!」
 老人のマントを引き剥がし、広げた。マントの上に老人を引き上げる。
 少しでも砂に呑まれるのを遅らせることが出来れば。
 砂にかかる体重を分散させることが出来れば。
 流砂の流れに移動しながら、僅かでも時間を稼ぐことが出来ればと思った。
 砂に沈むまでの時間を、自分は遅らせることが出来れば、それでよいのだと思った。
 砂に突いた脚が吸い込まれそうになり、圧迫する重みを必死で蹴りながら、そう思った。
 同時に、また苛立ちが襲った。
 遅い。
 いつもながら、遅い。
 紛れもなく、自分にとっては慣れた、腹立たしさだった。

『三蔵!!』

 金属の擦れる音が近付き、咄嗟に腕を伸ばした。腕に銀の鎖が巻き付いた。
 ジープから駆け寄って来る、3人の男達。その中に、自分の名を呼び、癒すように背を抱いた、紅い髪の男がいた。紅い男の投げた鎖だった。
「三蔵っっ!?」
 少年の叫ぶのは、真から自分の名なのだと、感じた。
「鎖を躯に絡めて下さい!引き寄せます!」
 黒髪の青年が、焦慮を感じさせない実務的なことを言った。
 意識のない老人の胸元に鎖を巻き付け、それが脇の下にに完全に掛かることを確認した。埋もれかける自分達の躯を鎖に縋りながら掘り起こし、彼等に引き上げられるのを待った。
 言い慣れた言葉が、漸く三蔵の唇を動かした。
「オッセェ、ン、ダ・ヨ」













続く



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