長い旅に連れ出すことも叶わず、生存の伝を探ることすら不可能になってしまった、真白の膚、銀の髪に深紅の瞳の、異形に生まれついた少女。
ごく稀に、体中の色素を持たぬ者が生まれることがある。
生まれ落ちた時から孤立を運命付けられていたその少女を、愛していたのだと。
どうしても連れ出すべきだったのだと、今になって切実に思う。
人生の最後になって、果てしない喪失感に打ちのめされそうだった。
『イ ―――――――――――― 、イ イイイイイ――――――――― 、
イア アアァァァァ―――――― ……』
馬の背に揺られながら、束の間の夢を見ていたことに老人は気付いた。
女達の詠唱が細く高く響き続ける。
神に捧げる、平穏と生存を祈る詠唱が、闇を縫って砂漠に吸い込まれ消え行く。
「何と儚い…」
老人が口に出すと、繋いで併走していた駱駝に乗っていた人物が振り向いた。
星明かりに金の髪が輝く。
「…我らの神は、既にこの世に存在しない。届かぬ祈りの、何と儚いことか」
金の髪がさらりと揺れた。
『元から神々はそんなモノなど気にはしない』
そう聞こえた気がして、老人は目を大きく開いた。
気の所為だった。金の髪の稀人は、今だ口を利けない。
それでも ――――
明確な意志が、暗い紫玉の瞳には宿っていた。
『祈りの言葉は、それを口に出す者、聞き届ける者のみに意味がある』
伏せた睫毛に、瞳が隠された。
『イ ―――――――――ィィィ ア ―――――――――アアアァァァ ……』
詠唱に耳を傾け目を閉じる三蔵に、長と呼ばれる老人は黙礼し、また前を向いた。
金の髪の若い稀人を、紅い髪の青年が迎えに来た。紅い髪、紅玉の瞳の青年が。
活き活きとした青年の瞳は、少女の瞳とは全く別のものだった。それでも即座に連想するくらいには近かった。
躯を流れる血の色。
心臓を突き刺されれば流れ出る、深紅。
「…滅ぼされた国で生き延びるほどの強さも、過酷な砂漠の放浪に堪えられる程の逞しさも、願うことすら叶わない儚さだった。それでも、我が身を流れる血潮と同じ色を…忘れることなど出来よう筈が、始めからなかったのだ」
紅い髪、紅い瞳の客人は、今どれ程の思いを抱いているのだろう。
老人は、星明かりに照らし出された、金の髪の稀人に目をやった。
彼を護り包んだ柔らかなヴェールは、いつの間にか必要がなくなっていた。今は澄んで乾いた冷たい夜風が、滑らかな頬と金糸を撫でている。
「長!」
早足の駱駝が近付いてきた。
「長!…お祖父様!早駆けが…妖怪達が追って来たと…」
三蔵の世話を見ていた金髪の少女が、駱駝の背で息を切らせ叫んだ。老人は、素早く身近に控えていた男達に戦闘の指示を出し、自分の馬に繋いでいた駱駝の手綱を娘に手渡した。
「…このお方をお護りして、逃げなさい」
三蔵を見た娘は、息を呑んだ。
「…ヴェール」
三蔵は、駱駝の背に掛けた荷袋から、丁寧に畳んだヴェールを取り出して、娘に差し出した。
「長」
「ジィでよい」
娘の困惑気味の表情を見て、老人は目元を和らげた。
「『奪うな、殺すな、犯すな』。」
「世界中の、ありとあらゆる神が禁じることを、わたしはしてしまったのだ。わたしは、このお若い方の魂を奪い、殺し、犯した」
老人は駱駝に騎乗する三蔵を見、三蔵はまっすぐ視線を返した。
「過酷な砂漠に住まう者の不文律を侵し、紅い髪のお客人に対して、真実でないことを言った」
「でも!お祖父様の仰った嘘は……たったの、ひとつ……」
「そう、たったひとつ。『経文は見なかった』。そのひとことで、お客人が命がけで妖怪の群に飛び込むと判っていて、わたしは謀った。砂漠の稀人を欺いた」
静かな声だった。
「海原の航海に生きる者と、砂漠の旅に生きる者の、不文律。『嘘を伝えてはならない』。たったひとつの嘘が、あまたもの命を消すことになる場所に住む者には、絶対に侵してはならない誓約。 ―――― それを、わたしは侵したのだ」
「神の理を侵し、人の世の誓いを侵した。天罰よ、人の裁きよ、下るならば、我が身我が命ひとつに ―――― 」
三蔵が動いた。
老人の、日差しを遮る分厚いが質素な衣服の布地の、襟首に掴みかかった。
「お祖父様!!」
急に首を引かれ息を詰まらせながら、老人は娘の叫びを遠く聞いた。間近に引き寄せられ、紫玉の瞳が苛烈なまでに輝くのを見た。
その瞳が片方だけ眇められ、唇の端が斜めに引き上げられた。
笑ったのだと。
冷たい程に整った貌の中で、唯一柔らかみを持った厚めの唇が、不敵な笑いを浮かべたのだと老人が気付いた時には、襟元からは手が離されていた。
次の瞬間、三蔵は老人の腕と鞍の端に手を掛け、馬上に乗り移った。
絶句する老人に向かって、三蔵は傲慢そうに顎をしゃくった。
『ススメ』
「…今度こそ、殺し合いの場になりますぞ…!聖職者の衣を着、神聖の証を額に受けたお方が向かう場所では、ござりませんぞ!我らは、一族が死に絶えるよりは、禁を犯して妖怪の血に手を染めようとも構いません。あなた様は……」
クッ…。
唇が、せせら笑った。
「…あなた様は…」
再び、三蔵が今度は些か苛立たしげに顎をしゃくった。
「お待ち下さい!」
二人の騎乗する馬の傍らに、娘が器用に足だけで駱駝を操り近付いた。娘からヴェールを差し出された三蔵が、眉を顰める。
「…今度は違います。今までは、あなたをくるんで護り、囲い込む為のヴェール。今度は…」
ふわりと、三蔵の口元を覆い、ヴェールを巻き付けた。
「香を、吸い込まないで下さいませ。お祖父様と…長と共にいるのであれば安全ですが、絶対に風下には回らないで下さいませ」
あっという間に騎馬が夜闇に紛れ、蹄が砂を蹴散らす音が小さくなり消えた。
「 ―――― あのお方は、自分の手を汚すことを避けずに来た方。傷付いていても、銃に馴染み切った掌の強さは、ひと目で判った。記憶をなくしても、闘いが起これば自ら赴く、戦神の精神を持つお方。……お祖父様がお考えを変えてくださった今になって………私は………」
夜風に声がさらわれ、娘は女達の元へと戻って行った。
夜襲に備え、逃げ切り、生き延びる為に。
抑えた八戒の声に、助手席の悟浄は苦々しげにハイライトのフィルタを噛んだ。
乾いた血液が茶色くこびり付いた顔で、悟浄は流浪の民の長との会話や、自分の見た三蔵の様子を話した。
三蔵が、天幕の群の中心に大事に匿われ、また、周囲の人々に敵意を向けられることもなく過ごしていたようだということも。自分の迎えの手を、記憶をなくして最初は撥ね除けたことも。
三蔵が妖怪の群に浚われ、どんな目にあったのかは口に出さなかったが、八戒は察したようだった。
喘ぐ細い躯を自分が抱き締めたのだとは、八戒に言えなかった。
「……或いは、麻薬の類」
「何だよ、それッ!クスリで三蔵の意志を奪ったってコトかよ!…絶対ェ殺す!」
後部座席から乗り出した悟空が叫ぶ。
「悟空。」
八戒が苦笑した。
戦闘能力の高さと殺戮の欲求は、必ずしも合致するものではない。悟空は、只の人間を殺すことは出来るのだろうか、と苦笑した。
―――― 三蔵の身に何かあれば、するのかもしれない。
ヒトが圧倒的な怒りと絶望の中で、躊躇いなく流血に身を投じることを、八戒は知っている。
悟浄が横目で眺めると、八戒はまた、苦く笑った。
「可能性ですよ。絶対じゃありません。…脳に損傷を負った場合、記憶喪失になったり、失語症になったりということは、実際にありますから」
砂丘を、ジープがバウンドした。
「記憶喪失や意識の混乱は、軽いものならば数日で治ることもあるし、失語症もリハビリを続ければ回復を望めます。三蔵が、悟浄が言った通りの軽傷ならば…」
「アタマに傷は、無かったと思う。外傷は、ってコトだがな」
「軽い怪我の意識の混濁を、麻薬や神経毒の類で回復を遅らせる…。若しくは暗示のかかりやすい状態にすることは、出来るかもしれません」
悟浄の唇の端から、洩れた紫煙が背後に流れた。
苦みの強いフレーバーが肺の奥まで染み通り、悟浄の脳裏に、横倒しの視界に青い瞳の老人が香炉を振りながら歩み寄る姿が、蘇った。
「甘ーい匂い、させてたわ。被ってたヴェールを捲った途端、匂い袋の香りが辺り中に拡がった。薬物だろーが、毒物だろーが、アヤシイお香だろーが…。クセえな」
「中和剤を持ってるかもしれませんし、却ってソッチの方がいいかもしれませんよ?」
「バカ」
夜の街で、フラッシュバックと呼ばれる、薬物中毒者の後遺症を見たことのある悟浄は、笑うことが出来なかった。
―――― だが、悟空の前でそれを口に出すこともない。
「お香っつか、元々抹香臭いのか。あいつが」
軽く吹くと煙草が唇から離れ、あっという間に離れて行く。
「 ―――― で?抹香臭い坊主を、更にヤク漬けにする理由は?」
「取り込みたかったのだと、思います」
「取り込む?」
「ええ。三蔵を。というか、この地にあっては異邦人である彼等が、自分達に近しい外見を持つ若い男性である、三蔵を」
悟浄の伝言を聞いた後、八戒と悟空はこの近辺のオアシスを片っ端から当たったのだという。
「…だからね、彼等の移動先も、ある程度は予想することが出来ます。彼等が、妖怪に殺されつくされずに、行き着くことが出来るのならば、ですが」
夜の砂漠を迷わず進む八戒の声が、尖った。
「怖えな、おい」
「充分自制してますよ」
アクセルを踏み込み、大地を蹴る。
3人全員の気の焦りを、ジープに乗り移らせたような走行だった。
「幾つかオアシスの集落を回るうちに、彼等の話を聞きました。何十年も昔に桃源郷までやって来て、遥か遠い故国は、神の名を冠した軍隊に踏みにじられ、占領されてしまったのだと」
神の名を称え、繰り返される殺戮。
異教徒の屍を積みかねることで信仰の証を示す。
聖地を奪い、奪回し、また奪い返す。
神を称える道の半ばに倒れた者を聖人と呼び、聖人の遺した物を聖遺物と呼ぶ。
聖人の徳を偲び、聖遺物を奪い合い、幾度もそれは、繰り返される ――――
「遥か西の果てから来た彼等には、もう戻る国は地上にはないのだそうです。外見の差から地域に馴染むことも難しく、彼等も風習の違う土地に長く住むこともしなかった。…何より、数少ない同胞が散らばることを避けて、集団で放浪を続けていた。外部の血が混ざるのを好まず、生まれる子も少なくなりして行ったのだ、と。そう聞きました」
「 ―――― 『こうも血が濃くなっては、命は細って行くばかり』。…そんなことを言ってたな、ジジィは」
そして、
『戻る術はあっても ―――― 』
金髪の娘の肩に、愛しげに掌を重ねた。
老人には、既に戻る故郷はなく、そしてあの娘は、戻るべき故郷を知らない。
悟空が黙ったままなのに気付き、悟浄は声を掛けた。
「…サルが。辛気臭え面してんじゃねーよ」
「誰が辛気臭いんだよ!河童と一緒にすんじゃねえよ!」
即座に返され、悟浄は笑いながら新しい煙草に火を着けた。
「…だから三蔵が欲しかったんじゃないかと思います。新たな血を入れる為に、閉鎖的な一族が旅人を受け入れ、また送り出す。或いは一族の中に取り込む。この桃源郷にあっては異邦人である彼等にとって、三蔵は数少ない機会だったんじゃないかと」
八戒の言葉を、悟空は後部から立ち上がったまま聞いていた。
「八戒。…俺、それでも嫌だ。誰かを弾き出すのも、弾かれるのも嫌だし、弾かれたままでいるのも嫌だ。誰かを弾くのを見てるのも。…でも俺、どんな理由があっても、三蔵を取り返したい」
運転をしながら、八戒はミラーではなく直接に、ちら、と悟空を振り返った。
悟浄は、ハイライトを深く吸い込み、また吐き出す。
「……三蔵は、三蔵でなきゃ駄目だ。三蔵が望むんなら、三蔵がどこにいても構わない。どうせ俺は、天の果てまで付いてくだけだから」
悟空はジープの進路に瞳を向けていた。
「三蔵が何かする時には、それは三蔵の意志でなくちゃ駄目だ。誰かの思惑の中の三蔵なんて、そんなの駄目だ。俺は……!」
シートの背を鷲掴んだ指に、力がこもった。
悟浄と八戒が悟空を見た。
「三蔵を取り返す。」
「バカは素直でいいねえ」
「…バカしかいないんじゃないですか、ウチって?」
悟空は真っ直ぐ腕を上げた。
強い指が、遙か彼方を指し示す。
「 ―――― 八戒!ほんのちょっと右の方!」
僅かに、夜空が明るんでいるように見える。
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