三蔵の顔を覆うヴェールの、端が砂漠の風になびいた。
「我らは常に風上に。妖怪を挟んだ側の一隊も、風向きの真下には、絶対に回りはせぬ。我らは我らの持つ物の力を、充分承知しておる」
老人は、三蔵の頸に掛けたままだった守り袋を手に取り、中身を取り出した。
甘い香りの練り物の中に、干からびた草や、樹脂の欠片が混ぜ込んであるのが見えた。老人はそれを、腰から下げた鎖の先の、香炉に落とし込んだ。
妖怪を取り囲む男達の数多くが、同じ様な香炉を持ち、それを焚いている。
ゆら。
細く烟が立ち上り、風に吹き浚われて行く。
「ヴェールをしっかりと巻き付けて、決して吸い込んでくださるな」
三蔵は片方の眉を嫌そうに上げて見せつけ、ゆっくりとヴェールを巻き直した。
「弓矢の狂毒とは違った薬物だ。主に治療に使われる、薬草類と、少量のオピウム、ヘンプ……阿片と大麻」
老人の言葉が一旦途切れた。
「遥か故国から運び出した、数々の宝石、技巧を凝らした金銀細工、高価なスパイスは皆、奪われた。我らの手に残されたのは、これだけだった。これらが、我らを生き延びさせた」
背を向けた老人の声は、三蔵にはむしろせいせいと聞こえた。
せいせいと、淋しげな声だった。
「くべた阿片と大麻が、興奮に狂った馬に気付かせずに、妖怪達に殺戮の夢を見させながら、死地に追い込むだあろう。妖怪達は怨嗟の声を上げる間も、残されないだろう」
「貴重な医療品をもたらすことで、我らは密かに歓迎される客となった。そして、それを縁として、各地の部族間の商取引の仲介を受け持つことが出来るようになった」
三蔵は老人の胴に腕を回した。
老人の躯の前でベルトに固定された、貴石をはめ込んだナイフを抜いた。
「お若い方。あなた様に持たせた匂い袋の中身は、緩効性に処方された薬物。緩やかに揮発し、精神に作用するように調合されたもの。極弱いその作用は、例えば屋内に始終燻らせて吸い込んだり、……ヴェールの中に漂わせ、長く浸り続けなければ効果のないようなもの」
三蔵の白い手が上がった。
白い手に握り込まれたナイフに、火矢に上がる小さな炎が映り込むのを、老人は見た。
「頭部に受けた衝撃で、混濁した意識の中にいたあなた様に、軽い運動麻痺を起こし、精神や神経に抑制の効果を与えた。幻覚と共に、暗示を与えた。記憶の混乱が続くように、それを取り戻す意欲を起こさぬように。軽い言語障害の、快復が遅れるように」
ナイフが老人の頭上で輝いた。
「聖職にあるあなた様が、戒を犯し、異国の民と共に過ごすことを、望んでくれるように」
三蔵の腕が真横に振り下ろされた。
ナイフは、物陰に潜んでいた妖怪の首に、深々と突き刺さった。
倒れた妖怪の影から、もうひとりの妖怪が逃げ、矢の雨をかいくぐって闇に紛れた。
「妖怪共によそ見をさせてはならぬ。空馬の囮では、足らぬか…」
老人の傍に控えていた若者が、妖怪の首からナイフを抜き取り、老人はそれを受け取ると、馬を一頭と剣をひと振り、持って来るよう指示した。
そして近くにいた、壮年の男に呼びかけた。
「そして、今からお前が指揮を執りなさい」
老人の言葉に、周囲がざわめいた。
「降りなさい、お若い方。今度こそはお別れだ。わたしは、囮に向かおうと思う」
三蔵を、静かな青い眼が見つめた。
「あなたが今振り下ろしたナイフで、命を絶たれたのがわたしでも、何の不思議もなかった。見逃して貰った命を、皆が生き延びる為に使いたい」
挟撃側に残れば生存の確率が高いのだからと、老人が言った。
だから三蔵は、ここに残れと。
若者が引いてきた馬と、細身の剣を、三蔵は見た。
傲慢そうに剣には手を伸ばしたが、老人の馬からは降りようとしなかった。
「オ…レ、ニ」
掠れた、苦しげに途切れがちになる声が、三蔵の喉から漏れた。
「指シ図、ス・ル・ナ」
三蔵は片頬を引き上げ、鋭く剣を振るった。剣は空を切り、そのまま切っ先が老人の首に宛てられた。
「長!」
「長!?」
三蔵に青龍刀を向けようとする男達を、老人が掌を向けて抑えた。
「金の髪のお若い方。どうあっても、わたしひとりを死なせてはくださらぬか。どうしても生き延びよと…?」
諦めたように笑う老人を見て、三蔵は鼻をひとつ鳴らして、剣を下ろした。
「従いましょう。人生の最後に現れた、あなた様と、赤い瞳のお客人。おふたりを謀った罪を、従うことで贖えるのならば」
手綱を引くと、老人と三蔵の騎馬が高く嘶き、前脚で宙を掻いた。
急な動きに、三蔵は老人の胴にしがみついた。
「振り落とされないでくだされよ!」
老人が腹を蹴ると、騎馬が軽やかに駆け出した。
残された者達は暫く三蔵の金糸の後ろ姿を眺め、やがて慌ただしく動き始めた。
「毒矢と香を、もっと!奴らを狂わせ、真夜中の蜃気楼を見せてやれ!」
荷を積んだ駱駝と、異国の女達の集団だった。
護衛の男が誰何の声を上げる前に、ひとりの娘の騎乗する駱駝が走り出た。
「お客人!紅い髪のお客人!」
悟浄を呼んだのは、三蔵に付き添っていた、金髪の娘だった。
器用に足で駱駝を駆り、ジープに近付く。
娘は包みを胸に抱きしめていた。
「金の髪のお方は、他の男達と共に妖怪との闘いの場に向かいました。砂漠の流砂に、妖怪達を追い込むために、長と…祖父と行動を共にしている筈です」
娘の言葉を聞き、三人は場違いと判りながらも笑った。
記憶を失っても変わらない、最前線に立つことを厭わぬ、最高位の僧侶らしからぬ行動に安堵の笑いを漏らした。
「らし過ぎて、もう…」
呆れたような声を出しながら、八戒のシフトレバーを握り込む掌は、妙に楽しげだった。
エンジンを吹かし上げたジープに近寄った娘は、悟浄に包みを手渡した。
そっと。
何より大事な物を預けるように。
包みを手放す瞬間、指を震わせて。
三蔵の小銃と、魔天経文だった。
娘と目の合った悟浄は、娘が期待していることを、感じ取った。
聖典が奇跡を起こすことを娘も期待しているのだと、判ってしまった。
「これを、あのお方に」
揺れる声に、娘の思慕が洩れた。
流浪の民について、八戒の言っていたことが本当だったとしたら、三蔵の相手はこの娘だったのかもしれなかったのだと、悟浄は気付いた。
聖典の奇跡で記憶と言葉を取り戻せば、二度と三蔵は自分達一族の許へは戻ってこないのだと。理解しながらも、それでも ――――
「私にはもう、祈りを捧げても聞き届ける神はいません。それでも心は願ってしまうのです」
「どうか、あのお方が、全きお心を取り戻されますように。あのお方の為にも、祖父の為にも」
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